従来の言語理論への挑戦

言語学の長年の常識を覆す新たな見方が出てきた。言語がどのように獲得され、使用されるかについての従来の考え方に対し、統計的・確率論的なアプローチが挑戦状を突きつけている。

カリフォルニア大学サンディエゴ校のマーク・サイデンバーグ教授が『Science』誌に発表した論文によると、言語獲得と言語使用に関する新しい理論的枠組みが登場し、注目を集めているという。この新しいアプローチは、言語の本質を理解するためには、言語がどのように獲得され、使用され、脳内で表現されるかを説明することが不可欠だと主張している。

生成文法理論と新しいアプローチ

従来の言語理論の中心にあったのは、ノーム・チョムスキーによって提唱された生成文法理論だ。この理論では、言語を知るということは文法を知ることと同義であり、人間は生まれながらにして普遍文法の知識を持っているとされてきた。しかし、サイデンバーグ教授によれば、コネクショニズム(神経回路網モデル)の発展や、言語の統計的・確率的側面への renewed interest が、この伝統的な見方に再考を迫っているという。

言語獲得と使用の連続性

新しいアプローチの特徴は、言語獲得と言語使用の連続性を強調する点にある。つまり、言語を獲得する際に用いられるメカニズムと、実際に言語を使用する際のメカニズムが同じであると考えるのだ。この見方によれば、子どもの課題は文法を同定することではなく、言語を使用することを学ぶことになる。

動詞獲得の謎に挑む

サイデンバーグ教授は、この新しい枠組みが言語獲得に関する古典的な問題に新たな光を当てる可能性があると指摘する。例えば、動詞とその項構造の獲得という、長年議論されてきた問題がある。英語では、「load(積む)」「pour(注ぐ)」「fill(満たす)」といった意味的に類似した動詞が、異なる文法的特権を持っている。

例えば、「I loaded the bricks onto the truck(私はトラックにレンガを積んだ)」と「I loaded the truck with bricks(私はレンガでトラックを積んだ)」は両方とも文法的に正しいが、「pour」の場合は前者の構文のみが許容され、「fill」の場合は後者の構文のみが許容される。子どもがこのような複雑な知識をどのように獲得するのかは、言語獲得研究の大きな謎の一つだった。

「刺激の貧困」論法の再評価

従来の理論では、この問題は「刺激の貧困」論法によって説明されてきた。つまり、子どもが接する言語入力は不完全で変動が大きく、また明示的な否定証拠(ある表現が非文法的であることを示す証拠)が欠如しているにもかかわらず、子どもは正しい一般化に到達する。このことから、言語獲得には生得的な文法知識が必要だと考えられてきたのだ。

確率的制約充足としての言語獲得

しかし、サイデンバーグ教授は、この問題を確率的制約充足の問題として捉え直すことを提案している。この見方によれば、動詞とそれが現れる構造を支配する複数の確率的情報源が存在する。これには、動詞の意味的な類似性、動詞と統語構造の相関関係、動詞と記述する出来事の種類の相関関係などが含まれる。

コネクショニストネットワークは、このような性質を持つシステムを捉えるのに適しているという。サイデンバーグ教授は、アレン(Allen)が実装した、自然な入力から動詞とその項構造について学習するネットワークを例に挙げ、このようなモデルが正確に確率的制約の組み合わせをエンコードできることの証拠だとしている。

新アプローチによる「刺激の貧困」問題の解決

この新しいアプローチは、「刺激の貧困」論法の再評価を促している。サイデンバーグ教授によれば、入力の不完全性(非文法的な発話を含むこと)はそれほど重要ではない。なぜなら、このモデルは文法の同定を行っているわけではないからだ。また、入力の変動性も重要ではない。なぜなら、モデルの特定の動詞に対する性能は、その動詞との経験だけに依存しているわけではないからだ。モデルは、類似したパターンを示す他の動詞や異なるパターンを示す動詞との接触からも恩恵を受けるのだ。

過剰一般化の問題と間接的否定証拠

さらに、このようなモデルは、否定証拠なしに過剰一般化を避けるメカニズムを提供する。これは、子どもの経験の性質に関する長年の議論に新たな視点を提供する。サイデンバーグ教授は、入力の統計的構造が提供する膨大な情報量と、制約充足ネットワークがそれらから関連情報を抽出する能力の方が重要だと主張する。

ネットワークは、すべての動詞に対して正しい出力を生成する重みの集合を見つけなければならない。ネットワークが訓練される例は、証明された構文を支持する重みの変化をもたらす正の証拠を提供する。すべての動詞に共通の重みの集合が使用されるため、これらの変化は同時に、ネットワークがまだ接していない他の構文に対する証拠も提供することになる。この効果は、チョムスキーが間接的否定証拠の議論で推測したものと非常に似ているという。

新アプローチの言語獲得研究への影響

サイデンバーグ教授は、この新しいアプローチが言語獲得研究に重要な影響を与える可能性があると指摘する。例えば、「刺激の貧困」論法は、普遍文法の性質とされるものだけでなく、学習されなければならない言語の側面にも適用されてきた。もしネットワークアプローチが動詞学習のような現象に適用できるなら、同様の問題を提示する言語の他の側面にも適用できるかどうかを決定する必要があるという。

