人工知能(AI)と神経科学は長い間、密接な関係を持ちながら発展してきました。しかし近年、両分野の交流は以前ほど活発ではなくなっていました。この状況に一石を投じる論文が、DeepMindの研究者らによって発表されました。「Neuroscience-Inspired Artificial Intelligence」と題されたこの論文は、AIの発展における神経科学の重要性を改めて強調し、両分野の協力関係を再構築する必要性を説いています。

本記事では、この論文の主要な内容を解説するとともに、AIと神経科学の相互作用がもたらす可能性について考察します。

AIと神経科学の歴史的つながり

論文ではまず、AIと神経科学の歴史的な関係性が紹介されています。コンピューター時代の黎明期、AIの研究は神経科学や心理学と密接に結びついていました。多くの先駆者たちが両分野を横断する研究を行い、互いに刺激し合う関係にありました。

しかし、時が経つにつれて両分野は徐々に分離していきました。それぞれの分野が複雑化し、専門性が高まったことが要因の一つです。しかし、論文の著者たちは、AIの発展にとって神経科学の知見は今なお重要であり、むしろその重要性は増していると主張しています。

なぜ神経科学の知見が重要なのか

著者たちは、人間レベルの汎用AIを作ることは非常に困難な課題であり、可能な解決策の探索空間は膨大であると指摩しています。そのため、既に知能を実現している人間の脳の仕組みを参考にすることは、効率的なアプローチだと考えられます。

神経科学の知見がAIにもたらす利点は主に2つあると論文は指摘しています:

  1. 新しいアルゴリズムやアーキテクチャのアイデア源となる
  2. 既存のAI技術の妥当性を検証できる

つまり、脳の仕組みを参考にすることで、AIの新しい設計アイデアが得られるだけでなく、現在のAI技術が本当に知的な処理を行っているのかを確認することもできるのです。

神経科学がAIに与えた影響 – 過去の事例

論文では、神経科学がAIの発展に貢献してきた具体的な事例がいくつか紹介されています。その中でも特に重要な2つの例を見てみましょう。

深層学習の誕生 現在のAI技術の中核を担う深層学習は、もともと神経科学の知見に触発されて生まれました。1940年代に始まった人工ニューラルネットワークの研究は、脳の神経細胞のつながりを模倣したものでした。

その後、1980年代に誤差逆伝播法(バックプロパゲーション)が開発され、多層のニューラルネットワークの学習が可能になりました。この技術は、並列分散処理(PDP)研究グループによって提唱されましたが、彼らは神経科学者や認知科学者でした。

PDPグループは、人間の認知や行動は単純なニューロン様ユニットのネットワーク内での動的で分散的な相互作用から生まれるという考えを提唱しました。この考え方は、現在の深層学習の基礎となっています。

強化学習の発展 もう一つの重要な例は強化学習です。強化学習は、環境との相互作用を通じて報酬を最大化する方法を学習するAIの一分野です。この技術の中核をなす時間的差分(TD)学習は、動物の条件付け実験の研究から生まれました。

特に、「二次条件付け」と呼ばれる現象が重要でした。これは、直接的な報酬との関連付けではなく、別の条件刺激を介して刺激に情動的意味が付与される現象です。TD学習はこの現象を自然に説明でき、さらに他の多くの神経科学的発見とも整合性がありました。

このように、神経科学の知見から生まれた技術が、現在のAIの中核を成しているのです。

神経科学がAIに与える影響 – 現在の事例

論文では、最近のAI研究でも神経科学の影響が見られることが指摘されています。以下に、いくつかの例を紹介します。

注意機構 人間の視覚系は、入力された視覚情報全体を均等に処理するのではなく、注目すべき部分に処理資源を集中させます。この「注意」のメカニズムは、最近のAIモデルにも取り入れられています。

例えば、画像の一部分ずつを順番に処理し、内部状態を更新しながら次に注目する位置を決定するネットワークが開発されています。この方法により、画像中の関連する情報を効率的に抽出し、複雑な物体認識タスクでの性能向上が実現されています。

エピソード記憶 人間の記憶システムには、強化学習的なメカニズムだけでなく、一度の経験を即座に記憶できる「エピソード記憶」も存在します。この仕組みは、海馬が担っていると考えられています。

最近のAI研究では、この仕組みを模倲した「エピソード制御」と呼ばれる手法が開発されています。これは、特定の状況での行動とその結果を記憶し、似た状況に遭遇したときにその経験を利用する仕組みです。この方法により、特に学習初期段階での性能向上が実現されています。

ワーキングメモリ 人間の知能の特徴の一つは、情報を一時的に保持し操作する「ワーキングメモリ」の能力です。この機能は前頭前野が担っていると考えられています。

AIの分野でも、外部メモリを持つニューラルネットワークが開発されています。例えば、Neural Turing MachineやDifferentiable Neural Computer (DNC)と呼ばれるモデルがあります。これらは、従来のニューラルネットワークでは困難だった複雑な推論タスクを実行できることが示されています。

