人間の赤ちゃんは生後6〜9ヶ月頃から、周りで話される言葉と目の前にあるものを結びつけ始めます。この不思議な能力は、人工知能(AI)の研究者たちにとって長年の挑戦課題でした。単語と物体を結びつけるこの過程は、一見シンプルに見えますが、実は非常に複雑です。なぜなら、一つの単語に対して無限とも言える意味の候補があるからです。

しかし、ニューヨーク大学の研究チームが、この課題に革新的なアプローチで挑み、興味深い成果を上げました。彼らは、一人の赤ちゃんの視点から世界を見ることで、AIに言葉の意味を学ばせることに成功したのです。

赤ちゃんの目を通して世界を見るAI

研究チームは、「Child’s View for Contrastive Learning (CVCL)」と呼ばれる新しいAIモデルを開発しました。このモデルの特徴は、一人の子どもの頭部に取り付けたカメラの映像を使って学習することです。

具体的には、生後6ヶ月から25ヶ月までの間、合計61時間分の映像と音声データを使用しました。これは、その子どもの起きている時間のわずか1%程度に過ぎません。しかし、このデータは子どもの視点からの世界を捉えた貴重なものでした。

CVCLモデルは、この映像と音声データを同時に処理し、視覚情報と言語情報を関連付けていきます。例えば、「ボール」という言葉が聞こえたときに画面に丸い物体が映っていれば、その二つを結びつけるのです。

人間らしい学習方法

このアプローチの面白い点は、人間の子どもが言葉を覚えていく過程をシミュレートしていることです。子どもは誰かに「これはボールだよ」と教えられて覚えるのではなく、日常生活の中で言葉と物体が一緒に現れるパターンを何度も経験することで、徐々に結びつきを学んでいきます。

CVCLモデルもまた、明示的な教示なしに、映像と音声の「共起」パターンから学習していきます。これは「クロスシチュエーショナル学習」と呼ばれる方法で、人間の言語獲得プロセスに近いと考えられています。

驚くべき成果

研究チームは、学習を終えたCVCLモデルにテストを行いました。その結果、モデルは多くの日常的な物体と言葉を正しく結びつけることができました。例えば、「ボール」「車」「猫」「テーブル」などの単語を聞いて、対応する画像を選ぶことができたのです。

さらに興味深いのは、CVCLモデルが学習データには含まれていない新しい画像でも正しく判断できたことです。つまり、「ボール」という概念を一般化し、見たことのない種類のボールでも「ボール」だと認識できたのです。これは、人間の子どもが持つ般化能力に近いものだと言えるでしょう。

AIの「概念」形成

研究チームは、CVCLモデルの内部表現も分析しました。その結果、モデルが視覚情報と言語情報を密接に結びつけた「概念」のようなものを形成していることがわかりました。

例えば、「階段」という言葉に対して、モデルは屋内の木製階段と屋外の青い階段という2つの異なるクラスターを形成していました。これは、人間が持つ概念の多様性や柔軟性に似ています。

また、「パズル」という言葉に対しては、アルファベットパズルと動物パズルという2つのクラスターを形成していました。これらの結果は、CVCLモデルが単に単語と画像を機械的に結びつけているのではなく、より人間らしい「理解」に近づいていることを示唆しています。

従来理論への挑戦

この研究結果は、言語獲得に関する従来の理論に一石を投じるものです。これまで多くの研究者は、言葉の意味を学ぶためには、生得的な知識や言語に特化した学習メカニズムが必要だと考えてきました。

しかし、CVCLモデルは比較的シンプルな学習メカニズムで、かなりの程度まで言葉の意味を獲得できることを示しました。これは、人間の子どもも同様のプロセスで言葉を学んでいる可能性を示唆しています。

もちろん、これはCVCLモデルが人間の子どもと全く同じように言葉を学んでいるという意味ではありません。例えば、人間の子どもは社会的な文脈や、物を触ったり操作したりする経験からも学んでいます。CVCLモデルにはそういった要素が欠けています。

