本書『脳・心・人工知能-数理で脳を解き明かす』は、数理工学者である甘利俊一氏が、脳科学、人工知能、そして心の問題について半世紀以上にわたる研究生活を振り返りながら論じた一冊です。著者は「数理脳科学」という分野の先駆者として知られており、本書では脳の仕組みを数学的な観点から解明しようとする取り組みが紹介されています。同時に、近年急速に発展している人工知能技術についても詳しく解説され、脳科学と人工知能研究の融合の可能性が示唆されています。
宇宙の歴史から脳の誕生まで
冒頭では、宇宙の誕生から生命の発生、そして脳を持つ生物の進化までが壮大なスケールで描かれています。著者によれば、宇宙は物質とエネルギーの法則に支配されていましたが、生命の誕生とともに「情報」という新たな要素が加わりました。そして脳の登場により、さらに複雑な情報処理が可能になったのです。
人類の進化と文明の発展についても触れられており、現生人類が約20万年前にアフリカで誕生してから、農業や国家の形成を経て現代文明に至るまでの道のりが簡潔に説明されています。著者は、脳が生み出した「心」が人類社会の発展に重要な役割を果たしたと指摘しています。
脳の基本構造と働き
次に、脳の基本的な構造と機能について解説されています。人間の脳は約1000億個のニューロン(神経細胞)からなり、これらが複雑なネットワークを形成しています。大脳、小脳、脳幹といった主要な部位の役割が説明され、特に大脳皮質の重要性が強調されています。
著者は、脳を並列コンピュータになぞらえて説明しています。大脳皮質は様々な領域に分かれており、それぞれが特定の機能を担当していますが、同時に領域間で密接に連携しているのです。また、記憶の仕組みについても詳しく解説されており、短期記憶と長期記憶の違い、海馬の役割などが紹介されています。
数理脳科学の挑戦
本書の中核を成すのは、著者が長年取り組んできた数理脳科学の解説です。これは、脳の働きを数学的なモデルで表現し、その原理を解明しようとする試みです。
著者は、ニューロンの集団的な振る舞いを統計力学的な手法で分析する「統計神経力学」について詳しく説明しています。この理論では、個々のニューロンの詳細な動きではなく、多数のニューロンの平均的な振る舞いに注目します。これにより、記憶や学習といった脳の高次機能を数学的に記述することが可能になります。
また、大脳皮質の働きを場の理論で表現する「神経場理論」も紹介されています。これは、皮質上の神経活動のパターンがどのように変化していくかを数式で表現するもので、視覚や運動制御などの脳機能の解明に役立つとされています。
著者は、これらの理論が単なる抽象的な数学ではなく、実際の脳の働きを理解する上で重要な示唆を与えると主張しています。同時に、理論と実験的な脳研究との協力の必要性も強調されています。
人工知能研究の歴史と現状
本書の後半では、人工知能研究の歴史と最新の動向が詳しく解説されています。1950年代に始まった第1次人工知能ブームから、現在の第3次ブームまでの流れが丁寧に説明されており、各時代の代表的な技術や研究者たちの貢献が紹介されています。
特に注目されるのは、近年急速に発展している「ディープラーニング(深層学習)」についての解説です。これは、人間の脳の構造を模した多層のニューラルネットワークを用いる機械学習の手法で、画像認識や自然言語処理などの分野で人間を凌ぐ性能を示しています。
著者は、ディープラーニングの基本的な仕組みを説明するとともに、その理論的な背景にも触れています。興味深いのは、著者自身が1960年代に提案した「確率降下学習法」が、現在のディープラーニングの基礎となっているという指摘です。
人工知能の発展がもたらす社会的影響についても議論されており、いわゆる「2045年問題」(人工知能が人間の知能を超える時期)についての著者の見解も示されています。著者は、人工知能の進歩を楽観的に捉えつつも、その使い方次第では危険性もあると警告しています。
心と意識の謎に迫る
本書の最終章では、「心」と「意識」という哲学的なテーマが取り上げられています。著者は、心や意識も脳の活動から生じるものであり、原理的には科学的な説明が可能であると主張しています。
「心の理論」と呼ばれる心理学の概念を用いて、人間がどのように他者の心を理解するようになるかが説明されています。また、自由意志の問題についても議論されており、脳科学の観点からこの古典的な哲学的問題にアプローチする試みが紹介されています。
著者は、意識を「多数の情報の統合」として捉える理論を紹介し、これを数学的に表現する試みについても触れています。同時に、人工知能に「心」を持たせることの可能性と限界についても考察しており、技術的には可能であっても、人間の心とは本質的に異なる可能性を指摘しています。
脳科学の倫理的課題
本書では、脳科学の発展がもたらす倫理的な課題についても言及されています。特に、脳と機械をつなぐBMI(Brain-Machine Interface)技術の進歩により、人の心を直接読み取ったり操作したりする可能性が現実味を帯びてきていることが指摘されています。
著者は、これらの技術が医療やリハビリテーションの分野で大きな貢献をする可能性を認めつつも、悪用の危険性にも警鐘を鳴らしています。脳科学の進歩に伴い、「脳倫理」という新しい倫理学の分野が重要になってくると著者は主張しています。
まとめ:脳科学と人工知能の共進化を目指して
本書の結論部分で、著者は脳科学と人工知能研究の今後の方向性について自身の見解を述べています。両分野は長らく別々に発展してきましたが、これからは互いに刺激し合いながら共に進化していくべきだと著者は主張しています。
特に、脳の持つ「パターン表現」と人工知能の得意とする「記号処理」を融合させることで、より高度な知能システムが実現できる可能性が示唆されています。同時に、人間の脳の持つ柔軟性や創造性を人工知能に取り入れることの重要性も強調されています。
著者の研究人生を振り返って
本書の特徴の一つは、著者自身の研究人生が随所に織り込まれていることです。若き日の挫折や発見の喜び、国際的な研究コミュニティでの経験など、生々しいエピソードが数多く紹介されています。これにより、脳科学や人工知能という最先端の研究分野の発展の歴史を、一人の研究者の視点から追体験することができます。
また、日本の科学研究の現状についての著者の思いも述べられており、若手研究者への期待と励ましのメッセージも込められています。
結びに:知の探求は終わりなき旅
本書は、脳科学と人工知能という現代科学の最前線を、長年この分野をリードしてきた研究者の視点から概観した貴重な一冊です。専門的な内容を含みながらも、著者の平明な文体と豊富な具体例により、一般読者にも理解しやすい内容となっています。
脳の仕組みの解明は、人間とは何かという根源的な問いに迫る営みでもあります。同時に、その知見は人工知能の発展にも大きな影響を与えています。本書は、これらの分野の現状と課題を包括的に理解するための優れた入門書となっているでしょう。
著者は80歳を超えた現在も研究を続けており、知の探求に終わりはないことを身をもって示しています。本書を読むことで、読者も脳と心の謎に挑む知的冒険の旅に誘われることでしょう。