人工知能(AI)による言語処理技術は日々進化を続けています。しかし、人間のような柔軟で文脈に応じた言語理解には、まだ及びません。なぜでしょうか。そして、どうすれば人間レベルの言語理解を持つAIを作ることができるのでしょうか。

スタンフォード大学のJames L. McClelland教授らの研究チームは、この問いに対する新たな視点を提示しました。彼らは、言語を単独で扱うのではなく、より広範な「理解システム」の一部として捉えるべきだと主張しています。そして、脳科学とAIの知見を融合させた新しいモデルの構築を提案しています。

本記事では、McClelland教授らの論文「Placing language in an integrated understanding system: Next steps toward human-level performance in neural language models」の内容を詳しく見ていきます。

言語は単独で存在しない

研究チームは、言語を他の認知機能から切り離して考えるのではなく、状況を理解し伝達するためのより大きなシステムの一部として捉えることが重要だと指摘しています。

人間が言語を処理する際、単に文字や音声を解析しているわけではありません。私たちは、言語情報と他の感覚情報を組み合わせて、状況の全体像を理解しています。例えば、「男の子がボールを打った」という文を理解する際、私たちは視覚的なイメージや過去の経験を想起し、より豊かな理解を構築しているのです。

このような統合的な理解プロセスを模倣することで、より人間に近い言語理解能力を持つAIの開発が可能になると、研究チームは考えています。

脳の理解システムを模倣する

では、人間の脳はどのように言語を含む状況を理解しているのでしょうか。研究チームは、脳の理解システムを以下のように構成されていると考えています:

1. 視覚情報処理システム
2. 聴覚情報処理システム
3. 物体表現システム
4. 文脈表現システム
5. 言語処理システム

これらのシステムは互いに密接に連携し、情報を交換しながら全体的な理解を形成します。例えば、物体表現システムは視覚情報と言語情報を統合して、物体の特性を表現します。文脈表現システムは、時間的・空間的な文脈を捉え、状況の全体像を把握します。

重要なのは、これらのシステムが単方向ではなく、双方向に情報をやり取りしている点です。この相互作用により、各システムの出力が他のシステムによって調整され、より整合性のとれた理解が可能になります。

研究チームは、このような脳の構造を参考にしたAIモデルの開発が、人間レベルの言語理解への道を開くと考えています。

最新のAI技術を活用する

近年のAI技術の進歩、特に「クエリベースの注意機構(Query-Based Attention: QBA)」の登場により、言語モデルの性能は飛躍的に向上しました。QBAは、入力の中で重要な情報に「注意を向ける」ことができ、文脈に応じた柔軟な処理を可能にします。

研究チームは、このQBA技術を活用しつつ、脳の理解システムを模倣したモデルの構築を提案しています。具体的には、以下のようなコンポーネントを持つシステムを想定しています:

1. 物体サブシステム:視覚情報を処理し、物体の表現を生成
2. 言語サブシステム:テキスト情報を処理
3. 文脈サブシステム:時系列的な情報を圧縮して保持
4. 記憶サブシステム:長期的な情報を保存・検索

これらのサブシステムが相互に作用し合うことで、より豊かで文脈に応じた理解が可能になると考えられています。

実世界との相互作用の重要性

研究チームは、言語理解の向上には実世界との相互作用が不可欠だと指摘しています。言語だけでなく、視覚、聴覚、触覚などの多様な感覚情報を統合することで、より豊かな理解が可能になるのです。

例えば、仮想環境内でエージェントに言語指示に基づいて行動させる実験が行われています。「鉛筆を見つけて」「バスケットボールを持ち上げて」といった指示を理解し、適切に行動するエージェントの開発が進められています。

このような実験を通じて、言語と行動を結びつける能力や、物体の永続性、因果関係の理解といった基本的な概念を獲得させることができます。これらの概念は、より高度な言語理解の基盤となるものです。

抽象的概念への拡張

具体的な状況の理解から、さらに抽象的な概念の理解へと拡張していくことも重要です。研究チームは、具体的な経験を基盤として、メタファーを通じて抽象的な概念理解へと橋渡しする方法を提案しています。

例えば、「把握する」という言葉は、物理的な動作としての「掴む」から、「アイデアを把握する」といった抽象的な意味へと拡張されます。このような具体から抽象への拡張プロセスを、AIモデルに組み込むことで、より深い言語理解が可能になると考えられています。

課題と展望

人間レベルの言語理解を持つAIの開発には、まだ多くの課題が残されています。例えば:

1. 効率的な学習:人間は少ない経験から効率的に学習しますが、現在のAIモデルは膨大なデータを必要とします。
2. 常識的推論:物理法則や社会的規範といった基本的な知識を組み込む方法の開発が必要です。
3. 抽象的思考:具体的な経験から抽象的な概念を獲得するプロセスのモデル化が求められます。
4. 記憶と推論の統合:長期記憶と短期記憶を適切に組み合わせ、柔軟な推論を行う仕組みの開発が必要です。

これらの課題に取り組むことで、より人間に近い言語理解能力を持つAIの開発が進むと期待されています。

おわりに

McClelland教授らの研究は、人間レベルの言語理解を目指すAI開発に新たな視点を提供しています。言語を単独で扱うのではなく、より広範な理解システムの一部として捉え、脳科学とAIの知見を融合させることで、ブレークスルーが生まれる可能性があります。

具体的には、以下のアプローチが重要だと考えられています。

1. 言語を含む統合的な理解システムのモデル化
2. 脳の構造を参考にしたAIアーキテクチャの開発
3. 最新のAI技術(クエリベースの注意機構など)の活用
4. 実世界との相互作用を通じた学習
5. 具体から抽象への拡張プロセスのモデル化

これらのアプローチを組み合わせることで、より柔軟で文脈に応じた言語理解が可能になると期待されています。

人間レベルの言語理解を持つAIの開発は、単なる技術的な挑戦ではありません。それは人間の認知プロセスへの深い洞察をもたらし、私たちが言語や思考をどのように扱っているかについての理解を深めることにもつながります。

今後、脳科学者、言語学者、AIの研究者が協力して、この挑戦的な課題に取り組んでいくことが重要です。人間レベルの言語理解を持つAIの開発は、人工知能研究の次なる大きな目標の一つとなるでしょう。それは単に便利なツールを作るだけでなく、人間の認知や思考のプロセスへの理解を深め、人間とAIのより良い共存の形を探る上でも重要な意味を持つのです。


McClelland, J. L., Hill, F., Rudolph, M., Baldridge, J., & Schütze, H. (2020). Placing language in an integrated understanding system: Next steps toward human-level performance in neural language models. Proceedings of the National Academy of Sciences, 117(42), 25966-25974. https://doi.org/10.1073/pnas.1910416117

By 吉成 雄一郎

東海大学教授。コロンビア大学大学院ティーチャーズカレッジ(英語教授法)、信州大学大学院工学研究科(情報工学)修了。東京電機大学教授を経て現職。専門は英語教授法、英語教育システム開発。 さまざまな英語学習書、英検、TOEIC 対策書、マルチメディア教材等を手がけてきた。英語e ラーニングや英語関係の教材・コンテンツの研究開発も行う。全国の大学、短期大学、高専等で使われているe ラーニングシステム「リンガポルタ」も開発した。最近ではAI による新しい教育システムの開発にも着手している。