知的好奇心 (中公新書 318)

1973年に出版された本書は、人間の学習や行動の根源的な動機づけについて、従来の考え方を根本から覆す画期的な著作でした。著者の波多野誼余夫・稲垣佳世子両氏は、人間を本来「怠け者」とみなす伝統的な心理学理論を批判し、人間には生まれながらにして「知的好奇心」や「向上心」があるという新しい人間観を提示しています。

本書の主張は、出版から50年近く経った今日においても色あせることなく、むしろその重要性を増しているように思われます。現代社会における教育や労働のあり方を考える上で、本書の視点は非常に示唆に富んでいます。

「怠け者」説への挑戦

本書は、まず20世紀前半に主流だった行動主義心理学の人間観を批判的に検討することから始まります。その理論では、人間を含む動物は本質的に「怠け者」であり、外的な報酬や罰によってのみ行動が動機づけられると考えられていました。

著者らは、この考え方が実験室での限られた観察に基づいていることを指摘します。例えば、狭い檻に閉じ込められたサルの無気力な様子を観察して人間の本性を論じるのは適切ではありません。むしろ自然な環境下での動物の行動を観察すると、好奇心に満ちた活発な姿が見られるのです。

人間の乳幼児の行動を詳しく観察すると、生まれながらにして周囲の環境に対する強い関心と探索欲求を持っていることがわかります。こうした観察から、著者らは人間には本来「知的好奇心」や「向上心」という内発的な動機づけがあると主張します。

情報への飢え

本書で紹介されている興味深い実験の一つに、「感覚遮断実験」があります。被験者を感覚刺激を最小限に抑えた環境に置くと、多くの人が数日で耐えられなくなりました。これは人間が本来、新しい情報や刺激を求める存在であることを示しています。

また、施設で育った子どもの発達の遅れも、単に愛情不足だけでなく、刺激の乏しい環境が原因であると指摘されています。適度に豊かで変化に富んだ環境が、子どもの健全な発達には不可欠なのです。

探索と回避のバランス

人間の好奇心は、「拡散的好奇心」と「特殊的好奇心」の2種類があると著者らは分析します。前者は幅広く新しい情報を求める傾向、後者は特定の疑問を解決しようとする傾向です。

また、人間には新奇なものへの興味と同時に、あまりにも見慣れないものへの不安や恐れもあります。この「探索」と「回避」のバランスが、学習や発達において重要な役割を果たしています。

教育への示唆

本書の後半では、こうした人間観に基づいた新しい教育のあり方が提案されています。

従来の「一斉授業」形式では、子どもの自発的な好奇心や探究心が十分に発揮されにくいと著者らは指摘します。代わりに、子ども一人ひとりの興味や関心に応じた学習環境を整え、自主的な探究活動を促すことが重要だと主張しています。

例えば、「トーキング・タイプライター」を使った実験では、幼児が遊びながら自然に文字を学んでいく様子が紹介されています。こうした方法は、子どもの内発的動機づけを活用した効果的な学習方法の一例と言えるでしょう。

また、集団での討論や相互教授など、子ども同士の能動的な相互作用を促す教育方法の重要性も強調されています。

労働と社会への視点

本書の視点は教育だけでなく、労働や社会のあり方についても重要な示唆を与えています。

著者らは、近代的な工場労働のような単調で細分化された仕事が、人間の本来持っている創造性や向上心を抑圧していると指摘します。一方で、職人的な仕事のように全体的な見通しを持って自律的に取り組める仕事は、人間の内発的動機づけをより活かせると論じています。

また、社会全体の効率や生産性を追求するあまり、個人の多様性や自己実現の機会が失われることへの警鐘も鳴らしています。著者らは、経済的な豊かさを達成した現代社会こそ、一人ひとりの個性や興味を尊重した「人間的個別化」を実現すべきだと主張しています。

現代的意義

本書が出版された1970年代は、高度経済成長期の終わりを迎え、物質的な豊かさの中で「心の豊かさ」が問われ始めた時代でした。それから半世紀近くが経過した今日、本書の問題提起はますます重要性を増しているように思われます。

例えば、現代の教育現場では「アクティブラーニング」や「探究学習」など、生徒の主体性を重視する取り組みが広がっています。これらは本書が提唱した教育観と共通する部分が多いと言えるでしょう。

また、労働の場面でも、従業員の自律性や創造性を重視する経営スタイルが注目されています。こうした動きは、本書が指摘した「内発的動機づけ」の重要性が広く認識されてきた表れと見ることができます。

一方で著者らが警告した「擬似的内発性」、つまり表面的には自発的に見えても実は外部から強制された行動の問題は、現代社会でも重要な課題として残されています。SNSでの「いいね!」獲得行動など、現代的な文脈での「擬似的内発性」の問題を考える上でも、本書の視点は示唆に富んでいます。

おわりに

本書は、人間の本質的な動機づけについて深い洞察を示すと同時に、それに基づいた教育や社会のあり方について重要な提言を行っています。50年近く前に書かれた本ですが、その問題提起の多くが今なお新鮮で刺激的です。

現代社会に生きる私たちにとって、本書は自分自身や周囲の人々の行動を理解する上で貴重な視点を提供してくれます。また、教育や労働、社会のあり方を考える上でも、重要な示唆を与えてくれる一冊と言えるでしょう。

人間の可能性を信じ、一人ひとりの個性や興味を尊重する社会を目指す上で、本書は今なお私たちに多くの気づきと励ましを与えてくれる、貴重な著作だと言えます。

By 吉成 雄一郎

東海大学教授。コロンビア大学大学院ティーチャーズカレッジ(英語教授法)、信州大学大学院工学研究科(情報工学)修了。東京電機大学教授を経て現職。専門は英語教授法、英語教育システム開発。 さまざまな英語学習書、英検、TOEIC 対策書、マルチメディア教材等を手がけてきた。英語e ラーニングや英語関係の教材・コンテンツの研究開発も行う。全国の大学、短期大学、高専等で使われているe ラーニングシステム「リンガポルタ」も開発した。最近ではAI による新しい教育システムの開発にも着手している。