本書『0歳児がことばを獲得するとき – 行動学からのアプローチ』は、霊長類行動学の視点から0歳児の言語獲得過程を詳細に分析した先駆的な研究書です。1993年の出版から30年近くが経過した現在でも、その洞察と発見の多くが色あせることなく、むしろ現代の発達心理学や言語学の知見とも整合性を保っている点が注目されます。
著者の正高信男氏は、ニホンザルなどの霊長類研究の経験を活かしつつ、自身の子育て体験も踏まえながら、人間の赤ちゃんのコミュニケーション能力の発達を多角的に考察しています。本書の特徴は、従来の「受動的な赤ちゃん観」を覆し、生まれたばかりの赤ちゃんが既に高度なコミュニケーション能力を備えているという視点を提示した点にあります。
赤ちゃんの能動性に注目
本書は、従来の「タブラ・ラーサ(白紙)」的な赤ちゃん観を否定し、赤ちゃんが生まれながらにして環境と積極的に相互作用する能力を持っていることを強調しています。例えば、生後わずか数週間の赤ちゃんが、母親の声を識別できることや、乳首を吸う行動がコミュニケーションの一形態として機能していることなどが、詳細な観察と実験によって明らかにされています。
この視点は、現代の発達心理学における「有能な赤ちゃん」観と軌を一にするものであり、本書の先見性を示しています。
言語獲得の基盤としての初期相互作用
著者は、言語獲得の基盤が生後6ヶ月までの母子相互作用にあると主張します。特に注目すべきは、「母親語」(マザリーズ)の役割です。母親が赤ちゃんに話しかける際の特徴的な話し方が、赤ちゃんの注意を引き、模倣を促進し、ひいては言語獲得を支援するという指摘は、現代の研究でも裏付けられています。
また、赤ちゃんが発する「クーイング」と呼ばれる喃語が、単なる無意味な発声ではなく、コミュニケーションの意図を持った行動であることを示した点も重要です。これらの観察は、言語獲得が生得的な能力と環境との相互作用によって進行することを示唆しています。
声の高さと抑揚の重要性
本書では、赤ちゃんが声の高さや抑揚に敏感に反応することが示されています。特に、高い声や誇張された抑揚が赤ちゃんの注意を引きつけ、コミュニケーションを促進することが実験的に明らかにされています。
この知見は、現代の育児や早期教育にも応用されており、例えば絵本の読み聞かせや歌いかけの重要性を裏付ける根拠となっています。
文化による差異と普遍性
著者は、日本とカナダ、中国の赤ちゃんを比較し、言語環境による発声パターンの違いを指摘しています。例えば、中国語のような声調言語を母語とする環境では、赤ちゃんが声の抑揚により敏感になるという観察は興味深いものです。
一方で、「かわいらしさ」の知覚など、文化を超えた普遍的な反応パターンも存在することが示されています。これらの知見は、言語獲得における生物学的基盤と文化的影響の相互作用を考える上で重要な示唆を与えています。
霊長類との比較から見る人間の特殊性
本書の特徴的な点は、ニホンザルやその他の霊長類の音声コミュニケーションと人間の赤ちゃんの発声を比較している点です。例えば、ニホンザルの「クー・コール」と呼ばれる発声が、人間の赤ちゃんのクーイングと類似した機能を持つことが指摘されています。
また、霊長類の中にも「方言」のような音声の地域差が存在することや、母子間の音声交換に一定のルールが存在することなどが示されています。これらの観察は、人間の言語の起源を考える上で貴重な示唆を与えています。
一方で、人間の赤ちゃんの言語獲得速度が霊長類と比べて圧倒的に速いことも指摘されており、人間の言語能力の特殊性も浮き彫りにされています。
現代的視点からの評価
本書の出版から30年近くが経過した現在、発達心理学や神経科学の進歩により、乳児の認知能力や脳の発達についての理解が深まっています。例えば、機能的磁気共鳴画像法(fMRI)などの脳機能イメージング技術の発展により、乳児の脳活動を直接観察することが可能になっています。
これらの新しい知見は、本書で示された赤ちゃんの能動的なコミュニケーション能力や、言語獲得の基盤となる初期相互作用の重要性をさらに裏付けるものとなっています。その意味で、本書の先見性は高く評価できます。
一方で、本書では十分に扱われていない領域もあります。例えば、父親の役割や、兄弟姉妹を含めた家族全体のコミュニケーション環境が言語獲得に与える影響などは、現代では重要な研究テーマとなっています。また、デジタル機器の普及が乳幼児のコミュニケーション環境に与える影響など、現代特有の課題についても検討が必要でしょう。
まとめ
本書は、0歳児の言語獲得過程を霊長類行動学の視点から詳細に分析した先駆的な研究書として、現在でも高い価値を持っています。赤ちゃんの能動性や、初期相互作用の重要性を強調した点は、現代の発達心理学の主流的見解と一致しており、その先見性が際立っています。
著者の観察眼の鋭さと、霊長類研究の知見を人間の発達研究に応用する独創的なアプローチは、学際的研究の模範としても評価できます。また、専門的な内容をわかりやすく説明する著者の筆力も特筆に値します。
本書は、発達心理学や言語学の研究者はもちろん、保育や教育に携わる実践者、そして子育て中の親にとっても示唆に富む内容となっています。赤ちゃんとの関わり方を考える上で、本書が提示する「能動的な赤ちゃん観」は、今なお新鮮で有益な視点を提供しているといえるでしょう。