本論文 “Relative entropy effects on the processing of spoken Romanian verbs” は、ルーマニア語の話し言葉における動詞の認識過程を探った研究です。著者のFilip Nenadić氏、Petar Milin氏、Benjamin V. Tucker氏は、言語学と心理学の分野で活躍する研究者たちです。彼らは、言語の統計的な特徴が単語の処理にどのように影響するかを調査しており、本研究はその一環として行われました。

研究の背景と目的

言語には様々な規則性やパターンがあります。例えば、動詞の活用や名詞の変化など、単語が文法的に変化する際の規則性があります。これらのパターンは、私たちが言葉を理解し使用する際に重要な役割を果たしていると考えられています。

本研究の主な目的は、「相対エントロピー」と呼ばれる指標が、ルーマニア語の動詞の認識過程にどのような影響を与えるかを調べることでした。相対エントロピーは、ある単語の変化パターンが、その単語が属するグループ全体の典型的なパターンからどれだけ逸脱しているかを示す指標です。

これまでの研究で、セルビア語や英語などの言語において、相対エントロピーが単語の認識速度に影響を与えることが分かっていました。しかし、それらの研究のほとんどは文字を見て単語を認識する過程(視覚的な単語認識)を対象としていました。本研究は、聞いて単語を認識する過程(聴覚的な単語認識)でも同様の効果が見られるかを検証しました。

実験方法

実験では、セルビアに住むルーマニア語とセルビア語のバイリンガル話者40名が参加しました。参加者は、ヘッドフォンを通じてルーマニア語の単語または擬似単語(実在しない単語)を聞き、それが実在の単語かどうかをできるだけ速く正確に判断するよう求められました(聴覚的語彙判断課題)。

実験に使用された単語は、ルーマニア語の動詞168個で、それぞれ4つの活用形で提示されました。これらの単語の相対エントロピーは、ルーマニア語コーパス(大規模な言語データベース)を用いて計算されました。

実験結果の分析

主な発見

1. 相対エントロピーの効果
実験の結果、相対エントロピーが高い単語ほど、参加者の反応が遅くなり、エラーも増えることが分かりました。つまり、典型的でない変化パターンを持つ単語は、認識するのに時間がかかり、間違いやすいということです。

2. 聴覚的単語認識での確認
これは、視覚的な単語認識で見られた効果が、聴覚的な単語認識でも同様に存在することを示しています。言い換えれば、私たちの脳は、単語を見る場合でも聞く場合でも、似たような方法で言語の統計的パターンを利用していると考えられます。

3. 単語の長さとの相互作用
興味深いことに、単語が長くなるほど相対エントロピーの効果は小さくなる傾向が見られました。これは、長い単語の場合、他の情報(例えば単語の始まりの部分)から単語を認識できる可能性が高くなるためかもしれません。

結果の解釈と意義

この研究結果は、私たちの脳が言語を処理する際に、単に個々の単語の情報だけでなく、言語全体の統計的なパターンも利用していることを示唆しています。つまり、私たちは言語を使用する中で、無意識のうちに単語の変化パターンを学習し、それを単語の認識に活用しているのです。

この発見は、言語処理のメカニズムをより深く理解する上で重要です。例えば、第二言語学習の方法を改善したり、言語障害の診断や治療に新たなアプローチを提供したりする可能性があります。

研究の限界と今後の展望

著者らは、この研究にいくつかの限界があることを認めています。例えば、参加者の正答率が予想よりも低かったことや、使用した動詞の種類が限られていたことなどが挙げられます。

今後の研究では、より多様な単語や言語形式を用いて、相対エントロピーの効果をさらに詳しく調べることが期待されます。また、脳画像技術を用いて、相対エントロピーが脳のどの部分の活動と関連しているかを調べることも興味深い研究課題となるでしょう。

おわりに

本研究は、言語の統計的パターンが単語の認識過程に重要な役割を果たしていることを、ルーマニア語の聴覚的単語認識を通じて示しました。この成果は、人間の言語処理メカニズムについての理解を深め、言語学や心理学、さらには教育や医療など、幅広い分野に影響を与える可能性があります。

言語は人間の最も複雑な認知能力の一つです。本研究のような細やかな実験を積み重ねることで、私たちは少しずつその神秘を解き明かしていくことができるでしょう。言語の仕組みを理解することは、人間の思考や文化、さらには意識の本質に迫ることにもつながります。今後も、このような基礎研究が続けられ、言語と認知に関する新たな発見がもたらされることが期待されます。


Nenadić, F., Milin, P., & Tucker, B. V. (2021). Relative entropy effects on the processing of spoken Romanian verbs. Mental Lexicon, 16(1), 23-48. https://doi.org/10.1075/ml.20010.nen

By 吉成 雄一郎

東海大学教授。コロンビア大学大学院ティーチャーズカレッジ(英語教授法)、信州大学大学院工学研究科(情報工学)修了。東京電機大学教授を経て現職。専門は英語教授法、英語教育システム開発。 さまざまな英語学習書、英検、TOEIC 対策書、マルチメディア教材等を手がけてきた。英語e ラーニングや英語関係の教材・コンテンツの研究開発も行う。全国の大学、短期大学、高専等で使われているe ラーニングシステム「リンガポルタ」も開発した。最近ではAI による新しい教育システムの開発にも着手している。