近年、GPT-3やPaLMといった大規模言語モデルは、自然言語処理の分野で目覚ましい進展を見せています。しかし、これらのモデルは複雑な推論や数学的な問題解決においては、なお課題を抱えていました。2022年、GoogleのJason WeiとDenny Zhouを中心とする研究チームは、この限界を克服する可能性を秘めた新しい手法「Chain-of-Thoughtプロンプティング」を発表しました。

研究チームのメンバーには、機械学習と自然言語処理の専門家が集まり、大規模言語モデルの能力をより深く引き出す方法を探求してきました。従来の研究では、モデルの規模を拡大することで性能向上を図る approach が主流でしたが、本研究では異なるアプローチを採用しています。

Chain-of-Thoughtプロンプティングの本質

この手法の核心は、言語モデルに人間のような段階的な思考過程を組み込むことにあります。従来の手法では、モデルは質問に対して直接的に回答を生成していましたが、Chain-of-Thoughtでは、問題を解決するための中間ステップを自然言語で説明しながら、最終的な答えにたどり着きます。

例えば、「リンゴが23個あって20個使い、さらに6個買った場合の残数」という問題に対して、従来のモデルは単に「9個」と答えるのに対し、Chain-of-Thoughtを用いたモデルは「最初に23個あって20個使ったので3個残り、そこに6個加えると9個になる」というように、論理的な思考過程を示しながら解答を導き出します。

この思考プロセスの可視化は、単に正解を導くだけでなく、モデルがどのように問題を理解し、解決策を導き出したのかを人間が理解できるようにする点で重要です。これは、AIシステムの説明可能性という観点からも大きな意義を持っています。

実験による検証と成果

研究チームは、この手法の有効性を複数の領域で検証しました。まず、算術的推論の分野では、数学の文章題や計算問題を対象とした実験を行いました。特に、GSM8Kベンチマークでは、PaLM 540Bモデルが従来の最高記録を更新する成果を上げています。

常識的推論の分野では、日常生活における論理的判断能力を測る実験を実施しました。例えば、「梨は水に沈むか」という質問に対して、「梨の密度は水より小さいため浮く」といった科学的な根拠に基づく説明を生成できることが確認されました。

さらに、記号操作の分野では、パターン認識や状態追跡などの課題に取り組み、モデルが複雑な規則性を理解し、適切に処理できることを示しました。これらの実験結果は、Chain-of-Thoughtプロンプティングが幅広い応用可能性を持つことを示唆しています。

手法の特徴と利点

Chain-of-Thoughtプロンプティングの重要な特徴として、モデルに特別な学習を施す必要がないという点が挙げられます。数例の思考過程付きの例題を提示するだけで、モデルは新しい問題に対しても段階的な推論を行うことができます。これにより、大規模なデータセットの作成や、モデルの再学習にかかるコストを大幅に削減できます。

また、モデルの思考過程が可視化されることで、結果の解釈可能性が向上し、誤りの原因特定も容易になります。これは、AIシステムの信頼性と透明性を高める上で重要な進展といえます。さらに、この可視化された思考過程は、教育現場での活用や、専門家の意思決定支援など、様々な実践的な応用可能性を開いています。

実装における技術的課題

この手法には、いくつかの重要な技術的課題が存在します。最も重要な点は、効果を発揮するためには一定以上の規模のモデルが必要だということです。研究結果によると、約100億パラメータ未満のモデルでは、むしろ性能が低下する傾向が見られました。これは、小規模な環境での実装を困難にする要因となっています。

また、モデルが生成する思考過程の正確性にも課題があります。特に選択式の問題では、誤った推論過程で偶然に正解にたどり着くケースが確認されています。これは、モデルの出力を無条件に信頼することの危険性を示唆しています。

さらに、プロンプトの作成方法や例題の選択によって性能が変動する点も、実用化に向けた課題となっています。これらの課題に対処するためには、より堅牢なプロンプト設計手法の確立が必要です。

実用化に向けた展開

この技術の実用化に向けては、様々な分野での応用が検討されています。教育支援システムでは、学習者に対して段階的な問題解決の手順を示すことで、より効果的な学習支援が可能になります。また、医療診断支援システムでは、診断根拠を明示しながら医師の意思決定を支援することが期待されています。

ビジネス分野では、データ分析や戦略立案における意思決定支援ツールとしての活用が考えられます。特に、複雑な状況下での判断を求められる場面で、思考過程を明示しながら提案を行うことができる点は、実務での活用価値が高いと評価されています。

技術発展の方向性

今後の技術発展においては、いくつかの重要な方向性が示されています。より小規模なモデルでも効果を発揮できる手法の開発は、実用化に向けた重要な課題です。また、思考過程の正確性を向上させるための方法論の確立も必要とされています。

多言語対応の拡充も重要な課題です。現在の研究は主に英語を対象としていますが、他の言語での効果検証や、言語間での思考プロセスの違いの研究なども進められています。

さらに、他のAI技術との統合も検討されています。例えば、外部の計算ツールとの連携や、画像認識システムとの組み合わせにより、より幅広い問題に対応できる可能性があります。

社会的影響と倫理的考察

Chain-of-Thoughtプロンプティングの普及は、AI技術の社会的受容にも大きな影響を与える可能性があります。AIの判断プロセスが可視化されることで、これまで「ブラックボックス」と批判されてきたAIシステムへの信頼性が向上することが期待されます。

一方で、この技術の発展に伴う倫理的な課題も指摘されています。例えば、モデルが示す思考過程が人間の思考を模倣することで、AIへの過度の人格化や依存が生じる可能性があります。また、誤った推論過程が提示された場合の責任の所在なども、検討が必要な課題です。

おわりに

Chain-of-Thoughtプロンプティングは、大規模言語モデルの可能性を大きく広げる技術として注目されています。現時点では様々な課題が存在するものの、その潜在的な影響力は極めて大きいと評価されています。

特に、人間のような段階的な思考過程を実現できる可能性を示した点は、AI研究における重要な進展といえます。今後、この技術がさらに発展することで、より高度で信頼性の高いAIシステムの実現につながることが期待されます。

研究チームの成果は、言語モデルの新たな可能性を示すとともに、AI技術の発展における重要な示唆を提供しています。今後も、この分野の研究がさらに進展し、より実用的で信頼性の高いシステムが開発されていくことでしょう。

人工知能技術の発展において、Chain-of-Thoughtプロンプティングは単なる技術的な進歩を超えて、人間とAIのより良い協調関係を築くための重要な一歩となる可能性を秘めています。


Wei, J., Wang, X., Schuurmans, D., Bosma, M., Ichter, B., Xia, F., Chi, E., Le, Q. V., & Zhou, D. (2023). Chain-of-thought prompting elicits reasoning in large language models. https://www.semanticscholar.org/reader/1b6e810ce0afd0dd093f789d2b2742d047e316d5

 

By 吉成 雄一郎

東海大学教授。コロンビア大学大学院ティーチャーズカレッジ(英語教授法)、信州大学大学院工学研究科(情報工学)修了。東京電機大学教授を経て現職。専門は英語教授法、英語教育システム開発。 さまざまな英語学習書、英検、TOEIC 対策書、マルチメディア教材等を手がけてきた。英語e ラーニングや英語関係の教材・コンテンツの研究開発も行う。全国の大学、短期大学、高専等で使われているe ラーニングシステム「リンガポルタ」も開発した。最近ではAI による新しい教育システムの開発にも着手している。