はじめに:なぜ母語を忘れてしまうのか
海外旅行や留学で外国語に囲まれた環境に身を置いた経験のある方なら、不思議な現象に気づいたことがあるかもしれません。普段当たり前のように使っている日本語の単語が、ふと思い出せなくなることがあるのです。コップを見て「cup」という英語は浮かぶのに、肝心の「コップ」という日本語が出てこない。こうした体験は決して珍しいものではありません。
この現象は学術的には「第一言語萎縮」または「母語萎縮」と呼ばれ、長年研究者たちの関心を集めてきました。従来の研究では、母語を使う機会が減ることによる自然な忘却が主な原因と考えられていました。しかし、オレゴン大学のベンジャミン・レヴィ氏らが2007年に発表した研究”Inhibiting your native language: The role of retrieval-induced forgetting during second-language acquisition”は、この現象に対してまったく新しい視角を提供しています。
研究チームと研究の背景
この研究を主導したベンジャミン・J・レヴィ氏は、オレゴン大学で記憶と認知制御の専門家として活動しています。共同研究者には、同じくオレゴン大学のネイサン・D・マクヴェイ氏とマイケル・C・アンダーソン氏、そしてスペインのサラマンカ大学のアレハンドラ・マルフル氏が名を連ねています。アンダーソン氏は記憶研究の分野で著名な研究者であり、特に「検索誘発忘却」という現象の研究で知られています。
この研究が行われた2000年代初頭は、記憶研究において新たな発見が相次いでいた時期でした。従来、忘却は単純に時間の経過とともに記憶が薄れていく受動的な過程と考えられていましたが、実際には脳が積極的に不要な情報を抑制する能動的な過程であることが明らかになってきていました。レヴィ氏らは、この新しい記憶理論を言語習得の分野に応用したのです。
検索誘発忘却:記憶の新しいメカニズム
レヴィ氏らの仮説を理解するために、まず「検索誘発忘却」という概念について説明する必要があります。これは1990年代にアンダーソン氏らが発見した現象で、ある記憶を思い出そうとするとき、関連する他の記憶が抑制されて思い出しにくくなるというものです。
典型的な実験では、参加者にまず「果物-オレンジ」「果物-バナナ」「飲み物-バーボン」といったカテゴリーと例示語のペアを覚えてもらいます。次に、一部のカテゴリーの一部のアイテムだけを繰り返し練習させます(例:「果物-オレンジ」は練習するが「果物-バナナ」は練習しない)。最後に全てのアイテムについてテストを行うと、練習したアイテム(オレンジ)の記憶は向上するものの、同じカテゴリーの練習しなかったアイテム(バナナ)の記憶は、全く関係のないカテゴリーのアイテム(バーボン)よりも悪化することが分かりました。
この現象は、脳が効率的に記憶を検索するために、目標となる記憶と競合する関連記憶を積極的に抑制することで生じると考えられています。つまり、「果物-オレンジ」を思い出そうとするとき、同じ「果物」カテゴリーの「バナナ」が干渉してくるため、脳はバナナの記憶を一時的に抑制するのです。
言語習得への応用:新しい仮説の提案
レヴィ氏らは、この検索誘発忘却のメカニズムが第二言語習得時の母語萎縮にも関与しているのではないかと考えました。バイリンガルの脳では、一つの概念に対して複数の言語の単語が競合します。例えば、蛇の絵を見たとき、英語話者がスペイン語を学習していれば、「snake」(英語)と「culebra」(スペイン語)の両方が活性化されます。
第二言語の単語(culebra)を産出しようとするとき、より強く結びついている母語の単語(snake)が干渉してきます。この干渉を克服するために、脳は母語の音韻表象を抑制する可能性があります。この抑制が繰り返されることで、母語の単語が一時的に思い出しにくくなる、というのが彼らの仮説です。
この仮説の優れた点は、母語萎縮を単なる不使用による忘却ではなく、第二言語習得を促進するための適応的なメカニズムとして位置づけていることです。つまり、母語を「忘れる」ことは、第二言語を効率的に学習するための代償として生じる現象だというのです。
実験1:仮説の検証
研究チームは、この仮説を検証するために巧妙な実験を設計しました。実験の参加者は、オレゴン大学で少なくとも1年間スペイン語を学習した英語話者32名でした。実験は3つの段階に分かれていました。
