人間の脳は、生まれてから数年間で急速に発達します。この期間に、私たちは言語を習得し、周囲の世界を理解していきます。しかし、聴覚に障害がある子どもたちは、音声言語へのアクセスが制限されるため、言語習得に困難を抱えることがあります。このような状況が脳の発達にどのような影響を与えるのか。ワシントン大学のQi Chengらの研究チームは、この問いに答えるべく、アメリカ手話(ASL)を使用する聴覚障害者の脳構造を詳細に調査しました。

2023年に発表されたこの研究は、言語経験が脳の発達に与える影響を明らかにし、聴覚障害児の言語教育に新たな視点を提供しています。

研究の背景

言語習得と脳の発達の関係については、これまでにも多くの研究が行われてきました。特に、子どもが受ける言語入力の量や質が言語発達に影響を与えることは、様々な研究で示されてきました。しかし、言語経験が脳の構造的な発達にどのような影響を与えるかについては、十分に解明されていませんでした。

Chengらの研究チームは、この問題に取り組むために、聴覚障害者を対象とした研究を行いました。聴覚障害者、特に幼少期に手話に触れる機会が限られていた人々を調査することで、言語経験の制限が脳の発達にどのような影響を与えるかを明らかにしようとしたのです。

研究方法

研究チームは、22人の聴覚障害者を対象に調査を行いました。参加者は全員がASLを主な言語としていましたが、ASLに日常的に触れ始めた年齢は0歳から14歳までと幅がありました。比較対象として、21人の聴者(手話を使用しない人)も調査に加えました。

研究者たちは、MRIを使用して参加者の脳の構造を詳細に観察しました。特に、言語処理に関わる脳領域の灰白質の体積や皮質の厚さなどを測定し、ASLに触れ始めた年齢との関連を分析しました。

主な発見

1. 言語領域の構造変化

研究の結果、幼少期の言語経験の制限が、成人後の脳の言語関連領域の構造に影響を与えることが明らかになりました。具体的には、ASLに触れ始めた年齢が遅いほど、左半球の下前頭回(ブローカ野)と後部中側頭回の灰白質の体積や皮質の厚さが減少する傾向が見られました。

これらの領域は、言語の文法処理や語彙アクセスなど、言語の核心的な機能を担っています。この発見は、幼少期の言語経験が、言語処理に重要な脳領域の発達に直接的な影響を与えることを示唆しています。

2. 両半球での影響

興味深いことに、言語経験の影響は左半球だけでなく、右半球の一部の領域にも見られました。特に、右半球の上側頭回後部と角回腹側部で、同様の構造的変化が観察されました。

これは、言語処理が主に左半球で行われるという従来の理解に新たな視点を加えるものです。幼少期の言語経験が、両半球の言語関連領域の発達に影響を与える可能性を示唆しています。

3. 言語モダリティの影響

研究チームは、生まれた時からASLに触れていた聴覚障害者と、音声言語を使用する聴者の脳構造も比較しました。その結果、これら二つのグループの間に有意な差は見られませんでした。

この発見は、言語の形態(手話か音声言語か)よりも、適切な時期に言語に触れることの方が重要であることを示唆しています。言語の本質的な処理は、その形態に関わらず、同じ脳領域で行われているようです。

研究の意義

この研究は、幼少期の言語経験が脳の構造的発達に与える影響を、具体的なデータで示した点で非常に重要です。特に以下の点で、大きな意義があると言えるでしょう。

1. 早期言語介入の重要性

研究結果は、聴覚障害児に対する早期の言語介入の重要性を裏付けています。音声言語へのアクセスが制限される聴覚障害児にとって、手話などの視覚的言語を早期に導入することの重要性が、脳科学的な観点から示されたと言えます。

2. 言語習得の臨界期

言語習得には「臨界期」があるという考えがありますが、この研究はその考えを支持するものとなっています。脳の言語関連領域の発達には、適切な時期に十分な言語刺激が必要であることが示唆されています。

3. 手話の言語としての位置づけ

手話と音声言語が脳内で同様に処理されているという発見は、手話が音声言語と同等の言語であることを神経科学的に裏付けるものです。これは、手話教育の重要性を主張する上で、有力な根拠となるでしょう。

研究の限界と今後の課題

この研究には、いくつかの限界もあります。例えば、参加者の数が比較的少なく、特に生まれた時からASLを使用している聴覚障害者のグループが8人と少なかった点が挙げられます。また、参加者の社会経済的背景など、言語経験以外の要因の影響を完全に排除することは難しいでしょう。

今後の研究では、より多くの参加者を対象に、長期的な追跡調査を行うことが望まれます。また、言語経験が脳の機能的なネットワークにどのような影響を与えるかについても、さらなる研究が必要でしょう。

まとめ

Chengらの研究は、言語経験が脳の構造的発達に与える影響を明確に示しました。この成果は、聴覚障害児の言語教育に新たな科学的根拠を提供するとともに、人間の脳と言語の関係についての理解を深めるものです。

今後、この研究成果が聴覚障害児の教育政策や支援方法の改善に活かされることが期待されます。同時に、すべての子どもたちに豊かな言語環境を提供することの重要性を、社会全体で再認識する契機となるかもしれません。

言語は人間のコミュニケーションや思考の基盤です。この研究は、その言語を支える脳の発達メカニズムの一端を明らかにしたという点で、言語学、神経科学、教育学など、多くの分野に影響を与える重要な成果だと言えるでしょう。


Cheng, Q., Roth, A., Halgren, E., Klein, D., Chen, J.-K., & Mayberry, R. I. (2023). Restricted language access during childhood affects adult brain structure in selective language regions. Proceedings of the National Academy of Sciences, 120(7), e2215423120. https://doi.org/10.1073/pnas.2215423120

By 吉成 雄一郎

東海大学教授。コロンビア大学大学院ティーチャーズカレッジ(英語教授法)、信州大学大学院工学研究科(情報工学)修了。東京電機大学教授を経て現職。専門は英語教授法、英語教育システム開発。 さまざまな英語学習書、英検、TOEIC 対策書、マルチメディア教材等を手がけてきた。英語e ラーニングや英語関係の教材・コンテンツの研究開発も行う。全国の大学、短期大学、高専等で使われているe ラーニングシステム「リンガポルタ」も開発した。最近ではAI による新しい教育システムの開発にも着手している。