本書Reading in the Brain: The New Science of How We Read(「脳と読書 – 文字が脳を進化させる」)は、認知神経科学者のスタニスラス・ドゥアーヌが、人間の脳がどのように文字を認識し、読書を可能にしているのかを解き明かした画期的な著作です。人類が発明した文字と、それを読む能力は、私たちの認知能力を大きく拡張させました。しかし、進化の過程で人間の脳は「読書」のために特別に設計されたわけではありません。では、どのようにして私たちは読書を可能にしたのでしょうか。
読書を可能にする脳の仕組み
著者によると、人間の脳には「文字認識装置(レターボックス)」と呼ばれる特別な領域が存在します。この領域は、左半球の後頭側頭領域に位置し、文字の形を認識し、それを音声や意味に変換する役割を担っています。
興味深いことに、この領域は世界中のすべての読者で同じ場所に存在します。アルファベットを使う英語圏の人々も、漢字を使う中国人も、アラビア文字を使うアラブ人も、同じ場所で文字を処理しているのです。
脳の再利用という考え方
本書の核心は「神経回路の再利用」という考え方です。人間の脳は、もともと読書のために進化したわけではありません。しかし、物体認識や顔認識のために存在していた神経回路を「再利用」することで、文字の認識を可能にしたのです。
これは非常に重要な発見です。なぜなら、文字の発明からわずか5000年程度しか経っていない人類が、遺伝的な変化なしに読書を可能にした仕組みを説明できるからです。
読書と学習障害
本書は、ディスレクシア(読字障害)についても詳しく解説しています。ディスレクシアは、知能が正常であるにもかかわらず、読み書きに困難を抱える状態を指します。著者は、最新の脳科学研究に基づいて、ディスレクシアの原因や治療法について論じています。
特に重要なのは、ディスレクシアが単なる「怠け」や「努力不足」ではなく、脳の機能的な問題であることを明確に示している点です。同時に、適切な訓練によって症状を改善できる可能性も示唆しています。
教育への示唆
本書は、読書教育に対して重要な示唆を与えています。特に、「全語法」と呼ばれる教育方法への批判は注目に値します。全語法は、単語を丸ごと視覚的に記憶させる方法ですが、著者は脳科学の観点からその非効率性を指摘しています。
代わりに、文字と音の対応関係を明示的に教える「フォニックス」教授法の有効性を主張しています。これは、脳の文字認識メカニズムと合致する教授法だとされています。
文化と脳の関係
本書は、単なる読書の科学的解説にとどまりません。より広く、人間の文化と脳の関係について考察を展開しています。著者は、数学、芸術、宗教など、他の文化的発明についても同様の「神経回路の再利用」が起きている可能性を示唆しています。
特に注目すべきは、人間だけが高度な文化を発展させた理由についての考察です。著者は、前頭前野の発達と「全脳的作業空間」の存在が、人間特有の文化的創造性を可能にしたと主張しています。
読書の意義の再発見
本書は、私たちが当たり前のように行っている読書という行為の驚くべき特質を明らかにしています。読書は、視覚、言語、記憶など、様々な脳機能を統合する複雑な認知活動です。それを可能にした人類の知恵と、脳の柔軟性には目を見張るものがあります。
まとめ
本書は、最新の脳科学研究に基づきながら、読書という人類の偉大な文化的発明について包括的な説明をしています。専門的な内容を含みながらも、わかりやすい説明と豊富な具体例で、一般読者にも読みやすい構成となっています。
特に重要なのは、本書が提示する「神経回路の再利用」という考え方です。これは、生物学的進化と文化的発展の関係について新しい視点を提供するものといえます。また、教育実践への具体的な示唆も含まれており、教育関係者にとっても示唆に富む内容です。
読書がどのように可能になったのかを理解することは、人間の認知能力の本質を理解することにつながります。本書は、その意味で、人間の心と脳を理解するための重要な手がかりを提供しているといえるでしょう。
人工知能やデジタル技術が発達する現代において、読書の意義を科学的に解明した本書の価値は極めて高いと言えます。読書教育に携わる人々はもちろん、広く教育や文化に関心を持つ人々にぜひ読んでほしい一冊です。