最初の「リフレッシュ段階」では、参加者に線画とそのスペイン語名を5秒間提示し、スペイン語の単語を思い出してもらいました。これは、参加者がスペイン語の単語を確実に知っていることを確認するためです。
次の「絵命名段階」が実験の核心部分でした。参加者には色付きの線画が提示され、緑色の絵には英語で、赤色の絵にはスペイン語で名前を付けるよう指示されました。各絵は0回、1回、5回、または10回繰り返して命名されました。0回の条件(ベースライン)は、最初のリフレッシュ段階でのみ見た絵です。
最後の「最終テスト段階」では、英語の単語の思い出しやすさを測定しました。ここで重要なのは、「独立プローブテスト」という手法を使ったことです。参加者には、以前に見た絵の英語名と韻を踏む単語(例:snakeに対してbreak)が提示され、その韻を踏む単語として以前に見た絵の英語名を答えるよう求められました。
この独立プローブテストの巧妙さは、絵そのものを手がかりとして使わないことにあります。もし絵を手がかりとして使った場合、スペイン語で命名した後に英語での想起が悪くなったとしても、それが真の記憶の抑制なのか、単にスペイン語の単語が干渉しているだけなのかを区別できません。しかし、韻という音韻的手がかりを使うことで、スペイン語の単語の影響を排除し、純粋に英語の音韻表象の状態を測定できるのです。
結果は仮説を支持するものでした。英語で絵を命名した場合、繰り返し回数が増えるにつれて最終テストでの成績が向上しました(0回で41%、10回で58%)。これは予想された結果です。しかし、スペイン語で命名した場合は異なるパターンを示しました。1回の命名では英語での想起がわずかに向上しました(41%から49%へ)が、10回の命名では逆に悪化しました(34%)。つまり、スペイン語での命名を繰り返すほど、対応する英語の単語が思い出しにくくなったのです。
実験2:抑制の特異性の検証
実験1の結果は興味深いものでしたが、観察された効果が本当に音韻レベルの抑制なのか、それとも概念レベルでの干渉なのかを明確にする必要がありました。そこで研究チームは、実験2でより詳細な検証を行いました。
実験2では64名の参加者を対象とし、最終テストを2つの条件に分けました。「音韻条件」では実験1と同様に韻を踏む単語を手がかりとして使い、「意味条件」では意味的に関連する単語を手がかりとして使いました(例:snakeに対してvenom)。さらに、実験2では自由連想課題を採用し、参加者には手がかりと関連する最初に思い浮かんだ単語を答えるよう求めました。
音韻条件の結果は実験1と一致していました。スペイン語で10回命名した絵について、英語の単語の生成率はベースライン(72%)と比較して有意に低下しました(66%)。一方、英語で命名した場合は向上または変化がありませんでした。
しかし、意味条件では全く異なる結果が得られました。英語とスペイン語のどちらで命名した場合でも、関連する概念の生成は促進される傾向を示し、両言語間で差はありませんでした。
この結果は極めて重要な意味を持ちます。もしスペイン語での命名が概念レベルで干渉を起こしているなら、意味条件でも成績の低下が見られるはずです。しかし実際には、概念レベルでは促進が見られ、音韵レベルでのみ抑制が観察されました。これは、観察された効果が確かに音韻特異的な抑制であることを示しています。
言語優位性の影響:個人差の検討
研究チームは、さらに興味深い発見をしました。参加者を第二言語(スペイン語)の習熟度によって2つのグループに分けて分析したところ、スペイン語が苦手なグループでより大きな抑制効果が観察されたのです。
言語優位性は、スペイン語と英語での絵命名時の反応時間の差によって操作的に定義されました。スペイン語が苦手なグループは、スペイン語での命名(1,214ミリ秒)が英語での命名(1,008ミリ秒)よりもかなり遅くなりました。一方、より流暢なグループは、実際にはスペイン語(1,039ミリ秒)の方が英語(1,062ミリ秒)よりもわずかに速いという結果でした。
重要なのは、音韻的抑制効果がスペイン語の苦手なグループでのみ観察されたことです。このグループでは、スペイン語で10回命名した後、ベースラインと比較して英語の単語生成率が13%低下しました。一方、流暢なグループでは抑制効果は見られませんでした。
この結果は、抑制メカニズムが第二言語習得の初期段階で特に重要な役割を果たすことを示しています。第二言語が苦手な段階では、母語との競合が激しく、干渉を克服するために強い抑制が必要になります。しかし、第二言語が流暢になるにつれて、このような競合は減少し、抑制の必要性も低下するのです。
