本書『言語が消滅する前に』は、気鋭の哲学者である国分功一郎氏と千葉雅也氏による5回の対談を収録した書籍です。2017年から2021年にかけて行われたこれらの対談では、言語の危機的状況や、それに伴う思考や社会の変容について、幅広い視点から議論が展開されています。
言語の危機と思考の変容
本書の根底にあるのは、現代社会における言語の地位低下への危機感です。国分氏は、アガンベンの言葉を引用しながら、「人間はもはや言語によって規定されていない」と指摘します。20世紀の哲学が言語を中心に据えていたのに対し、21世紀に入って状況が一変したというのです。
その具体的な現れとして挙げられているのが、コミュニケーションの変質です。かつてコミュニケーションといえば「発表する」「伝える」といった意味合いが強かったのに対し、現在では「空気を読んでうまくノる」ことを指すようになっています。また、LINEやTwitterの普及により、日常のコミュニケーションがスタンプや絵文字だけでも十分に成立するようになりました。
こうした変化の背景には、言葉を介在させずに直接的に情動を表現・喚起することへの志向があると分析されています。言葉による間接的で迂遠な表現ではなく、即座に満足が得られるコミュニケーションが好まれるようになったのです。
エビデンス主義と責任の回避
言語の地位低下と並行して進行しているのが、エビデンス主義の台頭です。エビデンス主義とは、数値化されたデータなど、誰の目にも明らかな証拠のみを重視する態度を指します。
エビデンス主義には一見すると民主主義的な側面もあります。たとえば医療の分野では、医師の恣意的な判断を抑制し、患者の権利を守る役割を果たしてきました。しかし同時に、個人の物語を無視し、ごく限られたパラメータだけで判断を下すという問題点も指摘されています。
さらに著者たちは、エビデンス主義の背後にある責任回避の心理を鋭く指摘します。何事も明確な基準に従って判断すれば、個人の責任を問われることはないからです。これは法務的な発想とも通底しており、あらゆる事象を法的な枠組みの中でのみ捉えようとする傾向につながっています。
言葉の力を取り戻すために
では、このような状況に対してどのような対応が可能でしょうか。著者たちは、言葉の力を再評価し、取り戻すことの重要性を訴えています。
その一つの方向性として提示されているのが、「遊び」としての政治です。目的達成のみを重視する政治ではなく、参加すること自体に意味を見出す政治のあり方です。これは単なる娯楽ではなく、むしろ自由の実現そのものであるとされます。
また、教育の場における言葉の重要性も強調されています。講義は単なる情報伝達の場ではなく、教師の思想に触れる機会でもあるのです。オンライン授業が増える中で、対面での授業がもつ独特の力が再認識されています。
重層的な時間を取り戻す
本書で繰り返し語られているのが、時間性の問題です。インターネットの普及により、あらゆる空間が瞬時につながるようになった結果、時間の感覚も失われつつあります。すべてが即時的になり、じっくりと考えたり熟成させたりする余地が失われているのです。
これに対して著者たちは、重層的な時間を取り戻すことの必要性を説きます。そのためには、まず空間の多元性を確保することが重要だと指摘されています。均質化された空間ではなく、さまざまな性質の異なる空間が併存することで、異なる時間性も生まれてくるというのです。
言葉は「魔法」である
本書の最後で千葉氏は、言葉を「魔法」に喩えています。科学技術の力で原爆を作ることができても、それを使うかどうかを左右するのは言葉の力だというのです。言葉には人間の行動を大きく変える力があり、それゆえに危険でもあるのです。
しかし同時に、言葉こそが人間らしさの源泉でもあります。言葉という「フィクションのレイヤー」で現実を包むことで、人間は生きていくことができるのです。その意味で、言葉の軽視は人間らしさの喪失につながりかねません。
おわりに
本書は、現代社会における言語の危機的状況を多角的に分析した意欲作です。哲学的な議論を展開しながらも、日常生活における具体的な変化にも目配りがなされており、読者にとって身近な問題として言語の問題を捉え直す契機となるでしょう。
特に印象的なのは、著者たちの対話そのものが、彼らの主張する「言葉の力」を体現している点です。互いの意見に耳を傾け、刺激し合いながら、新たな思考を生み出していく様子は、まさに言語がもつ創造性を示しています。
言語の危機を論じながら、同時にその可能性を示す本書は、言語について、そして人間の思考や社会のあり方について、読者に深い洞察を与えてくれるはずです。