同時通訳は、人間の認知能力の極限に挑戦する高度に複雑な言語タスクです。Martin Dottori氏らによる本研究は、同時通訳者の脳がどのように言語を処理しているのかを探る試みです。研究チームは、アルゼンチンのINECO財団に所属する神経科学者たちで構成されており、二言語使用や言語処理の神経メカニズムに関する一連の研究を行っています。
本研究の背景には、同時通訳者の認知能力に関する興味深い発見があります。これまでの研究で、同時通訳者は一般のバイリンガルに比べて特定の認知タスクで優れた成績を示すことが明らかになっていました。しかし、その神経基盤については不明な点が多く残されていました。Dottori氏らは、同時通訳者の脳活動を詳細に分析することで、この謎に迫ろうとしたのです。
研究手法
研究チームは、17名のプロの同時通訳者と15名の一般のバイリンガル(非通訳者)を対象に実験を行いました。参加者は、以下の4つのタスクを行いながら脳波(EEG)を測定されました:
1. 母語(スペイン語)の単語を読む
2. 第二言語(英語)の単語を読む
3. 英語からスペイン語へ単語を翻訳する(逆翻訳)
4. スペイン語から英語へ単語を翻訳する(順翻訳)
研究チームは、これらのタスク中の反応時間と脳波データを詳細に分析しました。特に注目したのは、デルタ波とシータ波と呼ばれる特定の周波数帯域の脳波活動でした。
主な発見
行動データの分析
行動データの分析結果は、興味深い知見をもたらしました:
– 同時通訳者は、翻訳タスクにおいて非通訳者よりも速く反応しました。
– しかし、単語を読むだけのタスクでは、両グループ間に有意な差は見られませんでした。
この結果は、同時通訳者の優位性が特定の言語スキル(この場合は翻訳)に限定されていることを示唆しています。
脳波データの分析
脳波データの分析では、さらに興味深い発見がありました:
– 同時通訳者は、全てのタスクにおいてデルタ波とシータ波の活動が非通訳者よりも強かったです。
– この差は、刺激提示後300-600ミリ秒の時間窓で特に顕著でした。
– 最も広範囲な脳波活動の違いが見られたのは、逆翻訳(英語からスペイン語への翻訳)タスクでした。
これらの結果は、同時通訳者の脳が言語処理全般において異なる活動パターンを示すことを明らかにしています。
脳と行動の関連性
研究チームは、脳波活動と行動パフォーマンスの関連性も調べました。その結果:
– 同時通訳者では、逆翻訳タスクにおいて、デルタ波とシータ波の活動が強いほど反応時間が速いという関連が見られました。
– 非通訳者では、このような関連性は見られませんでした。
この発見は、同時通訳者の脳における特異的な言語処理メカニズムの存在を示唆しています。
研究結果の意義
専門性に応じた脳の適応
本研究の結果は、脳が高度に専門化された言語タスクに適応する能力を持つことを示しています。同時通訳者の脳は、一般のバイリンガルとは異なる方法で言語を処理しているようです。これは、長年の訓練と経験によって形成された特殊な神経ネットワークの存在を示唆しています。
言語処理の方向性による違い
特に興味深いのは、逆翻訳(第二言語から母語への翻訳)タスクにおいて最も顕著な違いが見られたことです。これは、同時通訳者が通常、外国語を聞いて母語に訳す方向で仕事をすることと関連していると考えられます。この結果は、脳の適応が特に頻繁に使用するスキルに集中して起こることを示唆しています。
神経可塑性の証拠
本研究は、成人の脳が高度に専門化されたスキルを獲得することで変化する可能性を示しています。これは、神経可塑性(脳の適応能力)に関する重要な証拠となります。同時通訳という極めて要求の高い認知タスクが、脳の機能的な再組織化を促進する可能性があるのです。
研究の限界と今後の展望
本研究には、いくつかの限界があります:
– サンプルサイズが比較的小さいこと
– 横断的研究デザインを採用しているため、因果関係を断定できないこと
– 実験室環境での単語レベルのタスクを用いており、実際の同時通訳の複雑さを完全には反映していないこと
今後の研究では、以下のような方向性が考えられます:
– より大規模なサンプルを用いた研究
– 同時通訳訓練の前後で脳活動の変化を追跡する縦断的研究
– より実際の同時通訳に近い、文レベルや談話レベルのタスクを用いた研究
– 機能的磁気共鳴画像法(fMRI)などの他の脳イメージング技術を組み合わせた研究
まとめ
本研究は、同時通訳者の脳における言語処理の特殊性を明らかにしました。同時通訳者の脳は、一般のバイリンガルとは異なる方法で言語を処理しており、特に頻繁に使用するスキルにおいて顕著な違いが見られます。これらの発見は、人間の脳が高度に専門化されたスキルを獲得する過程で起こる変化について、貴重な示唆を与えてくれます。
同時通訳者の脳を研究することは、言語処理や認知の可塑性に関する理解を深めるだけでなく、言語学習や二言語使用に関する新たな知見をもたらす可能性があります。今後の研究の進展により、この分野のさらなる発展が期待されます。
Dottori, M., Hesse, E., Santilli, M., Vilas, M. G., Martorell Caro, M., Fraiman, D., Sedeño, L., Ibáñez, A., & García, A. M. (2020). Task-specific signatures in the expert brain: Differential correlates of translation and reading in professional interpreters. NeuroImage, 209, 116519. https://doi.org/10.1016/j.neuroimage.2020.116519