継続学習 人間は新しいタスクを学習しても、以前に学んだスキルを忘れません。一方、従来の人工神経網では、新しいタスクを学習すると以前のタスクの性能が低下する「破壊的忘却」が問題となっていました。

最近の研究では、シナプスの可塑性に関する神経科学の知見を参考に、「弾性的重み固定」と呼ばれる手法が開発されました。これにより、複数のタスクを順次学習できるAIの開発が進んでいます。

神経科学がAIにもたらす今後の可能性

論文の著者たちは、今後のAI研究においても神経科学の知見が重要な役割を果たすと予想しています。特に以下の分野で、神経科学の貢献が期待されています。

物理的世界の直感的理解 人間の赤ちゃんは、空間、数、物体性といった基本的な概念を生まれながらにして理解しているように見えます。これらの概念を用いて、世界のモデルを構築し、推論や予測を行っています。

最近のAI研究では、個々の物体とその関係性を理解し、それに基づいて推論を行うニューラルネットワークが開発されています。また、物体の形状や位置といった要素を独立して表現できる生成モデルも作られています。これらの研究は、人間の赤ちゃんのような世界理解をAIに実装しようとする試みと言えるでしょう。

効率的な学習 人間は少ない例からでも新しい概念を学習し、柔軟に推論を行うことができます。一方、従来のAIシステムは大量のデータを必要としていました。

最近の研究では、過去の経験を活用して新しいタスクの学習を高速化する「学習の学習」や、一度の提示で新しい概念を学習する「ワンショット学習」などの手法が開発されています。これらは、人間の学習能力をAIに実装しようとする試みです。

転移学習 人間は、ある文脈で学んだ知識を別の文脈に適用することができます。例えば、車の運転ができる人は、見たことのない車でもある程度操作できるでしょう。

AI研究でも、ある領域で学習したモデルを別の領域に適用する転移学習の研究が進んでいます。例えば、あるビデオゲームで学習したスキルを別のゲームに転用する手法や、シミュレーション環境での学習結果を実世界のロボットに適用する手法などが開発されています。

想像力とプランニング 人間は、過去の経験に基づいて未来の状況を想像し、それに基づいて行動を計画することができます。この能力は、海馬が重要な役割を果たしていると考えられています。

AI研究でも、環境のモデルを学習し、それを用いてシミュレーションベースの計画を立てる手法が研究されています。特に、現実的な環境を生成できるディープ生成モデルの開発が進んでおり、これらを用いた計画立案の研究が期待されています。

AIから神経科学へのフィードバック

論文では、AIから神経科学への貢献についても言及されています。AI研究で開発された手法や概念が、脳の働きを理解する上で役立つ可能性があるのです。

例えば、強化学習の理論は、脳内の報酬系の理解に大きく貢献しました。中脳ドーパミン神経の活動パターンが、強化学習理論で予測されるTD誤差信号と酷似していることが発見されたのです。

また、画像認識で成功を収めている畳み込みニューラルネットワーク(CNN)は、視覚皮質の階層的情報処理の仕組みの解明に役立っています。CNNの中間層の活動パターンが、サルの下側頭皮質のニューロン活動と類似していることが報告されています。

このように、AIと神経科学は相互に影響を与え合い、両分野の発展を加速させる可能性があります。

おわりに

DeepMindの研究者らによる本論文は、AIの発展における神経科学の重要性を改めて強調しています。過去から現在に至るまで、神経科学の知見はAI研究に大きな影響を与え続けてきました。そして今後も、物理的世界の直感的理解、効率的な学習、転移学習、想像力とプランニングといった分野で、神経科学の貢献が期待されています。

一方で、AI研究の成果が神経科学にフィードバックされ、脳の仕組みの理解を深めることも期待されています。両分野が密接に協力することで、人工知能の発展と人間の脳の理解が相互に促進される「好循環」が生まれる可能性があります。

最後に著者らは、AIの開発が最終的には人間の心や思考プロセスのより深い理解につながるかもしれないと示唆しています。知能をアルゴリズムとして具現化し、それを人間の脳と比較することで、創造性や夢、そして意識の本質といった心の最も深遠な謎の一部が解明される可能性があるのです。

AIと神経科学の協力関係が、人工知能の発展と人間の脳の理解という二つの大きな課題に、新たな視座をもたらすことが期待されます。


Hassabis, D., Kumaran, D., Summerfield, C., & Botvinick, M. (2017). Neuroscience-inspired artificial intelligence. Neuron, 95(2), 245-258. https://doi.org/10.1016/j.neuron.2017.06.011

By 吉成 雄一郎

東海大学教授。コロンビア大学大学院ティーチャーズカレッジ(英語教授法)、信州大学大学院工学研究科(情報工学)修了。東京電機大学教授を経て現職。専門は英語教授法、英語教育システム開発。 さまざまな英語学習書、英検、TOEIC 対策書、マルチメディア教材等を手がけてきた。英語e ラーニングや英語関係の教材・コンテンツの研究開発も行う。全国の大学、短期大学、高専等で使われているe ラーニングシステム「リンガポルタ」も開発した。最近ではAI による新しい教育システムの開発にも着手している。