はじめに

近年、ChatGPTやGPT-4などの大規模言語モデル(LLM)の驚異的な進化により、人工知能(AI)が人間の言語能力に迫りつつあるのではないかという議論が活発になっています。しかし、こうしたAIの能力は、本当に人間の言語能力を再現しているのでしょうか?ニューカッスル大学のChristine Cuskley氏らの研究チームが、Open Mind: Discoveries in Cognitive Scienceに発表した最新の論文は、この問いに対して重要な洞察を提供しています。

LLMと人間の言語能力:表面的な類似性を超えて

Cuskley氏らの研究チームは、LLMが示す言語能力と人間の言語能力の間には、表面的な類似性はあるものの、根本的な違いが存在すると主張しています。彼らは、言語という複雑な行動を理解するための4つの重要な視点を提示しています。

  1. 発達:言語はどのように獲得されるか
  2. メカニズム:言語はどのように機能するか
  3. 進化:言語はどのように進化してきたか
  4. 機能:言語は何のためにあるのか

研究チームは、これらの視点からLLMと人間の言語能力を比較し、両者の間に根本的な違いがあることを明らかにしました。

発達の違い:豊かな環境vs一方向の学習

人間の子どもは、生まれてから言語を習得する過程で、音声、ジェスチャー、世界に関する知識など、多様で豊かな情報を活用します。これに対し、LLMは主に大人同士の書き言葉のみを学習データとして使用します。つまり、LLMは人間の言語世界のごく一部しか経験していないのです。

さらに、人間の言語習得には理解と産出という2つの側面があり、これらは複雑に相互作用しながら発達します。一方、LLMの学習過程ははるかに単純で、線形的です。また、LLMは膨大な量のデータを繰り返し学習しますが、人間の子どもはそれぞれの言語入力を一度だけ経験します。

このような発達過程の違いは、LLMが人間の言語習得を本当に模倣しているのかという疑問を投げかけます。

メカニズムの違い:柔軟な適応vs固定的な処理

人間の言語使用は、常に変化する動的なシステムの産物です。私たちの発話は、共同注意や疲労、注意力などの要因によって刻々と変化します。一方、LLMの内部メカニズムは、一度学習が完了すると基本的に固定されます。

また、人間の言語使用には、ターンテイキング(会話の順番交代)、修復(誤解や言い間違いの修正)、共通基盤の形成など、LLMには再現が困難な要素が多く含まれています。これらの要素は、自然な言語コミュニケーションにおいて極めて重要な役割を果たしています。

進化の違い:自然選択vs人工設計

人間の言語能力は、数万年以上にわたる自然選択の結果として進化してきました。一方、LLMは過去数十年の間に人工的に設計されたものです。この根本的な違いは、両者の能力の本質的な差異を示唆しています。

機能の違い:全体的コミュニケーションvs文章生成

人間の言語は、文章の生成だけでなく、音声、手話、ジェスチャーなど、多様な形態でのコミュニケーションを可能にします。また、言語は思考や認知にも深く関わっています。一方、LLMの主な機能は文章の生成に限られています。

意味の理解:表象vs本質

研究チームは、LLMが示す「意味理解」は、実際には意味の表象や近似にすぎないと指摘しています。LLMは膨大な量のテキストデータから言語形式間の関係を学習していますが、これらの形式が実際に何を意味するのかについての本質的な理解は持っていません。

これは、スペイン語の発音規則を完璧に習得しても、その言語の意味を理解していない人間のようなものです。LLMが生成する文章が意味を持つように見えるのは、私たち人間がその意味を解釈しているからにすぎません。

多様性の欠如:英語中心主義の限界

現在のLLMは、主に英語を中心とした少数の言語でのみ高い性能を示しています。しかし、世界には7,000以上の言語が存在し、そのうち約半数は文字を持たない口承言語です。また、手話のような視覚言語も存在します。

LLMがこれらの多様な言語形態を扱えないということは、人間の言語能力の本質を理解する上で重大な制限となります。言語の多様性を考慮せずに人間の言語能力を論じることは、極めて限定的な視点でしかありません。

LLMの可能性と限界:研究ツールとしての活用

研究チームは、LLMが人間の言語能力を解明するための直接的な証拠にはならないと主張する一方で、適切に使用すれば有用な研究ツールになり得ると指摘しています。

例えば、LLMの学習過程と出力を詳細に分析することで、人間の言語習得に関する新たな仮説を生み出すことができるかもしれません。また、LLMを特定の言語現象のモデル化に使用することで、人間の言語処理メカニズムについての洞察を得られる可能性もあります。

