言語習得の研究において、年齢と学習能力の関係は長年議論の的となってきました。Naif Alsaedi氏による本論文”Delayed Exposure to Second Language Acquisition: The Robustness of Critical Period Hypothesis and the Limitations of the Plasticity Theory”は、この問題に新たな視点から光を当てています。

Alsaedi氏はサウジアラビアのタイバ大学で応用言語学の助教授を務めており、外国語学習・教育を専門としています。本研究では、第二言語習得における「臨界期仮説」と「脳の可塑性理論」という2つの重要な概念を詳細に検討し、従来の理解に疑問を投げかけています。

臨界期仮説とは

論文の前半では、言語習得における臨界期仮説について説明しています。この仮説によると、言語を母語レベルで習得できる時期は限られており、その時期を過ぎると完全な習得は困難になるとされています。

Alsaedi氏は、この仮説を支持する証拠として、言語的に孤立した環境で育った子どもの事例を挙げています。特に有名な「ジーニー」の例では、13歳まで極端な言語的剥奪状態にあった少女が、その後の言語教育でも文法の習得に大きな困難を示したことが述べられています。

第二言語習得への応用

臨界期仮説は第二言語習得にも適用され、成人学習者が母語話者レベルの能力を獲得することは極めて稀であるという観察と一致します。Alsaedi氏は、多くの研究がこの見解を支持していることを指摘しています。

脳の可塑性理論とその限界

論文の後半では、臨界期仮説を説明するものとして長く受け入れられてきた「脳の可塑性理論」に焦点を当てています。この理論では、幼少期の脳は非常に柔軟で、経験に応じて構造を変化させることができるが、年齢とともにその能力が低下すると考えられてきました。

しかし、Alsaedi氏はこの理論に疑問を呈しています。最新の神経科学研究によると、成人の脳も従来考えられていたよりもはるかに可塑性が高いことが明らかになっています。脳画像技術の進歩により、成人の脳も経験や学習に応じて構造を変化させ、新しい神経連絡を形成できることが示されています。

脳卒中からの回復や、バイリンガルの脳の特徴に関する研究結果は、成人の脳の可塑性を示す証拠として挙げられています。これらの知見は、脳の可塑性の低下が第二言語習得の困難さを説明する十分な理由にはならないことを示唆しています。

新たな疑問の提起

Alsaedi氏の研究は、言語習得研究の分野に重要な問いを投げかけています。もし成人の脳も高い可塑性を保持しているのであれば、なぜ第二言語の習得は年齢とともに困難になるのでしょうか。この問いに対する明確な答えはまだ見つかっていません。

Alsaedi氏は、この問題の解明が言語習得研究や教育の分野に大きな影響を与える可能性があると指摘しています。成人の言語学習能力についての理解が深まれば、より効果的な言語教育方法の開発につながるかもしれません。

考察と今後の展望

本論文は、言語習得研究の分野に新たな視点をもたらしています。臨界期仮説と脳の可塑性理論の再検討は、言語習得のメカニズムについての我々の理解を更新する必要性を示唆しています。

Alsaedi氏の研究は、次のような重要な点を浮き彫りにしています:

1. 従来の理論の再評価の必要性

長年受け入れられてきた理論も、新しい科学的知見に基づいて常に検証される必要があること。

2. 学際的アプローチの重要性

言語習得研究は、神経科学や認知科学など他分野の知見を積極的に取り入れることで、より包括的な理解に到達できる可能性があること。

3. 実践への応用

理論の見直しは、言語教育の実践にも影響を与える可能性があること。成人の学習能力に対する理解が深まれば、より効果的な教育方法の開発につながるかもしれないこと。

4. 新たな研究課題の提示

年齢と言語習得の関係について、これまでとは異なる角度からの研究が求められていること。

おわりに

Alsaedi氏の研究は、言語習得における年齢の役割についての我々の理解に再考を促すものです。臨界期仮説の妥当性を認めつつも、その背にある脳の可塑性理論には疑問を投げかけています。

この研究は、言語習得のメカニズムについてまだ解明されていない点が多いことを示唆しています。今後、神経科学や認知科学の進歩と連携しながら、言語習得研究がさらに発展していくことが期待されます。

Alsaedi氏の問題提起は、言語教育の実践者や政策立案者にとっても重要な示唆を含んでいます。成人の言語学習能力に対する理解が深まれば、生涯学習や多言語社会への対応といった現代的課題への取り組みにも新たな視点をもたらす可能性があります。

本研究は、言語習得という複雑な現象に対する我々の理解がまだ発展途上であることを示しています。同時に、この分野にはまだ多くの発見の余地があることも示唆しています。Alsaedi氏の研究が、言語習得研究の新たな方向性を示す一歩となることが期待されます。


Alsaedi, N. (2023). Delayed Exposure to Second Language Acquisition: The Robustness of Critical Period Hypothesis and the Limitations of the Plasticity Theory. Theory and Practice in Language Studies, 13(12), 3149-3156. https://doi.org/10.17507/tpls.1312.12

By 吉成 雄一郎

東海大学教授。コロンビア大学大学院ティーチャーズカレッジ(英語教授法)、信州大学大学院工学研究科(情報工学)修了。東京電機大学教授を経て現職。専門は英語教授法、英語教育システム開発。 さまざまな英語学習書、英検、TOEIC 対策書、マルチメディア教材等を手がけてきた。英語e ラーニングや英語関係の教材・コンテンツの研究開発も行う。全国の大学、短期大学、高専等で使われているe ラーニングシステム「リンガポルタ」も開発した。最近ではAI による新しい教育システムの開発にも着手している。