はじめに

私たちは日々、様々な環境で言葉を聞き、理解しています。騒がしい場所でも、相手の話を聞き取ることができるのは不思議です。この言語理解のメカニズムを解明しようと、オランダのVU大学の研究チームが興味深い実験を行いました。その成果が、Adriana A. Zekveldらによる論文「Top–down and bottom–up processes in speech comprehension」(言語理解におけるトップダウンとボトムアップ処理)です。

研究の背景

人間の脳がどのように言葉を処理しているかは、長年の研究テーマです。特に、雑音の中で言葉を聞き取る能力は注目されてきました。これまでの研究で、言語処理には前頭葉と側頭葉の広範なネットワークが関与していることがわかっています。しかし、各領域の具体的な役割については、まだ不明な点が多くありました。

Zekveldらの研究は、この課題に新しいアプローチで挑んだものです。彼らは、雑音の中の言葉の聞き取りやすさ(信号対雑音比:SNR)を細かく変化させ、脳の活動を詳細に観察しました。これにより、言語理解の過程で各脳領域がどのように働くかを、より精密に把握することを目指しました。

研究方法

実験では、20〜26歳の10人の健康な成人が参加しました。参加者は、MRIスキャナーの中で、様々なSNRで提示されるオランダ語の文を聞きました。SNRは-35dBから+5dBまで144段階で変化させました。これは、まったく聞き取れない状態から完全に理解できる状態までをカバーしています。

参加者は、聞こえた文を4つの選択肢から選ぶタスクを行いました。また、実験後に予想外の再認テストも行われ、聞いた文をどれだけ覚えているかが調べられました。

脳の活動は、機能的磁気共鳴画像法(fMRI)で測定されました。研究チームは、言語理解に関わる脳領域を特定し、それぞれの領域がSNRの変化に応じてどのように活動するかを分析しました。

主な発見

  1. 低SNRでの前頭葉の活動

最も興味深い発見の一つは、まだ言葉が聞き取れない低いSNRでも、左下前頭回(ブローカ野の一部)が活動していたことです。研究者たちは、これを「内的な言語表象の活性化」と解釈しました。つまり、はっきりとは聞こえない言葉を理解しようとして、脳内で言葉のイメージを生成している可能性があるのです。

  1. 理解可能な言葉に対する広範な活動

言葉が理解できるレベルのSNRになると、側頭葉と前頭葉の広い範囲で活動が見られました。特に、両側の側頭葉と左下前頭回の一部(BA45)では、理解できない言葉と比べて有意に高い活動が観察されました。これらの領域が、言語理解の中核を担っていることが示唆されます。

  1. SNRの増加に伴う活動変化

SNRが上がるにつれて、前頭葉と側頭葉の活動は共にS字カーブを描いて増加しました。しかし、高SNRでの活動レベルは、前頭葉よりも側頭葉の方が高くなりました。研究チームは、これを前頭葉のトップダウン処理と側頭葉のボトムアップ処理の違いを反映していると考えています。

結果の解釈

これらの結果から、Zekveldらは言語理解のプロセスについて次のような解釈を提示しています:

  1. トップダウン処理の役割 前頭葉、特にブローカ野は、言葉がはっきり聞こえない状況でも活動します。これは、脳が積極的に「言葉らしきもの」を探そうとしている状態を反映していると考えられます。言葉の手がかりが少しでもあれば、それを元に内的な言語表象を活性化させ、理解を助けようとしているのかもしれません。
  2. ボトムアップ処理の重要性 側頭葉の活動は、SNRが高くなるほど強くなりました。これは、聞こえてくる音声信号を忠実に処理しようとする、ボトムアップな情報処理を反映していると解釈できます。言葉がはっきり聞こえるほど、この処理がより活発になると考えられます。
  3. 協調的な言語処理 前頭葉と側頭葉の活動が同時に始まることから、言語理解は複数の脳領域が協調して行う作業だと推測されます。ただし、各領域の役割の重要性は、聞き取りやすさによって変化する可能性があります。

研究の意義と今後の展望

この研究は、言語理解における脳内プロセスをこれまでにない精度で明らかにしました。特に、SNRを細かく変化させて脳活動を観察したことで、各脳領域の役割をより詳細に把握することができました。

この成果は、言語障害の理解や治療法の開発に貢献する可能性があります。また、騒音下での音声認識技術の向上など、工学的な応用も期待できるでしょう。

今後の研究では、個人差や言語の違いによる影響、より複雑な言語タスクでの脳活動など、さらに多角的な検討が必要になるでしょう。Zekveldらの研究は、言語理解の脳科学的解明に向けた重要な一歩と言えます。


Zekveld, A. A., Heslenfeld, D. J., Festen, J. M., & Schoonhoven, R. (2006). Top–down and bottom–up processes in speech comprehension. NeuroImage, 32(4), 1826-1836. https://doi.org/10.1016/j.neuroimage.2006.04.199

By 吉成 雄一郎

東海大学教授。コロンビア大学大学院ティーチャーズカレッジ(英語教授法)、信州大学大学院工学研究科(情報工学)修了。東京電機大学教授を経て現職。専門は英語教授法、英語教育システム開発。 さまざまな英語学習書、英検、TOEIC 対策書、マルチメディア教材等を手がけてきた。英語e ラーニングや英語関係の教材・コンテンツの研究開発も行う。全国の大学、短期大学、高専等で使われているe ラーニングシステム「リンガポルタ」も開発した。最近ではAI による新しい教育システムの開発にも着手している。