ヒトの言葉 機械の言葉 「人工知能と話す」以前の言語学 (角川新書)

本書『ヒトの言葉 機械の言葉-「人工知能と話す」以前の言語学』は、人工知能(AI)による言語処理が飛躍的に進歩する中で、人間の言語理解と機械の言語処理の違いを掘り下げた良書です。著者の川添愛氏は理論言語学を専門とする研究者で、機械学習やAIの研究にも携わった経験を持ちます。その専門的な知見を活かしながら、一般読者にも分かりやすい説明で、言葉を巡る本質的な問いに迫っています。

AIブームの実態を冷静に解説

近年、AIが人間の言葉を「理解」できるようになったという報道が相次いでいます。機械翻訳の精度は向上し、AIアシスタントとの対話も自然になってきました。しかし著者は、そうした現象を手放しで喜ぶのではなく、AIが本当の意味で言葉を理解しているのか、慎重に検討する必要性を説きます。

例えば著者は、2016年に話題になった「人類を滅ぼす」と発言したAIロボットの事例を取り上げ、これは単にデータ中にそうした言い回しが多く含まれていただけだと指摘。また2017年のFacebook社の「AIが独自言語を開発」というニュースも、実際は誤報であったと説明します。

数値処理としてのAI言語処理

本書の優れた点は、現代のAIがどのように言葉を処理しているのか、その仕組みを丁寧に解説している点です。コンピュータの内部では、文字も音声も画像もすべて「数」として扱われています。AIは、入力された数値データから法則性を見出し、適切な出力を返すよう調整された「関数」に過ぎません。

そして、その調整(学習)には大量の正解データが必要です。著者は、AIの性能向上の裏には、インターネット上の膨大なテキストデータの存在があることを指摘。ただし、それはあくまでデータの中の統計的な法則性を捉えているだけで、人間のような意味理解とは異なると説明します。

人間の言語理解の謎に迫る

本書の特徴は、AIの言語処理の解説にとどまらず、人間の言語理解の謎に深く切り込んでいる点です。著者は「言葉の意味とは何か」という根源的な問いから始め、様々な言語学的な知見を紹介しています。

例えば、辞書に書かれた説明を意味そのものと考えると、説明の中の言葉の意味を知るために別の言葉の説明を見る必要が生じ、永遠に意味が分からなくなってしまう「無限ループ」に陥ることを指摘。また、意味を心の中のイメージと考えても、抽象的な概念を説明できないなどの問題があると説きます。

言語習得の不思議

著者は子供の言語習得についても興味深い考察を展開します。子供は大人から明示的に教わることなく、驚くべき速さで母語を習得していきます。その過程では、「新しい単語は、その物体全体の名前である」といった生得的なバイアスが働いているといいます。

こうした人間特有の言語習得能力は、単純な機械学習では再現できません。著者は、言語能力が生まれつき脳に備わっているとするチョムスキーの説と、学習によって獲得されるとする立場の論争も紹介しています。

コミュニケーションの複雑さ

本書は、人間同士のコミュニケーションの複雑さにも目を向けます。例えば「コップに水を入れて」という簡単な指示でも、コップが汚れていないか確認する、水を飛び散らせないよう注意するなど、言葉には表れない様々な配慮が必要になります。

また、文化や慣習の違いによって、同じ言葉でも異なる意図として解釈される可能性も指摘。「お疲れ様」という日本語の挨拶が、外国人には「本当に疲れているのですか?」という質問と誤解される例なども紹介しています。

AIと人間の共生に向けて

著者は、AIに過度の期待や恐れを抱くのではなく、その限界と可能性を正しく理解する必要性を説きます。そのためには、人間の言語理解の本質をより深く探究する必要があると主張します。

本書は、「AIは人間のように言葉を理解している」という単純な見方を戒め、より慎重な議論の必要性を訴えかけています。同時に、AIと人間の言葉の違いを考えることで、人間の言語能力の特異性や素晴らしさを再認識させてくれる一冊でもあります。

示唆に富む良書

本書は、AIブームに踊らされることなく、人間と機械の言葉の本質的な違いを考えさせてくれる示唆に富む一冊です。一般読者にも理解しやすい平易な文体で、複雑な言語の問題に迫っている点も高く評価できます。AIと共存する社会を考える上で、必読の書と言えるでしょう。

特に優れているのは、AIの仕組みを具体的に説明しながら、人間の言語理解との違いを浮き彫りにしている点です。また、人間の言語理解に関する未解明の謎を丁寧に解説することで、安易な技術万能論に警鐘を鳴らしている点も評価できます。

ただし、本書は入門書でありながら、扱うテーマは決して軽くありません。言語の本質や意味の問題など、哲学的な問いも含まれており、読者には一定の覚悟が必要かもしれません。しかし、その分だけ読後の知的満足度は高く、AIと言葉について深く考えるきっかけを与えてくれる一冊となっています。

By 吉成 雄一郎

東海大学教授。コロンビア大学大学院ティーチャーズカレッジ(英語教授法)、信州大学大学院工学研究科(情報工学)修了。東京電機大学教授を経て現職。専門は英語教授法、英語教育システム開発。 さまざまな英語学習書、英検、TOEIC 対策書、マルチメディア教材等を手がけてきた。英語e ラーニングや英語関係の教材・コンテンツの研究開発も行う。全国の大学、短期大学、高専等で使われているe ラーニングシステム「リンガポルタ」も開発した。最近ではAI による新しい教育システムの開発にも着手している。