はじめに

言語を習得する赤ちゃんの能力は、長年科学者たちを魅了してきました。なぜ赤ちゃんは大人よりも簡単に新しい言語を習得できるのでしょうか?最新の脳科学研究が、その秘密を明らかにし始めています。ワシントン大学のパトリシア・クール博士による最新の研究成果を紹介します。

言語習得には「臨界期」がある

言語習得には「臨界期」と呼ばれる特別な時期があることが分かっています。これは、言語を習得するのに最適な時期のことです。クール博士らの研究によると、この臨界期は言語の要素によって異なります。

  • 音素の習得: 生後1年以内
  • 文法の習得: 18〜36ヶ月
  • 語彙の習得: 18ヶ月頃から「語彙爆発」が起こる

特に音素の習得は、生後1年以内という非常に早い時期に起こることが明らかになりました。この時期を過ぎると、新しい言語の音を聞き分けることが難しくなります。

赤ちゃんは統計的学習の達人

赤ちゃんがどのように言語を習得するのか、その仕組みも少しずつ分かってきました。クール博士らの研究によると、赤ちゃんは「統計的学習」という能力に長けているそうです。

統計的学習とは、入力される情報の頻度や分布から、パターンを見出す能力のことです。例えば、日本語を聞いている赤ちゃんは、「ら」と「ら」の音が頻繁に現れることに気づきます。一方、英語を聞いている赤ちゃんは、「r」と「l」の音が別々に現れることに気づきます。

このような音の出現パターンを無意識のうちに学習することで、赤ちゃんは自分の母語の音韻体系を獲得していくのです。

社会的相互作用の重要性

しかし、単に音声を聞くだけでは十分ではありません。クール博士らの研究で、赤ちゃんの言語習得には社会的相互作用が不可欠であることが明らかになりました。

実験では、9ヶ月の英語圏の赤ちゃんに、中国語の音声を聞かせました。その結果、以下のことが分かりました:

  1. 人間の先生と対面で中国語を学んだ赤ちゃんは、中国語の音を聞き分けられるようになった
  2. テレビやオーディオで同じ内容を聞いた赤ちゃんは、何も学習できなかった

つまり、単に音声を聞くだけでなく、人間との社会的なやりとりが言語習得には不可欠なのです。

なぜ社会的相互作用が重要なのか?

では、なぜ社会的相互作用が言語習得に重要なのでしょうか。クール博士は以下の可能性を挙げています:

  1. 注意力と覚醒度の向上
  2. より多くの情報が得られる
  3. 人間関係の構築
  4. 知覚と行動を結びつける脳のメカニズムの活性化

特に興味深いのは、赤ちゃんが先生の目線や指さしを追うことで、言葉と物の関係を学んでいる可能性です。これは、語彙の習得にも重要な役割を果たしていると考えられています。

脳の発達と言語習得の関係

最新の脳イメージング技術により、赤ちゃんの脳の発達と言語習得の関係も明らかになってきました。

例えば、MEG(磁気脳波計)を使った研究では、生後6ヶ月頃から、音声を聞いたときに脳の言語野(ブローカ野)が活性化することが分かりました。これは、知覚と発話の神経回路が結びつき始めている証拠だと考えられています。

また、脳波(EEG)を使った研究では、7.5ヶ月の赤ちゃんの母語と外国語の音素識別能力が、その後の言語発達を予測することが分かりました。母語の音をよく聞き分けられる赤ちゃんほど、その後の言語発達が早いのです。

バイリンガル環境の影響

複数の言語に触れる環境で育つ赤ちゃんの脳発達にも、興味深い特徴があることが分かってきました。

バイリンガルの子どもは、注意力や実行機能といった認知能力が優れていることが多いのです。これは、複数の言語を切り替えて使用する経験が、脳の認知制御システムを鍛えているためだと考えられています。

言語習得と認知発達の相互作用

言語習得と認知発達は密接に関連していることも分かってきました。例えば、7.5ヶ月の赤ちゃんの音素識別能力は、その後の語彙の成長速度と関連しています。

また、6ヶ月時点での母音の識別能力は、5歳時点での言語能力や読み書きの準備状態(韻を踏む能力など)を予測することができます。これは、早期の音韻認識能力が、その後の言語発達全体に影響を与えることを示しています。

自閉症スペクトラム障害と言語習得

自閉症スペクトラム障害(ASD)の子どもの言語習得にも、興味深い特徴があることが分かってきました。

ASDの子どもは、音声よりも非音声の音を好む傾向があります。この傾向は、子どもの脳波反応や自閉症の重症度と相関があることが分かっています。

このような早期の言語反応の特徴が、ASDの早期発見や診断に役立つ可能性があります。

動物の研究からの示唆

言語習得における社会的相互作用の重要性は、鳥類の歌学習の研究からも支持されています。

例えば、キンカチョウは、生きた個体からでないと歌を学習できません。また、ウタスズメは、社会的に豊かな環境で育つと、歌を学習できる期間が長くなります。

これらの研究は、ヒトの言語習得メカニズムの進化的起源を理解する上で重要な示唆を与えています。

今後の研究の展望

言語習得の脳科学研究は、まだ始まったばかりです。今後は以下のような研究が期待されています:

  1. 社会的相互作用が言語習得に与える影響の詳細なメカニズムの解明
  2. 言語習得と認知発達の相互作用の更なる理解
  3. 自閉症など発達障害における言語習得の特徴の解明
  4. 複数言語環境が脳の発達に与える影響の解明
  5. 言語習得の臨界期のメカニズムの解明

これらの研究は、単に基礎科学としての意義だけでなく、言語教育や発達障害の早期発見・介入など、実践的な応用にもつながることが期待されています。

おわりに

赤ちゃんの言語習得能力は、まさに驚異的です。その秘密を解き明かす脳科学研究は、私たちに人間の認知や学習の本質について、新たな洞察を与えてくれます。

同時に、この研究は言語教育や子育てにも重要な示唆を与えています。例えば:

  • 赤ちゃんとの対話の重要性
  • 複数言語環境の潜在的な利点
  • 早期の言語刺激の重要性

今後の研究の進展により、さらに多くのことが明らかになることでしょう。言語習得の不思議な世界は、まだまだ私たちを驚かせてくれそうです。


Kuhl, P. K. (2010). Brain mechanisms in early language acquisition. Neuron, 67(5), 713-727. https://doi.org/10.1016/j.neuron.2010.08.038

 

By 吉成 雄一郎

東海大学教授。コロンビア大学大学院ティーチャーズカレッジ(英語教授法)、信州大学大学院工学研究科(情報工学)修了。東京電機大学教授を経て現職。専門は英語教授法、英語教育システム開発。 さまざまな英語学習書、英検、TOEIC 対策書、マルチメディア教材等を手がけてきた。英語e ラーニングや英語関係の教材・コンテンツの研究開発も行う。全国の大学、短期大学、高専等で使われているe ラーニングシステム「リンガポルタ」も開発した。最近ではAI による新しい教育システムの開発にも着手している。