生得的要因の再考

この新しい見方は、言語獲得における生得的要因の役割を完全に否定するものではない。しかし、これらの能力が言語普遍性の知識そのものを含むかどうかを疑問視している。サイデンバーグ教授は、生得的能力は、文法の先験的知識というよりも、言語のような環境事象に内在する特定のタイプの情報に対するバイアスや感受性の形を取る可能性があると示唆している。

新アプローチへの反応と意義

この新しいアプローチは、言語学者の中には、現代の言語理論が何年も前に決定的に反駁したと考えられていた経験主義的見方への望ましくない退行を表すと考える人もいるだろう。しかし、サイデンバーグ教授は、この新しい枠組みが重要な現象を新たに考察する機会を提供していると主張する。

言語獲得研究の歴史的文脈

サイデンバーグ教授は、生成文法パラダイムが創造された当時、生得的文法知識の概念が、白紙状態の経験主義に対する必要な代替案を提供したことを認めている。しかし、発達神経生物学と認知神経科学の研究が、脳がどのように構造化され発達するかについて、より直接的で具体的な証拠を提供し始めていると指摘する。

この新しい見方によれば、脳の組織は言語がどのように学習されるかを制約するが、言語の獲得、表現、使用を支配する原則は、この種の知識に特有のものではない。つまり、言語は他の認知能力と同じような一般的な学習メカニズムによって獲得される可能性があるのだ。

新アプローチの現状と課題

サイデンバーグ教授の論文は、言語獲得研究の分野に大きな波紋を投げかけている。この新しいアプローチは、まだ初期段階にあり、確固たる結果はほとんどないと教授自身も認めている。言語の広大な領域のうち、まだ取り組まれていない部分も多い。

しかし、この新しい枠組みが言語獲得の謎に新たな光を当てる可能性は大きい。特に、言語入力の統計的・確率的側面に注目することで、子どもがどのように複雑な言語規則を学習するかについての新しい洞察が得られる可能性がある。

新アプローチの可能性と展望

また、このアプローチは、言語獲得と言語使用の連続性を強調することで、言語の本質をより包括的に理解することができるかもしれない。言語を単に抽象的な規則の体系としてではなく、実際の使用の中で形成され、獲得されるものとして捉えることで、言語の柔軟性や創造性をより良く説明できる可能性がある。

さらに、この新しい見方は、言語獲得における生得的要因と環境要因の相互作用についての理解を深める可能性がある。生得的な言語能力の存在を完全に否定するのではなく、それがどのような形で言語獲得を支援しているのかを、より具体的に探ることができるかもしれない。

新アプローチの課題

一方で、この新しいアプローチには課題もある。例えば、言語の普遍的側面をどのように説明するかという問題がある。従来の理論では、言語普遍性は生得的な普遍文法の存在によって説明されてきた。新しいアプローチでは、これをどのように説明するのかが問われることになるだろう。

また、言語獲得の速さや、子どもが犯さない誤りの説明など、従来の理論が説明してきた現象について、新しいアプローチがどの程度説明力を持つかも検証が必要だ。

今後の研究への期待

サイデンバーグ教授は、この新しいアプローチがまだ初期段階にあることを強調している。しかし、この枠組みが言語獲得研究に新しい視点を提供し、長年の謎に新たなアプローチをもたらす可能性は大きい。今後、この新しい見方に基づいた研究が進み、言語獲得の複雑なプロセスについての理解が深まることが期待される。

実践的応用の可能性

言語獲得研究の新しい方向性は、教育や言語障害の治療など、実践的な領域にも影響を与える可能性がある。例えば、言語の統計的・確率的側面に注目することで、より効果的な言語教育法の開発につながるかもしれない。また、言語障害を持つ子どもの治療において、言語入力の質や量を調整することの重要性が再認識されるかもしれない。

他分野への影響

さらに、この新しいアプローチは、人工知能や機械学習の分野にも示唆を与える可能性がある。言語獲得と言語使用の連続性を強調する見方は、より自然な言語処理システムの開発につながるかもしれない。

理論と実証の重要性

最後に、サイデンバーグ教授は、言語獲得研究における理論と実証の重要性を強調している。新しい理論的枠組みは、実証的な検証を経て初めて真の価値を持つ。今後、この新しいアプローチに基づいた実験的研究が増えることで、言語獲得の本質についての理解がさらに深まることが期待される。

結論:言語獲得研究の新たな可能性

言語獲得の謎は、人間の認知能力の本質に迫る重要な問題の一つである。サイデンバーグ教授の提案する新しいアプローチは、この謎に新たな視点から光を当てる可能性を秘めている。言語学、心理学、神経科学など、多くの分野の研究者たちの注目を集めながら、この新しい研究の方向性が今後どのように発展していくか、興味深く見守っていく必要があるだろう。


Seidenberg, M. S. (1997). Language acquisition and use: Learning and applying probabilistic constraints. Science, 275(5306), 1599-1603. https://doi.org/10.1126/science.275.5306.1599

By 吉成 雄一郎

東海大学教授。コロンビア大学大学院ティーチャーズカレッジ(英語教授法)、信州大学大学院工学研究科(情報工学)修了。東京電機大学教授を経て現職。専門は英語教授法、英語教育システム開発。 さまざまな英語学習書、英検、TOEIC 対策書、マルチメディア教材等を手がけてきた。英語e ラーニングや英語関係の教材・コンテンツの研究開発も行う。全国の大学、短期大学、高専等で使われているe ラーニングシステム「リンガポルタ」も開発した。最近ではAI による新しい教育システムの開発にも着手している。