今後の展望

この研究は、言語獲得の初期段階におけるAIモデルの可能性を示しました。しかし、研究チームは今後の課題もいくつか挙げています。

  1. 時間的な連続性: 人間の子どもは連続した経験から学びますが、CVCLモデルは独立した静止画から学習しています。これは特に動詞や抽象的な言葉の学習に影響を与える可能性があります。
  2. 能動的な学習: 人間の子どもは能動的に環境と相互作用しながら学びますが、CVCLモデルは受動的に記録されたデータから学習しています。
  3. 継続的な学習: 人間の子どもは常に新しい経験から学び続けますが、CVCLモデルは同じデータを繰り返し学習しています。
  4. 音声からの学習: CVCLモデルは書き起こされた発話から学習していますが、実際の子どもは音声から学びます。イントネーションや強調などの音声的な手がかりを活用できていません。

これらの課題に取り組むことで、より人間の子どもに近い言語獲得モデルを作ることができるかもしれません。

AIと人間の橋渡し

この研究は、AIの発展と人間の認知プロセスの理解という2つの分野を橋渡しする重要な一歩だと言えるでしょう。AIに人間らしい学習方法を取り入れることで、より自然な言語理解や世界理解を持つAIの開発につながる可能性があります。

同時に、このようなAIモデルの研究は、人間の子どもがどのように言葉を覚えていくのかをより深く理解する手がかりにもなります。言語獲得の謎に迫ることは、言語障害の早期発見や効果的な言語教育方法の開発にもつながるかもしれません。

倫理的な配慮

一方で、このような研究には倫理的な配慮も必要です。子どもの日常生活を記録したデータを使用することには、プライバシーの問題が付きまといます。研究チームは、データの匿名化や適切な同意プロセスを経ていますが、今後このような研究が広がっていく中で、より厳密な倫理ガイドラインの策定が求められるでしょう。

また、AIの発達が人間の子育てや教育に与える影響についても、慎重に考える必要があります。AIが人間の子どもの言語獲得プロセスをシミュレートできるからといって、人間の子どもの教育をAIに任せてしまっていいわけではありません。人間同士の相互作用や、文化的・社会的な文脈の中での言語習得の重要性を忘れてはならないでしょう。

おわりに

ニューヨーク大学の研究チームが開発したCVCLモデルは、一人の子どもの視点から世界を見ることで、AIに言葉の意味を学ばせることに成功しました。この研究は、人間の言語獲得プロセスの理解を深めると同時に、より自然な言語理解を持つAIの開発に道を開くものです。

しかし、これはあくまでも始まりに過ぎません。人間の子どもの言語獲得プロセスには、まだまだ解明されていない部分が多くあります。社会的な相互作用、感情、文化的な文脈など、言葉の意味を形作る様々な要素があります。

今後の研究では、これらの要素をどのようにAIモデルに取り入れていくか、そしてそれによって人間の認知プロセスについての理解をどのように深めていけるかが焦点となるでしょう。

AIと認知科学の融合は、人間の心の謎に迫る新たな道筋を示しています。言葉を学ぶという、一見単純に見える過程の中に、人間の知性の本質が隠されているのかもしれません。この研究は、その解明への大きな一歩となったと言えるでしょう。


Vong, W. K., Wang, W., Orhan, A. E., & Lake, B. M. (2024). Grounded language acquisition through the eyes and ears of a single child. Science, 383(6681), 504-511. https://doi.org/10.1126/science.adi1374

By 吉成 雄一郎

東海大学教授。コロンビア大学大学院ティーチャーズカレッジ(英語教授法)、信州大学大学院工学研究科(情報工学)修了。東京電機大学教授を経て現職。専門は英語教授法、英語教育システム開発。 さまざまな英語学習書、英検、TOEIC 対策書、マルチメディア教材等を手がけてきた。英語e ラーニングや英語関係の教材・コンテンツの研究開発も行う。全国の大学、短期大学、高専等で使われているe ラーニングシステム「リンガポルタ」も開発した。最近ではAI による新しい教育システムの開発にも着手している。