本書『赤ちゃんな内的言語をもって生まれてきます』は、1980年代に出版された乳幼児の認知発達研究の画期的な一冊です。著者のT.G.R.バウアー博士は、1960年代から70年代にかけて行った先駆的な実験を通じて、それまでの常識を覆す赤ちゃんの能力を明らかにしました。

出版から約40年が経過した今、本書の知見の多くは現代の発達心理学に深く根付いています。一方で、その後の研究によって修正や拡張が行われた部分もあります。本書評では、バウアー博士の革新的な理論を紹介しつつ、現代の視点からその意義と限界を考察します。

赤ちゃんの知覚世界 – 形式と抽象の優位性

バウアー博士の中心的な主張は、新生児が個々の感覚経験ではなく、刺激の「形式的で抽象的な性質」に反応するというものです。この見方は、当時の主流だった感覚要素主義的な見解に挑戦するものでした。

博士の実験、特に「ソニックガイド」を用いた研究は、赤ちゃんが感覚様相を越えた抽象的な情報処理能力を持つことを示唆しました。この発見は、その後の乳児研究に大きな影響を与え、赤ちゃんの認知能力に対する見方を根本的に変えるきっかけとなりました。

現代の視点から見ると、バウアー博士の主張の多くは支持されています。例えば、新生児の感覚間協応(異なる感覚間での情報統合)能力は、その後の研究でも繰り返し確認されています。一方で、抽象的処理と具体的処理の関係については、より複雑な見方が提示されるようになっています。

驚くべき能力の数々 – 新たな証拠と解釈

バウアー博士が明らかにした赤ちゃんの様々な能力、例えば早期のリーチングや社会的知覚能力は、その後の研究でも繰り返し確認され、拡張されてきました。

例えば、新生児の模倣能力に関する研究は、その後メルツォフらによってさらに発展し、「生得的相互主観性」という概念につながりました。また、乳児の性別認識能力に関する知見は、その後の社会的認知研究の基礎となりました。

一方で、これらの能力の解釈については、現在では異なる見方も提示されています。例えば、早期のリーチング行動については、反射的な要素と意図的な要素が複雑に絡み合っているという見方が強まっています。

発達理論への新たな視点 – その後の展開

バウアー博士の発達理論、特に抽象から具体への発達という考え方は、従来のピアジェ理論に重要な修正を迫るものでした。この視点は、その後のネオピアジェ派の理論や、情報処理アプローチなどに影響を与えました。

特に、赤ちゃんの「命題的思考」という考え方は、その後の乳児の推論能力研究につながりました。例えば、スペルケらによる「物理的推論」の研究は、バウアー博士の考えを発展させたものと見ることができます。

一方で、現代の発達理論では、生得的な能力と学習のバランス、あるいは領域一般的な能力と領域固有の能力のバランスについて、より微妙な立場をとる傾向があります。

発達の連続性と非連続性 – 現代的解釈

バウアー博士が指摘した発達過程における一時的な「退行」や「消失」の現象は、その後の研究でも注目され続けてきました。現在では、これらの現象は「U字型発達」として知られ、様々な認知領域で観察されています。

近年の神経科学的研究は、これらの現象に新たな解釈を与えています。例えば、脳の可塑性や神経回路の再編成過程と関連づけた説明が提案されています。また、動的システム理論などの新しい理論的枠組みも、これらの現象の理解に貢献しています。

環境と経験の役割 – 相互作用的視点の台頭

バウアー博士の研究は、生得的能力を強調しつつも環境や経験の重要性も認めるものでした。この視点は、その後の発達研究において、より洗練された形で発展しています。

現在では、遺伝と環境の相互作用や、発達の文化的文脈の重要性がより強調されるようになっています。例えば、エピジェネティクスの研究は、遺伝子の発現が環境によって調整されることを示しています。

また、バウアー博士が行ったような介入研究は、現在では早期介入プログラムの設計に活かされています。特に、障害のある子どもたちへの支援において、早期からの適切な介入の重要性が認識されています。

バウアー理論の現代的意義と残された課題

バウアー博士の研究と理論は、乳幼児の認知能力に対する見方を根本的に変え、現代の発達心理学の基礎を築きました。赤ちゃんを能動的な学習者として捉える視点は、現在では広く受け入れられています。

一方で、バウアー博士の理論のいくつかの側面については、現在も議論が続いています。例えば、赤ちゃんの「命題的思考」の具体的な内容や仕組みについては、直接的な証拠を得ることが依然として難しい課題となっています。

また、近年の研究手法の発展、特に脳機能イメージングなどの神経科学的手法の進歩により、乳児の認知過程をより直接的に観察できるようになっています。これらの新しい手法を用いて、バウアー博士の理論を検証し、拡張していく必要があるでしょう。

さらに、個人差や文化差の問題は、現代の発達心理学においてより重要な焦点となっています。バウアー博士の理論を、これらの要因を考慮に入れてさらに発展させていくことが求められています。

おわりに

本書は、出版から40年近くが経過した今も、乳幼児の認知世界に対する私たちの理解に大きな影響を与え続けています。バウアー博士の先駆的な研究と洞察に富んだ理論は、現代の発達心理学の礎を築いたと言えるでしょう。

同時に、本書は現代の研究者たちに多くの刺激的な問いを投げかけ続けています。赤ちゃんの抽象的思考の本質とは何か。言語獲得以前の認知過程はどのようなものなのか。そして、これらの知見は実際の子育てや教育にどのように活かせるのか。

本書を読むことで、乳幼児研究の歴史的展開を理解すると同時に、人間の認知と発達の本質に迫る深い洞察を得ることができるでしょう。発達心理学の古典として、そして現代の研究にも示唆を与え続ける重要文献として、本書はその価値を失っていません。

By 吉成 雄一郎

東海大学教授。コロンビア大学大学院ティーチャーズカレッジ(英語教授法)、信州大学大学院工学研究科(情報工学)修了。東京電機大学教授を経て現職。専門は英語教授法、英語教育システム開発。 さまざまな英語学習書、英検、TOEIC 対策書、マルチメディア教材等を手がけてきた。英語e ラーニングや英語関係の教材・コンテンツの研究開発も行う。全国の大学、短期大学、高専等で使われているe ラーニングシステム「リンガポルタ」も開発した。最近ではAI による新しい教育システムの開発にも着手している。