近年、2つ以上の言語を話す人々の脳と認知機能に関する研究が急速に進んでいます。ペンシルベニア州立大学のJudith F. Kroll教授らの研究チームが発表した最新の論文では、バイリンガリズム(2か国語使用)が言語処理、認知機能、そして脳にもたらす影響について、これまでの20年間の研究成果をまとめています。その内容は、私たちの言語能力や脳の可塑性についての従来の考え方を大きく覆すものでした。

2つの言語は常に活性化している

バイリンガリズムに関する重要な発見の1つは、バイリンガルの人が1つの言語を使用している時でも、もう一方の言語が常に活性化しているということです。例えば、英語を話している時でも、頭の中では母語である日本語が活性化しているのです。

この現象は、読む、聞く、話すといったあらゆる言語活動で観察されます。さらに驚くべきことに、手話と音声言語のように全く異なる言語体系の組み合わせでも同様のことが起こります。

この2つの言語の同時活性化は、バイリンガルの人々が意図した言語を正しく使用するために、もう一方の言語を抑制する必要があることを意味します。研究者たちは、この抑制のプロセスが認知機能全般に影響を与えているのではないかと考えています。

第二言語が母語に影響を与える

もう1つの重要な発見は、第二言語が母語に影響を与えるということです。これまでは、母語が第二言語の習得に影響を与えると考えられてきました。しかし、最新の研究では、第二言語の習得が進むにつれて、母語の処理にも変化が生じることが明らかになっています。

例えば、スペイン語を母語とする人が英語を学ぶと、スペイン語の文章を読む際の処理方法が変化することが分かりました。具体的には、関係代名詞を含む文章の解釈が、英語的な解釈方法に近づくのです。

この現象は、言語システムが従来考えられていたよりもはるかに柔軟で、相互に影響し合っていることを示しています。バイリンガルの人々の脳内では、2つの言語が完全に独立しているのではなく、1つの統合されたシステムとして機能しているのです。

認知機能への影響

バイリンガリズムは、言語処理だけでなく、より広範な認知機能にも影響を与えることが分かってきました。特に注目されているのは、高齢者の認知機能への影響です。

研究によると、バイリンガルの高齢者は、モノリンガル(1か国語しか話さない人)の高齢者に比べて、タスクの切り替えや、関係のない情報の無視、矛盾する認知的選択肢の解決といった能力が優れているそうです。

さらに驚くべきことに、アルツハイマー型認知症の発症年齢にも影響があることが分かりました。バイリンガルの人々は、モノリンガルの人々に比べて、平均で4〜5年遅く発症するのです。

これらの研究結果は、2つの言語を使用することが、認知的予備力(cognitive reserve)を高め、脳の老化や病気に対する耐性を強化する可能性を示唆しています。

言語使用の文脈が重要

ただし、すべてのバイリンガルの人々が同じような認知的恩恵を受けるわけではありません。研究者たちは、言語の使用方法や文脈が重要な役割を果たしていると考えています。

例えば、日常的に2つの言語を切り替えて使用する人々(コードスイッチングと呼ばれます)は、そうでない人々と比べて、異なる認知的スキルを発達させる可能性があります。また、第二言語の習得年齢や、それぞれの言語の使用頻度なども影響を与える要因となります。

このことは、バイリンガリズムの影響が単純ではなく、個人の言語経験や使用パターンによって大きく異なることを示しています。

脳の適応メカニズム

これらの研究結果は、人間の脳が非常に適応性に富んでいることを示しています。2つの言語を使用することで、脳は常に言語間の競合を解決し、適切な言語を選択するためのメカニズムを発達させます。

研究者たちは、この言語制御のメカニズムが、より一般的な認知制御のネットワークと重なっているのではないかと考えています。つまり、言語を制御するために発達したスキルが、他の認知タスクにも転用されているのです。

この仮説を裏付けるように、fMRI(機能的磁気共鳴画像法)を用いた研究では、バイリンガルの人々が非言語的な課題を行う際に、モノリンガルの人々とは異なる脳の活動パターンを示すことが分かっています。

早期のバイリンガル経験の重要性

興味深いことに、バイリンガリズムの影響は、言語を話し始める前の乳幼児にも見られます。2つの言語に触れて育つ赤ちゃんは、1つの言語環境で育つ赤ちゃんとは異なる方法で音声を処理し、注意を向けることが分かっています。

これは、言語経験が非常に早い段階から脳の発達に影響を与えていることを示唆しています。バイリンガル環境で育つことで、赤ちゃんは言語の違いに敏感になり、より柔軟な認知能力を発達させる可能性があるのです。

研究の課題と今後の展望

バイリンガリズムの研究は、まだ多くの課題を抱えています。例えば、言語処理における抑制のメカニズムと、より一般的な認知制御のメカニズムがどのように関連しているのかは、まだ完全には解明されていません。

また、バイリンガリズムがもたらす認知的恩恵が、どのような条件下で、どの程度持続するのかについても、さらなる研究が必要です。特に、言語の組み合わせや、習得年齢、使用頻度などの要因が、どのように影響するのかを明らかにすることが重要です。

今後の研究では、脳画像技術やオンライン処理の測定技術を駆使して、リアルタイムの言語処理を観察し、バイリンガリズムの影響をより詳細に解明することが期待されています。

言語学習の新たな意義

これらの研究成果は、言語学習の意義を新たな視点から捉え直すものです。第二言語の習得は、単に新しい言語を話せるようになるだけでなく、脳の可塑性を高め、認知機能全般を強化する可能性があるのです。

特に、高齢化社会を迎える中で、認知症予防の観点からも、生涯にわたる言語学習の重要性が注目されています。また、グローバル化が進む現代社会において、バイリンガル教育の意義を再評価する必要があるかもしれません。

ただし、バイリンガリズムが認知機能に与える影響は複雑で、単純に「2つの言語を話せば認知機能が向上する」と言い切ることはできません。言語の使用方法や、個人の言語経験によって、その影響は大きく異なります。

今後は、個人の言語プロフィールに応じた、より精緻な研究が求められるでしょう。また、バイリンガリズムがもたらす認知的恩恵を、教育や高齢者ケアにどのように活かしていくかも、重要な課題となります。

言語は、私たちの思考や認識の基盤となるものです。バイリンガリズムの研究は、言語と認知、そして脳の関係について、新たな理解をもたらしています。これらの知見は、言語教育や認知科学、そして脳科学の分野に大きな影響を与え、私たちの言語観や学習観を変える可能性を秘めています。

今後も、バイリンガリズム研究の進展に注目が集まることでしょう。その成果は、私たち一人一人の言語学習や認知機能の維持・向上に、具体的な示唆を与えてくれるはずです。


Kroll, J. F., Dussias, P. E., Bice, K., & Perrotti, L. (2015). Bilingualism, mind, and brain. Annual Review of Linguistics, 1, 377-394. https://doi.org/10.1146/annurev-linguist-030514-124937

By 吉成 雄一郎

東海大学教授。コロンビア大学大学院ティーチャーズカレッジ(英語教授法)、信州大学大学院工学研究科(情報工学)修了。東京電機大学教授を経て現職。専門は英語教授法、英語教育システム開発。 さまざまな英語学習書、英検、TOEIC 対策書、マルチメディア教材等を手がけてきた。英語e ラーニングや英語関係の教材・コンテンツの研究開発も行う。全国の大学、短期大学、高専等で使われているe ラーニングシステム「リンガポルタ」も開発した。最近ではAI による新しい教育システムの開発にも着手している。