研究者たちは、人間の脳の仕組みを模倣した人工知能システムを開発し、4つの異なる言語を同時に学習させることに成功しました。この研究成果は、多言語を扱うAIシステムの新たな可能性を示すものです。

マンチェスター大学のIoanna Giorgi氏らの研究チームは、ANNABELLと呼ばれる認知アーキテクチャを用いて、英語、ギリシャ語、イタリア語、アルバニア語の4カ国語を同時に学習させる実験を行いました。ANNABELLは人間の脳の仕組み、特にワーキングメモリの機能を模倣して設計された大規模なニューラルネットワークです。

実験の結果、ANNABELLは4カ国語を78%〜84%の精度で理解し、適切に応答することができました。これは、各言語を個別に学習させた場合の84%〜89%という精度と比較しても、大きな低下は見られませんでした。

人間の脳を模倣したアーキテクチャ

ANNABELLの特徴は、人間の脳の認知機能、特にワーキングメモリの仕組みを模倣していることです。システムは以下のような構成要素を持っています:

  1. 短期記憶(STM):入力された文章や長期記憶から取り出した情報を一時的に保持します。
  2. 長期記憶(LTM):学習した情報を長期的に保存します。
  3. 中央実行系(CE):情報の流れを制御し、意思決定を行います。
  4. 報酬システム:適切な行動を強化学習します。

この構造により、ANNABELLは単なる単語の統計的処理ではなく、文脈を理解し、適切な応答を生成することができます。

4カ国語の同時学習実験

研究チームは、ANNABELLに4カ国語を同時に学習させる実験を行いました。使用された言語は以下の通りです:

  1. 英語
  2. ギリシャ語
  3. イタリア語
  4. アルバニア語

これらの言語は文法構造や複雑さが大きく異なります。例えば、ギリシャ語には3つの性(男性、女性、中性)と4つの格(主格、属格、対格、呼格)があり、イタリア語では主語を省略することが多いという特徴があります。

実験では、4歳の少女の社会環境を描写する文章や質問を用いて学習を行いました。質問には以下のようなものが含まれています:

  • 代名詞の使用
  • はい/いいえで答える質問
  • 選択式の質問
  • 疑問詞を使った質問
  • 年齢の比較
  • 好き嫌いの表現
  • 他人の好みや職業の認識

実験の結果

研究チームは、ANNABELLの性能を2つの方法で評価しました:

  1. 各言語を個別に学習させた場合の性能
  2. 4カ国語を同時に学習させた場合の性能

個別学習の結果

  • 英語:89.38%
  • ギリシャ語:84.41%
  • イタリア語:86.04%
  • アルバニア語:86.3%

同時学習の結果

  • 英語:83.81%
  • ギリシャ語:78.51%
  • イタリア語:78.00%
  • アルバニア語:77.97%

同時学習の場合、個別学習と比較して若干の性能低下が見られましたが、それでも高い精度を維持しています。研究チームは、この性能低下は学習するデータ量が4倍に増えたことによる影響だと考えています。

興味深い点として、同時学習の場合、時々言語が混ざった応答が見られました。例えば:

  1. 質問とは異なる言語で文法的に正しい応答をする
  2. 質問と異なる言語で意味的に正しい応答をする
  3. 2つの言語の単語を混ぜて使用する

研究チームは、これらの現象が言語間の関連性を示している可能性があると指摘しています。

段階的な言語追加実験

研究チームは、言語を段階的に追加していく実験も行いました。結果は以下の通りです:

  1. アルバニア語のみ:85.62%
  2. アルバニア語+イタリア語:80.48%(アルバニア語)、80.82%(イタリア語)
  3. アルバニア語+イタリア語+ギリシャ語:80.48%(アルバニア語)、77.74%(イタリア語)、78.42%(ギリシャ語)
  4. 4カ国語すべて:77.74%(アルバニア語)、77.74%(イタリア語)、76.03%(ギリシャ語)、79.45%(英語)

この結果から、2〜3言語の同時学習では大きな性能低下は見られないことがわかりました。4言語目を追加した際の軽度の低下については、さらなる研究が必要だと研究チームは述べています。

物語理解能力の実験

研究チームは、ANNABELLの言語理解能力をさらに検証するため、幼児向けの物語を用いた実験も行いました。使用された物語は「My first jungle story」というタイトルの本からのもので、4カ国語に翻訳されています。

この実験では、以下の3つの能力を評価しました:

