本書Conceptual Transfer in the Bilingual Mental Lexicon (バイリンガルの心的辞書における概念転移)は、二言語を操る人の心の中で概念がどのように処理され転移されるかを探求した研究書です。著者のSherif Okashaは、言語学、心理学、認知科学などの分野の知見を統合し、バイリンガルの心の中の「メンタルレキシコン」(心的辞書)の仕組みを解明しようと試みています。
特に焦点を当てているのは「抽象名詞」の処理です。具体的な物を表す名詞と違い、抽象的な概念を表す名詞がどのように認識され、二つの言語間で転移されるのかを詳細に分析しています。
理論的基盤の構築
著者は最初に、概念に関する哲学的・論理学的な議論を丁寧に整理しています。アリストテレスにまで遡り、古典的な概念論から現代の認知心理学的アプローチまでを概観しています。
特に重視しているのが「古典的見解」です。これは概念を「必要十分な特徴の集合」として捉える考え方です。この見方には批判もありますが、著者は慎重に検討した上で、修正を加えつつこの立場を擁護しています。
著者の主張は、古典的見解を認知的に再解釈することで、抽象概念の分析に有効な枠組みが得られるというものです。具体的には、概念の「拡張」(extension)と「型」(type)を区別することで、抽象概念の構造をより精緻に捉えられると論じています。
バイリンガルの心の探究
本書の核心部分は、英語とアラビア語のバイリンガル話者を対象とした実験的研究です。著者は、概念処理に関する以下のような仮説を立てています:
1. 概念の「拡張」は「型」よりも処理が速い
2. 典型的な事例ほど処理が速い
3. 一言語話者の反応と二言語話者の反応には相関がある
これらの仮説を検証するため、著者は様々な巧妙な実験を行っています。例えば、概念名を与えて関連する語を挙げてもらう産出課題や、単語の翻訳時間を測定する課題などです。
結果は概ね仮説を支持するものでした。「拡張」は「型」よりも素早く処理され、典型的な事例ほど反応が速いことが示されました。また、一言語話者の反応パターンと二言語話者の反応パターンには高い相関が見られました。
これらの結果は、言語に関わらず共通の概念処理メカニズムが働いていることを示唆しています。同時に、言語間の概念転移においても、こうした共通基盤が重要な役割を果たしていると著者は主張しています。
翻訳への応用
著者は理論的考察と実験的検証にとどまらず、実際の翻訳テキストの分析も行っています。国連の英語-アラビア語対訳コーパスを用いて、抽象名詞がどのように翻訳されているかを詳細に調べています。
分析の結果、以下のような興味深い発見がありました:
– 概念の「拡張」は直訳されやすい一方、「型」はより複雑な訳出が必要になる傾向がある
– 文脈によっては、概念の構造が変化することがある(例:拡張が型に変わるなど)
– 翻訳者の解釈が概念構造に影響を与えることがある
これらの知見は、翻訳理論や翻訳実践に重要な示唆を与えるものです。著者は、概念分析の手法を取り入れることで、より精緻な翻訳が可能になると主張しています。
評価と意義
本書の最大の功績は、これまで別々に研究されがちだった分野を統合的に扱った点でしょう。哲学的概念論、認知心理学、二言語併用研究、翻訳学などの知見を有機的に結びつけ、新たな視座を提示しています。
特に評価されるべきは、理論と実践のバランスの良さです。綿密な理論的考察と、緻密に設計された実験、そして実際のテキスト分析を組み合わせることで、説得力のある議論を展開しています。
もちろん、いくつかの課題も残されています。例えば、英語とアラビア語以外の言語ペアでも同様の結果が得られるのか、検証の余地があるでしょう。また、抽象名詞以外の品詞についても研究を広げる必要があります。
しかし総じて、本書はバイリンガリズム研究と翻訳学に大きな貢献をする労作と言えるでしょう。概念処理と言語転移に関する新たな理論的枠組みを提示し、今後の研究の基礎となる重要な知見を数多く含んでいます。
翻訳者や通訳者、外国語教育者など、言語の専門家にとって示唆に富む一冊であると同時に、認知科学や言語学に関心のある読者にも刺激的な読み物となるはずです。少し専門的な本ですが、バイリンガルの心の奥深さを探ることができます。