はじめに

私たちは日々、膨大な量の情報に囲まれて生活しています。SNSの投稿、ニュース記事、広告、メール…。この情報の洪水は、時に私たちを圧倒し、疲弊させることがあります。しかし、人間の言語能力は、この情報過多の時代にも驚くべき適応力を見せているのです。

東京農工大学の宇野良子教授による最新の研究は、認知言語学の観点から、この「過剰な情報の流れ」に対する言語の対応を分析しています。その結果、言語が情報過多を単に縮小したり切り捨てたりするのではなく、むしろそれを受け入れ、活用していることが明らかになりました。

認知言語学とは何か

認知言語学は、1980年代に登場した比較的新しい言語学の分野です。この理論は、言語を人間の一般的な認知能力の一部として捉え、意味を言語の中心に据えています。

従来の言語学が文法規則や構造に重点を置いていたのに対し、認知言語学は以下のような特徴を持っています:

  1. 最大主義的アプローチ:言語のあらゆる側面を研究対象とする
  2. 非還元主義的アプローチ:言語を単純な要素に分解せず、全体として捉える
  3. ボトムアップ的アプローチ:実際の言語使用から理論を構築する

この理論の重要な点は、常に変化し続ける言語の本質を捉えられることです。

言語の能動的生成メカニズム

宇野教授の研究は、言語には「能動的生成」のメカニズムが存在することを示唆しています。これは、言語が単に静的な規則の集合ではなく、環境の変化に応じて自らを変化させ、新しい表現を生み出す能力を持っているということです。

この能動的生成は、以下のような現象に表れています:

  1. 新語の創造
  2. 既存の言葉の意味拡張
  3. 文法規則の柔軟な適用

例えば、SNSの登場により「いいね」という言葉が動詞として使われるようになったり、「♡」のような記号が文字の代わりに使用されたりする現象は、まさにこの能動的生成の例と言えるでしょう。

言語の動機づけ

認知言語学では、言語表現の形式と意味の間には何らかの「動機づけ」があると考えます。つまり、言葉の形や構造が完全に恣意的なのではなく、その意味や機能と何らかの関連性を持っているという考え方です。

この動機づけの考え方は、新しい言語表現が生まれる過程を理解する上で重要です。例えば、オノマトペ(擬音語・擬態語)の多くは、その音と意味の間に明確な関連性があります。「さらさら」という言葉の音の軽やかさは、その意味する滑らかさや軽さと関連しています。

人工言語と自然言語の新語

宇野教授の研究チームは、自然言語と人工言語における新語の創造過程を比較しました。その結果、以下のような興味深い発見がありました:

  1. 自然言語の新語は、既存の言語要素を組み合わせたり、拡張したりして作られることが多い
  2. 人工言語(例:プログラミング言語)の新しい表現も、既存の要素を基に作られることが多い
  3. どちらの場合も、新しい表現は何らかの動機づけに基づいて作られる傾向がある

これらの発見は、言語の能動的生成メカニズムが、自然言語と人工言語の両方に共通して存在することを示唆しています。

コミュニケーションを通じた言語の進化

宇野教授は、言語がユーザー(つまり私たち人間)とのインタラクションを通じて、常に新鮮さと生成力を保っていると主張しています。これは、言語が単なる静的なシステムではなく、使用者との相互作用を通じて常に進化し続けているということを意味します。

この考え方は、言語学習や言語教育にも重要な示唆を与えます。言語を単に規則の集合として教えるのではなく、実際のコミュニケーションの中で使用し、創造的に応用する機会を提供することの重要性が浮かび上がります。

情報過多時代における言語の役割

情報過多の時代において、言語の能動的生成メカニズムは非常に重要な役割を果たしています。新しい概念や技術が次々と生まれる中で、言語はそれらを表現し、理解するための手段を素早く提供してくれます。

例えば、インターネットやSNSの普及に伴い、「ググる」「DM」「バズる」といった新しい言葉が生まれました。これらの言葉は、新しい技術やサービスを簡潔に表現し、コミュニケーションを効率化する役割を果たしています。

言語の未来:AIとの共存

人工知能(AI)技術の発展により、言語は新たな挑戦に直面しています。AI言語モデルは、人間の言語使用を模倣し、時には新しい表現を生成することさえあります。

宇野教授の研究は、このような状況下でも、人間の言語使用の独自性と創造性が失われることはないと示唆しています。むしろ、AIとの相互作用が、言語の能動的生成メカニズムをさらに活性化させる可能性があるのです。

おわりに

宇野教授の研究は、情報過多の時代における言語の驚くべき適応力と創造性を明らかにしました。言語は、単に情報を伝達する道具ではありません。それは私たちの認知能力の重要な一部であり、常に進化し、新しい表現を生み出す力を持っているのです。

この研究成果は、言語学や認知科学の分野に新たな視点をもたらすだけでなく、教育やコミュニケーション、さらにはAI開発など、幅広い分野に影響を与える可能性があります。

情報があふれる現代社会において、言語の持つこの適応力と創造性を理解し、活用することは、私たち一人一人にとって重要な課題となるでしょう。


宇野良子. (2021). 認知言語学から見る過剰な情報の流れ. 認知科学, 28(2), 242-248.
https://doi.org/10.11225/cs.2021.014

By 吉成 雄一郎

東海大学教授。コロンビア大学大学院ティーチャーズカレッジ(英語教授法)、信州大学大学院工学研究科(情報工学)修了。東京電機大学教授を経て現職。専門は英語教授法、英語教育システム開発。 さまざまな英語学習書、英検、TOEIC 対策書、マルチメディア教材等を手がけてきた。英語e ラーニングや英語関係の教材・コンテンツの研究開発も行う。全国の大学、短期大学、高専等で使われているe ラーニングシステム「リンガポルタ」も開発した。最近ではAI による新しい教育システムの開発にも着手している。