はじめに

京都大学の英語教育研究者である柳瀬陽介氏による本論文は、近年急速に発展している機械翻訳技術が外国語教育、特に英語教育に与える影響について深く考察しています。柳瀬氏は2020年から大学の英語ライティング授業で機械翻訳の利用を始め、その経験を踏まえて本研究を行っています。

機械翻訳の進歩と外国語教育の課題

機械翻訳の性能向上により、一部では「英語学習が不要になる」という極端な意見が出る一方で、機械翻訳の使用を全面的に否定する声もあります。柳瀬氏はこれらの両極端な見方を避け、より現実的で建設的なアプローチを提案しています。

サイボーグ的知性の概念

論文では「サイボーグ」という概念を用いて人間の知性を再考しています。人間は道具や媒体を使用することで知的能力を拡張してきた「生まれながらのサイボーグ」であり、機械翻訳もそうした道具の一つとして捉えることができると主張しています。

言語ゲームの多様性

柳瀬氏は哲学者ウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」の概念を援用し、言語使用の多様性を指摘します。機械翻訳の適切な使用は、それぞれの言語ゲーム(具体的な言語使用の場面)に応じて判断されるべきだと論じています。

複言語主義の重要性

論文は欧州評議会が提唱する「複言語主義」の考え方を支持しています。これは、単一の言語に完全に習熟することよりも、複数の言語資源を状況に応じて柔軟に活用する能力を重視する考え方です。柳瀬氏は、この複言語主義的アプローチが機械翻訳時代の言語教育にとって有効だと主張しています。

文化越境的コミュニケーションの可能性

機械翻訳の普及は、異なる言語文化圏の間のコミュニケーションを促進する可能性があります。柳瀬氏は「文化越境的コミュニケーション」という概念を提示し、これが国際的な相互理解を深める可能性を指摘しています。

教育現場での具体的な取り組み

柳瀬氏は自身の授業実践を基に、機械翻訳を英語教育に導入する際の具体的な方法や留意点を示しています。学生の自主性を尊重しつつ、機械翻訳の長所と短所を理解させる取り組みが紹介されています。

結論:AIとの共存・協働に向けて

論文は、AIとの共存・協働が今後の教育の大きな課題になると結論づけています。機械翻訳の導入は単に英語ライティングの問題だけでなく、言語教育全体のあり方を問い直す契機となると指摘しています。

研究の背景と意義

本研究の背景には、近年のAI技術、特に自然言語処理の急速な発展があります。GPT-3のような大規模言語モデルの登場により、機械翻訳の精度が飛躍的に向上し、言語教育の現場にも大きな影響を与えつつあります。

柳瀬氏の研究は、こうした技術革新に対して、言語教育がどのように適応していくべきかを多角的に検討した先駆的な取り組みといえます。特に、言語哲学や文化論の視点を取り入れながら、実践的な教育方法まで言及している点が注目されます。


柳瀬, Y. (2022). 機械翻訳が問い直す知性・言語・言語教育―サイボーグ・言語ゲーム・複言語主義―. 外国語教育メディア学会関東支部研究紀要, VII, 1-17.

By 吉成 雄一郎

東海大学教授。コロンビア大学大学院ティーチャーズカレッジ(英語教授法)、信州大学大学院工学研究科(情報工学)修了。東京電機大学教授を経て現職。専門は英語教授法、英語教育システム開発。 さまざまな英語学習書、英検、TOEIC 対策書、マルチメディア教材等を手がけてきた。英語e ラーニングや英語関係の教材・コンテンツの研究開発も行う。全国の大学、短期大学、高専等で使われているe ラーニングシステム「リンガポルタ」も開発した。最近ではAI による新しい教育システムの開発にも着手している。