Alexandra KrauskaとEllen Lau両氏による論文”Moving away from lexicalism in psycho- and neuro-linguistics”は、言語処理に関する従来の考え方に一石を投じる意欲的な研究です。両氏はメリーランド大学言語学部に所属し、言語処理の認知・神経科学的側面を専門としています。本論文は、長年支配的だった「語彙主義」的アプローチに疑問を投げかけ、新たな言語生成モデルを提案しています。

語彙主義とは何か

語彙主義は、言語処理において「語」を基本単位と考える立場です。この考え方では、単語は意味、統語、形態の三要素が一体となった「レンマ」として心内辞書に格納されていると仮定します。多くの心理言語学・神経言語学モデルはこの前提に基づいています。

しかし著者らは、この語彙主義的アプローチには大きな問題があると指摘します。特に以下の2点を挙げています:

1. 統語と形態を別の処理システムとみなすこと
2. 語彙項目を意味・統語・形態の「三つ組」として扱うこと

これらの前提は、特に英語以外の言語を見ると、多くの言語現象を適切に説明できないというのです。

語彙主義の限界

論文では、イヌクティトゥット語(カナダの先住民言語)、ベトナム語、ヒアキ語(メキシコの先住民言語)などの例を挙げ、語彙主義の問題点を具体的に指摘しています。

例えば、イヌクティトゥット語では1つの「単語」が非常に複雑で、英語の1文に相当する情報を含むことがあります。これを従来のモデルで扱おうとすると、膨大な数の「レンマ」を想定するか、1つのレンマに大量の情報を詰め込む必要が生じ、非現実的です。

また、ベトナム語の慣用句の例では、句を構成する要素が文中で分離可能であることが示されています。これは、語彙と統語を厳密に区別する語彙主義的アプローチでは説明が困難です。

さらに、ヒアキ語の動詞では、その形態が目的語の数に応じて変化します。これは、語の形態が文脈に依存して決まることを示唆し、語彙項目を独立した「三つ組」として扱う考え方と矛盾します。

新たなモデルの提案

これらの問題を解決するため、著者らは非語彙主義的なモデルを提案しています。このモデルの特徴は以下の通りです:

1. 統語と形態を同一のシステムとして扱う
2. 意味、統語、形態を別々に表現し、それらの間のマッピングを柔軟に行う
3. 統語構造の構築と語彙項目の挿入を統合された1つのプロセスとして扱う

このアプローチにより、前述の言語現象をより自然に説明できるようになります。例えば、イヌクティトゥット語の複雑な「単語」も、複数の形態素が階層的に組み合わさったものとして扱えます。ベトナム語の慣用句も、統語的に分離可能な要素として表現できます。

さらに、このモデルでは形態が文脈に依存して決まることを自然に組み込めるため、ヒアキ語の動詞変化なども適切に扱えます。

失語症研究への示唆

著者らの新しいアプローチは、失語症の理解にも新たな視点をもたらします。従来のモデルでは、特定の言語機能の障害が直接的に特定の症状につながると考えられがちでした。

しかし、新モデルでは、ある機能の障害が別の処理段階で「マスク」される可能性を示唆しています。例えば、統語構造の構築に問題があっても、後続の音韻処理が正常であれば、一見正常な発話が生成される可能性があります。

これは、失語症の症状をより複雑な視点で捉える必要性を示唆しており、診断や治療法の開発に影響を与える可能性があります。

認知制御の重要性

著者らのモデルでは、言語処理における認知制御の役割も強調されています。特に、階層的な統語構造を線形の発話に変換する過程で、認知制御が重要な役割を果たすと考えられています。

この視点は、非流暢性失語における機能語や屈折形態素の欠落を、これらの要素の線形配置に関わる認知制御の問題として解釈する可能性を開きます。さらに、この考え方は言語間の違いも説明できる可能性があります。例えば、形態素の順序がより固定的な言語では、認知制御の負荷が低くなるため、同じタイプの失語でも症状が異なる可能性があるのです。

おわりに

本論文は、長年支配的だった語彙主義的アプローチに疑問を投げかけ、より柔軟で包括的な言語処理モデルを提案しています。このアプローチは、多様な言語現象をより自然に説明できるだけでなく、失語症研究にも新たな視点をもたらす可能性があります。

著者らの提案は、言語処理研究に大きなパラダイムシフトをもたらす可能性を秘めています。今後、この理論的枠組みに基づいた実証研究が進められ、さらなる検証と精緻化が行われることが期待されます。

また、この研究は言語の普遍性と多様性の理解にも貢献する可能性があります。異なる言語の現象を統一的に説明できるモデルの開発は、言語の本質的な特性の解明につながるかもしれません。

最後に、この研究は言語学と認知科学、神経科学の融合の重要性を改めて示しています。学際的アプローチによって、言語という複雑な人間の能力の解明が進むことが期待されます。


Krauska, A., & Lau, E. (2023). Moving away from lexicalism in psycho- and neuro-linguistics. Frontiers in Language Sciences, 2, 1125127. https://doi.org/10.3389/flang.2023.1125127

By 吉成 雄一郎

東海大学教授。コロンビア大学大学院ティーチャーズカレッジ(英語教授法)、信州大学大学院工学研究科(情報工学)修了。東京電機大学教授を経て現職。専門は英語教授法、英語教育システム開発。 さまざまな英語学習書、英検、TOEIC 対策書、マルチメディア教材等を手がけてきた。英語e ラーニングや英語関係の教材・コンテンツの研究開発も行う。全国の大学、短期大学、高専等で使われているe ラーニングシステム「リンガポルタ」も開発した。最近ではAI による新しい教育システムの開発にも着手している。