ただし、このようなアプローチを取る際には、LLMと人間の言語能力の根本的な違いを常に念頭に置く必要があります。

結論:人間の言語能力の神秘と AI 研究の展望

Cuskley氏らの研究は、LLMの驚異的な進化にもかかわらず、人間の言語能力がいかに複雑で神秘的なものであるかを改めて示しています。LLMは確かに人間の言語の一部の機能を模倣することに成功していますが、言語の本質的な部分 – その発達過程、メカニズム、進化の歴史、そして多様な機能 – を再現するには至っていません。

この研究結果は、AI研究の方向性に対しても重要な示唆を与えています。人間の言語能力をより深く理解し、真に知的な AI システムを開発するためには、単にテキストデータの処理能力を向上させるだけでなく、言語の多様性や身体性、社会的相互作用などの要素を考慮に入れた新たなアプローチが必要かもしれません。

同時に、この研究は人間の言語能力の素晴らしさを再認識させてくれます。私たちが日常的に行っている言語コミュニケーションは、実は極めて高度で複雑な認知プロセスの産物なのです。

今後の展望:言語科学と AI 研究の融合へ

Cuskley氏らの研究は、言語科学とAI研究の緊密な連携の必要性を示唆しています。LLMの限界を理解することは、人間の言語能力をより深く探求するための新たな視点を提供し、同時により洗練されたAIシステムの開発につながる可能性があります。

例えば、言語獲得の初期段階にある子どもの言語環境をより忠実に再現したAIモデルの開発や、多様な言語形態(音声言語、手話、ジェスチャーなど)を統合的に扱えるシステムの構築などが、今後の研究の方向性として考えられます。

また、言語の社会的側面や文化的背景をAIシステムに組み込む試みも重要になるでしょう。言語は単なる情報伝達の道具ではなく、人間の社会的絆や文化的アイデンティティの形成にも深く関わっています。このような言語の多面的な性質をAIシステムに反映させることは、大きな挑戦ですが、人間とAIのより自然なコミュニケーションを実現する鍵となるかもしれません。

さらに、この研究は言語の多様性の重要性を強調しています。英語以外の言語、特に文字を持たない言語や手話などのモダリティの異なる言語に関する研究を進めることで、人間の言語能力の本質により迫ることができるでしょう。これは同時に、より包括的で公平なAI技術の開発にもつながります。

最後に、この研究は私たち一人一人に、自分たちの言語能力について考える機会を与えてくれます。日々何気なく使っている言葉の背後には、長い進化の歴史と複雑な認知メカニズムが存在しています。AIとの比較を通じて、人間の言語能力の特異性と素晴らしさを再認識し、それを大切に育んでいくことの重要性を感じずにはいられません。

Cuskley氏らの研究は、AIブームに沸く現代社会に対して、重要な警鐘を鳴らしています。技術の進歩に目を奪われるあまり、人間の能力の本質を見失わないよう注意を促しているのです。同時に、AIと人間の能力を適切に比較・検討することで、両者の長所を活かした新たな可能性が開けるかもしれません。

言語は人間を人間たらしめる最も重要な能力の一つです。その神秘の解明に向けた探求は、今後も言語科学者たちの手によって続けられていくことでしょう。そして、その過程でAI研究者との協働がますます重要になっていくに違いありません。


Cuskley, C., Woods, R., & Flaherty, M. (2024). The Limitations of Large Language Models for Understanding Human Language and Cognition. Open Mind: Discoveries in Cognitive Science, 8, 1058–1083. https://doi.org/10.1162/opmi_a_00160

By 吉成 雄一郎

東海大学教授。コロンビア大学大学院ティーチャーズカレッジ(英語教授法)、信州大学大学院工学研究科(情報工学)修了。東京電機大学教授を経て現職。専門は英語教授法、英語教育システム開発。 さまざまな英語学習書、英検、TOEIC 対策書、マルチメディア教材等を手がけてきた。英語e ラーニングや英語関係の教材・コンテンツの研究開発も行う。全国の大学、短期大学、高専等で使われているe ラーニングシステム「リンガポルタ」も開発した。最近ではAI による新しい教育システムの開発にも着手している。