中国西南師範大学の何華清教授とデン・ユンフェイ氏による論文”The Mental Lexicon and English Vocabulary Teaching”は、心理言語学の知見を英語教育に応用する可能性を探った意欲的な研究です。本論文は、2015年に発表されたもので、中国の英語教育における語彙学習の課題に取り組んでいます。

著者らは、中国の英語学習者が「英単語は覚えにくく忘れやすい」と感じている現状を踏まえ、効果的な語彙指導法を模索しています。その手がかりとして注目したのが、人間の脳内にある「メンタルレキシコン(心的辞書)」という概念です。

メンタルレキシコンとは何か

メンタルレキシコンとは、人間の長期記憶の中にある語彙知識の総体を指します。著者らは、このメンタルレキシコンの特徴を紙の辞書と比較しながら説明しています。

1. 配列の違い

紙の辞書がアルファベット順に並んでいるのに対し、メンタルレキシコンはそうではありません。

2. 柔軟性

紙の辞書は内容が固定されていますが、メンタルレキシコンは新しい言葉を取り入れたり、意味や発音の変化に適応したりできます。

3. 関連性

紙の辞書では単語が孤立して載っていますが、メンタルレキシコンでは単語同士が様々な特性や関係性によってグループ化されています。

4. 情報量

メンタルレキシコンには、単語の定義や綴り、発音だけでなく、他の単語との関係性など、より多くの情報が含まれています。

これらの特徴を理解することで、より効果的な語彙指導の方法を考案できるのではないか、というのが著者らの主張です。

メンタルレキシコンの構造と単語へのアクセス

論文では、メンタルレキシコンの構造に関する主要な3つのモデルが紹介されています。

1. 階層ネットワークモデル:単語が階層的なネットワークで結ばれているとするモデル
2. 活性化拡散モデル:単語同士の関係性が複雑なウェブのように結ばれているとするモデル
3. プロトタイプモデル:概念のカテゴリーに最も典型的な例(プロトタイプ)が存在するとするモデル

著者らは、これらのモデルの中でも活性化拡散モデルが最も現実的だと評価しています。

また、単語へのアクセス(単語認識)の過程についても、いくつかのモデルが紹介されています。これらのモデルは、人間がどのように単語を認識し、その意味を理解するかを説明しようとするものです。

英語語彙指導への示唆

論文の後半では、これらの理論的背景を踏まえて、具体的な語彙指導法が提案されています。主な提案は以下の4点です。

1. 文脈からの学習とリストからの学習の併用
著者らは、単語リストだけでなく、文脈の中で単語を学ぶことの重要性を指摘しています。文脈があることで、単語の認識が速くなり、曖昧さも解消されるためです。ただし、頻繁に使用される基本的な単語については、リストを使った明示的な学習も必要だとしています。

2. 単語間の意味関係の確立
メンタルレキシコンでは、単語が意味的なネットワークで結ばれているという考えに基づき、単語間の意味関係を教える重要性が強調されています。例えば、同じカテゴリーに属する単語をまとめて教えることで、学習者自身の意味ネットワークの構築を促すことができるとしています。

3. 頻繁な接触機会の提供
単語の使用頻度が高いほど、その認識が速くなるという「単語頻度効果」に基づき、新しい単語に繰り返し触れる機会を提供することの重要性が指摘されています。具体的には、多読や映画鑑賞などが推奨されています。

4. 形態論的知識の教授
単語の構造(接頭辞、語根、接尾辞など)に関する知識を教えることで、未知の単語の意味を推測する能力を養うことができるとしています。

結論と考察

本論文は、心理言語学の知見を英語教育に応用しようとする意欲的な試みとして評価できます。特に、メンタルレキシコンという概念を中心に据えて語彙指導を考えるアプローチは新鮮です。

ただし、いくつかの課題も指摘できます。まず、論文で紹介されているメンタルレキシコンのモデルや単語認識のモデルは、主に英語を母語とする話者を対象とした研究に基づいています。第二言語としての英語学習者、特に中国語を母語とする学習者のメンタルレキシコンが同じ構造を持つかどうかは、さらなる研究が必要でしょう。

また、提案されている指導法の多くは、既存の語彙指導法と大きく異なるものではありません。メンタルレキシコンの理論をより具体的にどのように指導法に反映させるかについては、さらなる検討が必要だと思われます。

それでも、本論文は英語教育における語彙指導の重要性を改めて強調し、その理論的根拠を提供したという点で意義深いものです。今後、これらの提案を実際の教育現場で検証し、その効果を測定する研究が行われることが期待されます。

最後に、本研究が中国の英語教育の文脈で行われたことにも注目すべきでしょう。中国では英語学習が主に教室内で行われ、実際の使用機会が限られているという背景があります。そのような環境下で効果的な語彙指導法を模索する本研究の意義は大きいと言えるでしょう。


He, H., & Deng, Y. (2015). The Mental Lexicon and English Vocabulary Teaching. English Language Teaching, 8(7), 40-45. https://doi.org/10.5539/elt.v8n7p40

By 吉成 雄一郎

東海大学教授。コロンビア大学大学院ティーチャーズカレッジ(英語教授法)、信州大学大学院工学研究科(情報工学)修了。東京電機大学教授を経て現職。専門は英語教授法、英語教育システム開発。 さまざまな英語学習書、英検、TOEIC 対策書、マルチメディア教材等を手がけてきた。英語e ラーニングや英語関係の教材・コンテンツの研究開発も行う。全国の大学、短期大学、高専等で使われているe ラーニングシステム「リンガポルタ」も開発した。最近ではAI による新しい教育システムの開発にも着手している。