理論的意義と従来研究との関係
この研究の理論的意義は多方面にわたります。まず、母語萎縮に対する新しい説明を提供したことです。従来の「使用頻度の低下による忘却」説では、なぜ第二言語環境で頻繁に使われる概念の母語単語が特に忘れやすくなるのかを説明できませんでした。しかし、抑制説によれば、まさにそのような概念こそが最も抑制を受けやすいことになります。
また、この研究は記憶研究と言語研究を橋渡しする重要な貢献をしています。検索誘発忘却という記憶現象が、実際の言語使用場面でも機能することを実証したのです。これまで検索誘発忘却は主に実験室での人工的な課題で研究されてきましたが、この研究は日常的な言語使用という生態学的に妥当な文脈での検証を行いました。
さらに、この研究はグリーン(Green, 1998)の抑制制御モデルとも関連しています。グリーンは、バイリンガルが言語を切り替える際に抑制メカニズムを使用するという理論を提案していました。レヴィ氏らの研究は、この抑制が一時的な言語切り替えにとどまらず、より長期的な記憶への影響も持つことを示しています。
コスタとサンテステバン(Costa & Santesteban, 2004)の研究も関連しています。彼らは、言語切り替えにおける抑制が習熟度の低い話者でより顕著に見られることを報告しており、これはレヴィ氏らの結果と一致しています。
方法論的評価:実験デザインの長所と限界
この研究の方法論的な強みは、独立プローブテストの使用にあります。この手法により、研究者は真の記憶抑制と単なる検索時の競合を区別することができました。また、音韻条件と意味条件を分けることで、抑制効果の特異性を明確に示すことができました。
さらに、自由連想課題の採用も巧妙でした。参加者に明示的に以前の学習内容を思い出すよう求めるのではなく、「最初に思い浮かんだ単語」を答えるよう求めることで、意識的な記憶方略の影響を最小限に抑えることができました。実際、参加者の81%が以前の学習段階について意識的に思い返そうとしなかったと報告しており、これは真の暗示的記憶テストとして機能していたことを示しています。
しかし、いくつかの限界も指摘できます。まず、参加者は大学生のスペイン語学習者に限定されており、結果の一般化可能性に制約があります。より多様な年齢層や言語組み合わせでの検証が必要でしょう。
また、この研究では比較的短期間の効果しか測定していません。実際の言語萎縮は数ヶ月から数年にわたる長期的な過程であり、実験室での短期的な効果がそのまま現実世界の現象に対応するかは不明です。
さらに、使用された刺激は具体的な名詞に限定されており、動詞や抽象概念での同様の効果については検証されていません。言語の他の側面(統語や語用論など)への影響も今後の研究課題です。
実践的含意:言語教育への示唆
この研究の発見は、第二言語教育に重要な示唆を提供します。従来、母語萎縮は学習者にとって望ましくない副作用と考えられてきましたが、この研究は異なる視点を提示しています。
まず、初期段階での一時的な母語の検索困難は、第二言語習得のための適応的なメカニズムである可能性があります。教師や学習者は、このような現象を過度に心配する必要はないかもしれません。むしろ、これは脳が効率的に新しい言語を習得しようとしている証拠と捉えることができます。
ただし、この発見は教育方法の再考も促します。もし抑制メカニズムが第二言語習得に重要な役割を果たすなら、教育プログラムはこのメカニズムを適切に活用する必要があります。例えば、集中的な第二言語使用期間と母語使用期間を戦略的に配置することで、効果的な学習と母語維持のバランスを取ることができるかもしれません。
また、この研究は言語切り替え訓練の重要性も示唆しています。習熟度が向上するにつれて抑制効果が減少することから、言語間の柔軟な切り替え能力を育成することが、長期的な母語萎縮の予防につながる可能性があります。
今後の研究課題と発展的可能性
この研究は多くの興味深い研究課題を提起しています。まず、抑制効果の持続性についてより詳細な検討が必要です。実験で観察された抑制は一時的なものなのか、それとも累積的に長期的な影響を与えるのかは明らかではありません。
また、個人差要因のより体系的な検討も重要です。言語習熟度以外にも、認知制御能力、メタ言語意識、動機などの要因が抑制効果に影響を与える可能性があります。特に、認知制御の個人差は、抑制メカニズムの効率性に直接影響すると考えられます。
