本書『言語学バーリ・トゥード』は、言語学者の川添愛氏による随筆集です。東京大学出版会の会報誌『UP』に連載されたコラムをまとめたもので、言語学に関するトピックを軽妙洒脱な筆致で綴っています。
著者は理論言語学を専門とする研究者ですが、本書では堅苦しい学術的な内容は避け、日常生活の中で誰もが経験するような言葉に関する疑問や気づきを題材に選んでいます。たとえば「なぜ『絶対に押すなよ』と言われると押したくなるのか」「英語の映画タイトルはなぜ日本語に訳されたりされなかったりするのか」といった身近な話題から、言葉の奥深さや面白さを探っていきます。
各章は独立した読み切り形式になっているため、興味のある章から読み進められるのも特徴です。また、専門的な言語学の知識がなくても理解できるよう、平易な言葉で説明されています。
言語学の入門書としての側面
本書は純粋な言語学の入門書ではありませんが、言語学の基本的な考え方や視点を自然と身につけられる構成になっています。たとえば「前提」や「含意」といった言語学の重要概念が、具体例を交えてわかりやすく解説されています。
また、言語現象を客観的に観察し分析する言語学者ならではの視点も随所に見られます。日常何気なく使っている言葉の中に潜む規則性や、一見誤った表現に見えるものの背景にある言語変化のメカニズムなどが指摘されており、読者は言葉を新たな目で見直すきっかけを得られるでしょう。
ユーモアあふれる文体
本書の最大の魅力は、著者独特のユーモアセンスが光る文体にあります。言語学の話題を取り上げながらも、決して堅苦しくならないよう工夫が凝らされています。たとえば、専門的な用語を説明する際にプロレス技の名前を引き合いに出したり、自身の失敗談を交えたりすることで、読者を飽きさせない工夫がなされています。
また、自虐的なユーモアも随所に見られます。「言語学者なのに外国語が得意ではない」という自己紹介や、「言語学を学んでも教養はつかない」という恩師の言葉を引用するなど、言語学者としての権威を笠に着るのではなく、むしろ自らをおとしめるような表現を多用しています。このような姿勢が、読者との心理的な距離を縮め、親しみやすさにつながっています。
プロレス好きな言語学者の視点
著者の趣味であるプロレスへの言及が多いのも本書の特徴です。一見すると言語学とは無関係に思えるプロレスの話題が、実は言葉の問題と密接に結びついていることを示す例が随所に登場します。
たとえば、プロレスラーの技名の変遷を通じて、言葉の造語法や命名の心理を考察したり、試合中の掛け合いを例に挙げて発話行為論を解説したりと、プロレスを切り口に言語学の諸概念を紹介しています。これにより、言語学に馴染みのない読者でも、身近な話題を通じて言語現象への理解を深められるよう工夫されています。
インターネット時代の言語変化
本書では、インターネットの普及に伴う言語変化にも多くのページが割かれています。オンラインゲームやSNSでのコミュニケーションを例に、新しい表現の誕生や定着のプロセスが詳細に分析されています。
たとえば、「W」や「草」といった表現がどのように生まれ、どのように意味を変化させていったかが、著者自身の体験を交えて説明されています。これらの考察は、単なる流行語の紹介にとどまらず、言語変化の一般的なメカニズムを理解する上で示唆に富んでいます。
また、文字によるコミュニケーションが主流となる中で、対面での会話では当たり前に伝わっていた非言語情報をどのように補完しようとしているかについても詳しく論じられています。絵文字や顔文字の使用、「(笑)」のような補足表現の発達など、テクノロジーの進化と言語の変化が密接に結びついていることが示されています。
言語規範をめぐる考察
本書では、いわゆる「正しい日本語」をめぐる問題についても多くのページが割かれています。著者は、言語学者の立場から、言語の「正しさ」を絶対的なものとして捉えることの危険性を指摘しています。
たとえば、一般に「誤用」とされる表現の中にも、歴史的に見れば正当性のあるものが含まれていることや、新しい用法が生まれることで言語がより豊かになる可能性があることなどが論じられています。これらの指摘は、言葉の揺れに対して過度に批判的になりがちな風潮に一石を投じるものと言えるでしょう。
一方で、著者は言語の規範をまったく否定しているわけではありません。むしろ、TPOに応じた適切な言葉遣いの重要性を強調しています。言語規範を「服装」に例え、フォーマルな場面では「正しい日本語」という「スーツ」を着用し、くだけた場面では「方言」や「若者言葉」という「部屋着」を着用するといった比喩を用いて、場面に応じた言葉遣いの使い分けの大切さを説いています。
言語学者の日常
本書の魅力の一つに、言語学者である著者の日常生活が垣間見られる点が挙げられます。研究者としての仕事の様子はもちろん、趣味のプロレス観戦やオンラインゲームでの体験、さらには外国語学習の苦労話など、多岐にわたるエピソードが紹介されています。
これらのエピソードを通じて、言語学者が普段どのように言葉と向き合い、どのような視点で言語現象を観察しているかが生き生きと描かれています。たとえば、何気ない日常会話の中に言語学的に興味深い現象を見出したり、テレビ番組やインターネット上の表現に敏感に反応したりする様子が描かれており、言語学者ならではの「言葉への感度」を感じ取ることができます。
また、言語学の専門家でありながら外国語学習に苦戦する様子や、自身の文章の癖を指摘される場面なども赤裸々に綴られており、親近感を覚えさせます。これらのエピソードは、言語学者も一般の人々と同じように言葉の難しさに直面していることを示すとともに、そこから言語の本質に迫ろうとする姿勢が感じられ、読者の知的好奇心を刺激します。
言葉への新たな視点
本書を通読することで、読者は日常何気なく使っている言葉に対して新たな視点を得ることができるでしょう。言葉の意味や用法に対する鋭い観察眼、言語変化のダイナミズムへの洞察、そして何より言葉そのものを楽しむ著者の姿勢が、読者の言語感覚を刺激し、豊かにしてくれるはずです。
専門的な言語学の知識がなくても十分に楽しめる内容でありながら、言語学の基本的な考え方や最新の研究動向にも触れられる構成になっているため、言葉に興味のある一般読者から言語学を志す学生まで、幅広い層におすすめできる一冊です。著者の軽妙洒脱な語り口と相まって、言語学という学問分野の魅力を存分に伝えてくれる良書と言えるでしょう。