岡本夏木氏の『ことばと発達』は、1985年に出版された子どもの言語発達に関する画期的な著作です。本書は、子どもの言語獲得過程を「一次的ことば」と「二次的ことば」という新しい概念を用いて分析し、言語発達を子どもの全体的な発達の中に位置づけようとする意欲的な試みです。
著者が提案する枠組み
岡本氏は、子どものことばの発達を以下の4つの段階に分けて考察しています:
1. ことば以前
2. ことばの誕生期
3. 一次的ことば期
4. 二次的ことば期
特に注目すべきは、「一次的ことば」と「二次的ことば」という概念です。一次的ことばとは、主に家庭や身近な環境で使われる日常的な話し言葉を指します。一方、二次的ことばは学校教育などを通じて獲得される、より抽象的で一般的な言語使用を意味します。
一次的ことばの特徴
著者によれば、一次的ことばには以下のような特徴があります:
1. 具体的な状況や文脈に強く依存している
2. 親しい特定の相手とのコミュニケーションで使用される
3. 主に対面での会話を通じて展開される
二次的ことばの特徴
これに対し、二次的ことばは次のような特徴を持ちます:
1. 具体的な状況から離れた抽象的な内容を扱える
2. 不特定多数の相手に向けて使用される
3. 一方向的な伝達が可能で、書き言葉も含む
著者は、この二つのことばの獲得と発達が子どもの全体的な成長にとって重要であり、両者が相互に影響し合いながら発達していくと主張しています。
言語発達と社会文化的背景
本書の特筆すべき点は、言語発達を単なる個人的な能力の向上としてではなく、社会文化的な文脈の中で捉えようとしている点です。著者は、二次的ことばの獲得が学校教育や社会化の過程と密接に関連していることを指摘し、このプロセスが子どもにとって必ずしも容易ではないことを強調しています。
例えば、方言を母語とする子どもが標準語を学ぶ過程や、話し言葉から書き言葉への移行など、子どもが直面する言語的な課題について詳細に論じています。これらの分析は、言語教育や学校教育のあり方に対する重要な示唆を含んでいます。
言語発達と思考の関係
著者は、言語の発達と思考の発達が密接に関連していることを指摘しています。特に、二次的ことばの獲得が抽象的思考や論理的思考の発達を促進すると同時に、それらの思考力が言語能力の向上につながるという相互作用を重視しています。
この視点は、ピアジェやヴィゴツキーなどの発達心理学者の理論を踏まえつつ、日本の文脈に即して展開されており、理論と実践の架け橋となる可能性を秘めています。
言語教育への示唆
本書の分析は、言語教育に対して多くの示唆を与えています。特に以下の点が重要です。
1. 一次的ことばの重要性を認識し、それを基盤として二次的ことばを導入すること
2. 子どもの発達段階に応じた言語指導の必要性
3. 書き言葉の指導において、話し言葉との関連を意識すること
4. 方言と標準語の関係に配慮した指導
著者は、これらの点を踏まえた柔軟な言語教育の重要性を強調しています。
家庭、学校、友人関係の役割
本書では、子どもの言語発達における家庭、学校、友人関係の役割についても詳細に論じられています。
家庭は一次的ことばの基盤を形成する場として重要視されており、親子間のコミュニケーションの質が子どもの言語発達に大きな影響を与えると指摘されています。
学校は二次的ことばの獲得の中心的な場として位置づけられ、教師の役割が特に強調されています。著者は、教師が一次的ことばと二次的ことばをつなぐ「かなめ」としての機能を果たすべきだと主張しています。
友人関係については、特に児童期の集団(ギャング・グループ)が言語発達に果たす役割が注目されています。これらの集団が、一次的ことばの深化と二次的ことばの獲得の両面で重要な機能を果たすことが指摘されています。
現代的意義と課題
本書が出版されてから約40年が経過していますが、その基本的な枠組みと洞察は今日でも十分に通用する内容を含んでいます。特に、言語発達を社会文化的な文脈の中で捉える視点は、現代の多文化共生社会における言語教育を考える上で重要な示唆を与えてくれます。
一方で、デジタル技術の発達やグローバル化の進展など、子どもを取り巻く言語環境は著しく変化しています。SNSなどのデジタルコミュニケーションツールの普及は、一次的ことばと二次的ことばの境界をより曖昧にしている可能性があります。また、英語教育の低年齢化など、新たな言語的課題も生じています。
これらの変化を踏まえつつ、本書の枠組みをどのように発展させ、現代の言語教育に活かしていくかが今後の課題となるでしょう。
まとめ
『ことばと発達』は、子どもの言語発達を総合的に捉えようとする意欲的な著作です。一次的ことばと二次的ことばという概念を軸に、言語発達を子どもの全体的な成長の中に位置づけ、社会文化的な文脈との関連を丁寧に分析している点が高く評価できます。
本書は、言語発達研究者はもちろん、教育者や保育者、そして子育て中の親にとっても示唆に富む内容となっています。子どものことばの発達を支援する上で、一次的ことばの重要性を認識しつつ、二次的ことばへの移行をいかにスムーズに行うかという視点は、今日でも十分に有効です。
また、本書が提起する「ことばの疎外」や「二次的ことばの肥大化」といった問題は、現代社会においてより深刻化している可能性があります。デジタル化やグローバル化が進む中で、子どもたちの言語環境をどのように整えていくべきか、本書の視点を踏まえつつ、さらなる研究と実践が求められているといえるでしょう。
最後に、著者が強調する「語り聞かせ」の重要性は、今日のデジタルメディア全盛の時代においてこそ、再評価されるべきかもしれません。直接的な人間関係の中で育まれる一次的ことばの豊かさが、その後の言語発達の基盤となるという指摘は、現代の子育てや教育に対する重要なメッセージとなっています。
本書は、子どもの言語発達に関する古典的な研究書として、今後も多くの読者に読み継がれていくことでしょう。そして、その洞察が現代の言語教育や子育ての実践に活かされていくことが期待されます。