脳科学的手法による検証も今後の重要な課題です。fMRIやEEGなどの神経画像技術を用いることで、仮定されている抑制メカニズムの神経基盤を直接的に検証できるでしょう。特に、言語制御に関与する前頭葉領域の活動パターンを調べることで、理論的予測をより厳密に検証できます。
さらに、この研究の発見を他の認知領域に拡張することも興味深い方向性です。例えば、楽器演奏における技能間の競合や、専門知識の習得における既存知識の抑制など、類似のメカニズムが他の学習場面でも機能している可能性があります。
批判的考察:限界と課題
この研究に対してはいくつかの批判的な観点も提示できます。まず、実験室の人工的な環境で得られた結果が、現実世界の複雑な言語使用状況にどの程度適用できるかという生態学的妥当性の問題があります。
実際の言語萎縮は、単純な単語レベルの現象だけでなく、統語構造、語用論的知識、文化的コンテクストなどの複合的な要因が関与します。単一の実験パラダイムで、これらすべての側面を捉えることは困難です。
また、この研究では英語とスペイン語という比較的類似した言語ペアのみを扱っており、言語系統が大きく異なる言語ペア(例:日本語と英語)での同様の効果については不明です。言語間の音韻的、統語的距離が抑制効果に与える影響は重要な検討課題です。
さらに、参加者の動機や学習文脈も結果に影響を与える可能性があります。この研究の参加者は大学の授業でスペイン語を学習している学生であり、実際の移住や職業上の必要性による言語習得とは動機や切迫感が異なります。
理論的発展と今後の展望
この研究は、言語と認知の関係についてより深い理解への道筋を示しています。特に、学習における忘却の適応的役割という視点は、教育心理学や認知科学の他の領域にも応用できる可能性があります。
例えば、専門知識の習得過程において、新しい概念システムを効率的に学習するために、既存の知識が一時的に抑制される可能性があります。医学生が新しい診断カテゴリーを学ぶ際や、研究者が新しい理論的枠組みを習得する際にも、類似のメカニズムが働くかもしれません。
また、この研究は認知的リソースの配分という観点からも興味深い示唆を提供します。脳の処理能力には限界があるため、新しいスキルの習得には既存のスキルの一時的な抑制が伴う可能性があります。この視点は、効率的な学習方法の開発に重要な指針を提供するでしょう。
結論:母語萎縮研究の新たな地平
レヴィ氏らの研究は、母語萎縮という現象に対する理解を根本的に変える重要な貢献をしています。母語を「忘れる」ことを単なる望ましくない副作用ではなく、第二言語習得を促進するための適応的なメカニズムとして位置づけることで、この現象に対する新しい視点を提供しました。
この研究の最も重要な貢献は、実験心理学の厳密な方法論を用いて、長年の言語学的観察に科学的基盤を与えたことです。独立プローブテストという巧妙な実験手法により、真の記憶抑制効果を単なる検索時の競合から区別することに成功しました。
また、個人差の検討により、抑制メカニズムが第二言語習得の初期段階で特に重要であることを示したことも重要です。これは、言語教育の実践において、学習者の習熟度レベルに応じた指導方法の必要性を示唆しています。
しかし、この研究は始まりに過ぎません。より長期的な効果の検証、多様な言語ペアでの検討、神経科学的手法による メカニズムの解明など、多くの課題が残されています。また、理論的発見を実際の教育実践に活かすためには、さらなる応用研究も必要でしょう。
それでも、この研究が提供した新しい理論的枠組みは、言語習得研究のみならず、学習と記憶の関係についてより広い理解への道筋を示しています。忘却を単なる記憶の劣化ではなく、新しい学習を促進するための積極的なメカニズムとして捉える視点は、教育や認知科学の多くの分野に応用可能な価値ある発見といえるでしょう。
Levy, B. J., McVeigh, N. D., Marful, A., & Anderson, M. C. (2007). Inhibiting your native language: The role of retrieval-induced forgetting during second-language acquisition. Psychological Science, 18(1), 29-34.