  1. 文脈に応じた適切な回答ができるか
  2. 対話の中で質問の関連性を理解し、適切に応答できるか
  3. 未見のテストセットに対して一般化できるか

実験の結果、ANNABELLは個別学習と同時学習の両方で80%以上の精度を達成しました。システムは物語の登場人物を正しく追跡し、関連する質問に適切に応答することができました。

この研究の意義

この研究は、人間の脳の仕組みを模倣したAIシステムが複数の言語を同時に学習できることを示した点で重要です。主な意義は以下の通りです:

  1. 脳科学に基づいたアプローチ:従来の統計的手法ではなく、人間の認知プロセスを模倣することで、より自然な言語理解を実現しています。
  2. 複数言語の同時学習:4つの異なる言語を同時に学習し、高い精度で理解・応答できることを示しました。これは、多言語AIシステムの新たな可能性を開くものです。
  3. 言語間の関連性:同時学習によって生じる言語混合の現象は、言語間の関連性を示唆しており、言語学的にも興味深い発見です。
  4. 拡張性:段階的な言語追加実験により、システムが新しい言語を追加しても高い性能を維持できることが示されました。
  5. 物語理解能力:単なる質問応答だけでなく、物語の文脈を理解し、関連する質問に適切に応答できる能力を示しました。

ANNABELLの今後の課題と展望

研究チームは、ANNABELLのさらなる改善と応用に向けて、以下のような課題と展望を挙げています:

  1. スケーラビリティの向上:より多くの言語や複雑な文章を扱えるよう、システムの拡張性を高める必要があります。
  2. 非言語的信号の活用:言語獲得過程における非言語的信号(ジェスチャーや表情など)の役割を研究し、システムに組み込むことを検討しています。
  3. 実世界での応用:ANNABELLをヒューマノイドロボットに実装し、実際の人間とのインタラクションを通じた言語獲得と使用を目指しています。
  4. 言語混合現象の解明:同時学習時に見られた言語混合現象について、さらなる研究を行い、その原因と意義を明らかにすることを計画しています。
  5. 学習効率の向上:より少ない例文で効率的に学習できるよう、システムの改良を進めています。
  6. 他の認知タスクへの応用:言語理解以外の認知タスク(視覚認識や推論など)にもANNABELLのアーキテクチャを応用することを検討しています。

おわりに

この研究は、人間の脳の仕組みを模倣したAIシステムが複数の言語を同時に学習し、高い精度で理解・応答できることを示しました。ANNABELLの成功は、今後の多言語AIシステムの開発に新たな道筋を示すものです。

言語の壁を越えたコミュニケーションは、グローバル化が進む現代社会において重要な課題です。ANNABELLのような技術が発展すれば、異なる言語を話す人々の間のコミュニケーションを支援する高度な翻訳システムや、多言語対応の対話システムの実現につながる可能性があります。

また、この研究は言語獲得のメカニズムに関する認知科学的な洞察も提供しています。複数の言語を同時に学習する過程で見られた言語混合現象は、人間の脳における言語処理のメカニズムを理解する上で貴重な手がかりとなるかもしれません。

今後、ANNABELLがさらに進化し、より多くの言語や複雑な文脈を扱えるようになれば、言語の壁を越えた真のグローバルコミュニケーションの実現に大きく貢献することが期待されます。同時に、この技術は言語学習支援ツールや、言語障害を持つ人々のコミュニケーション支援など、幅広い分野での応用も考えられます。

人間の脳を模倣したAIの研究は、単に高性能なシステムを作るだけでなく、人間の認知プロセスへの理解を深めることにもつながります。ANNABELLの研究は、AIと認知科学の融合が生み出す可能性の一端を示したと言えるでしょう。今後の発展が大いに期待される研究分野です。


Giorgi, I., Golosio, B., Esposito, M., Cangelosi, A., & Masala, G. L. (2021). Modelling Multiple Language Learning in a Developmental Cognitive Architecture. IEEE Transactions on Cognitive and Developmental Systems, 13(4), 922-933. https://doi.org/10.1109/tcds.2020.3033963

By 吉成 雄一郎

東海大学教授。コロンビア大学大学院ティーチャーズカレッジ(英語教授法)、信州大学大学院工学研究科(情報工学)修了。東京電機大学教授を経て現職。専門は英語教授法、英語教育システム開発。 さまざまな英語学習書、英検、TOEIC 対策書、マルチメディア教材等を手がけてきた。英語e ラーニングや英語関係の教材・コンテンツの研究開発も行う。全国の大学、短期大学、高専等で使われているe ラーニングシステム「リンガポルタ」も開発した。最近ではAI による新しい教育システムの開発にも着手している。