『言葉を生み出す本能(上)(下)』は、人間には言語能力が生まれつき備わっているという、チョムスキーの生成文法の影響を強く受けたピンカーの主張に基づいた本です。30年以上前に出版された本書の主張を、現在のAI理論、特に機械学習を用いた自然言語処理の進展と照らし合わせて考えてみましょう。
普遍文法と機械学習
ピンカーは、人間がどのようにして複雑な言語体系を習得するのかという問いに対し、普遍文法(Universal Grammar)という概念を提唱しています。これは、すべての人間が生まれながらにして脳に持っている、言語に共通する基盤となる規則や構造を指します。そして、この普遍文法が、私たちが具体的な言語を習得する際のガイドとして働くというのです。
一方、近年のAI、特に自然言語処理の分野では、機械学習が著しい発展を遂げています。機械学習とは、大量のデータからAI自身が規則性やパターンを学習する技術のことです。そして、この機械学習を用いた自然言語処理は、従来の規則ベースの手法では困難であった、複雑な言語現象の処理を可能にしつつあります。
機械学習の成果は、普遍文法の存在に対してどのような影響を与えるでしょうか? 現在のところ、機械学習によって普遍文法の存在が証明されたわけではありません。しかし、少なくとも、人間が大量の言語データを学習することで、複雑な言語体系を獲得できるという点において、両者は共通しています。
句構造文法と深層学習
ピンカーは、人間の言語能力を説明する上で、句構造文法(Phrase Structure Grammar)を重要な要素として挙げています。句構造文法とは、文を単語の羅列としてではなく、句(フレーズ)と呼ばれる単位の組み合わせとして分析する手法です。
近年の深層学習の発展は、句構造文法の重要性を再認識させています。深層学習とは、人間の脳の神経回路網を模倣したAIモデルを用いた機械学習の一種です。深層学習を用いることで、従来の手法よりも高度な文の構造解析が可能になり、機械翻訳や文章要約といったタスクの精度向上に大きく貢献しています。
課題と展望
『言葉を生み出す本能』は、出版から30年以上経った現在においても、人間の言語能力の解明に向けて、多くの示唆を与えてくれる本です。一方で、現代のAI理論、特に機械学習の進歩は、ピンカーの主張の一部を再考するきっかけを与えているとも言えます。
特に、文脈理解や常識推論といった、人間が自然に行っている処理をAIで実現することは、依然として困難な課題です。これらの課題を解決することは、人間の言語能力の真髄に迫ることであると同時に、より人間らしいAIを開発することにもつながると考えられています。
今後、AIの研究開発がさらに進展することで、『言葉を生み出す本能』で提示された人間の言語能力の謎が解き明かされ、より高度な自然言語処理技術が実現すると期待されています。