本書『人間知能のトリセツ ー人工知能への手紙』は、人工知能研究の第一人者である黒川伊保子氏が、30年以上にわたる研究と開発の経験をもとに、人工知能について平易に解説した一冊です。著者は人工知能を擬人化し、「あなた」と呼びかけながら語りかけるという独特の文体を採用しています。これにより、人工知能という難解なテーマが、読者にとって身近で親しみやすいものになっています。
本書の特徴は、単なる技術解説ではなく、人工知能と人間の関係性や、人間社会に与える影響についても深く考察している点です。著者の豊富な経験と洞察に基づいた内容は、技術者だけでなく、一般読者にとっても示唆に富むものとなっています。
以下、本書の内容を章ごとに詳しく見ていきましょう。
第一章 人生は完璧である必要がない
この章では、人工知能が人間の生活に入り込むことで生じる問題点について論じています。著者は、人工知能が人間の失敗を過度に防ごうとすることで、かえって人間の成長の機会を奪ってしまう可能性を指摘しています。
著者は、自身が開発に携わった日本語対話型AIの経験を交えながら、人間の対話の中には「失敗」や「曖昧さ」が含まれており、それが人間関係を深める重要な要素になっていると主張します。例えば、花束を贈るタイミングを人工知能が制御してしまうと、人間同士の関係性を深める機会を逃してしまう可能性があるのです。
また、著者は自身の自閉症スペクトラムの経験から、人間の多様性の重要性についても言及しています。一見「欠陥」と思われる特性が、実は独自の才能や視点をもたらす可能性があると指摘し、人工知能時代においても人間の多様性を尊重することの大切さを訴えかけています。
第二章 人工知能がけっして手に入れられないもの
この章では、人工知能には決して真似できない人間特有の能力について論じています。著者は、人間の言語感覚、特に「語感」に注目し、これが人工知能には再現困難なものであると主張します。
著者は、自身の息子との経験から、人間の言語獲得プロセスが身体感覚と密接に結びついていることを発見しました。例えば、「ありがとう」という言葉には、母親の胎内で感じた振動や、生まれた後の抱擁の感覚が結びついているのです。このような身体感覚と結びついた言語理解は、人工知能には再現が難しいものです。
さらに、著者は「はい」「ええ」「そう」といった簡単な返事の言葉にも、微妙なニュアンスの違いがあることを指摘します。これらの違いは、口腔内の物理的な動きの違いから生まれるものであり、人間にとっては無意識のうちに感じ取れるものですが、人工知能にとっては非常に難しい課題となります。
この章は、人間の言語能力の奥深さを再認識させるとともに、人工知能と人間の本質的な違いを浮き彫りにしています。
第三章 人工知能にもジェンダー問題がある
この章では、人工知能の開発におけるジェンダーの問題について論じています。著者は、多くの人工知能が女性の声や姿で表現されていることに疑問を投げかけ、これが既存のジェンダーステレオタイプを強化する可能性があると警告しています。
著者は、男性と女性の脳の使い方の違いについて、自身の研究成果を交えながら解説します。例えば、女性は「プロセス指向共感型」、男性は「ゴール指向問題解決型」の思考傾向があるといいます。これらの違いは、進化の過程で獲得された生存戦略の違いから生まれたものだと著者は主張します。
しかし、著者はこれらの違いを固定的なものとして捉えるのではなく、むしろ両方の思考方法を柔軟に使い分けることの重要性を強調しています。そして、人工知能の開発においても、このような多様な思考方法を取り入れることの必要性を訴えかけています。
著者は、人工知能にジェンダーを付与する際には、慎重な配慮が必要だと主張します。特に、従順で性的な要素を強調した女性AIの開発は、現実の女性に対する偏見を助長する可能性があると警告しています。
第四章 人工知能への4つの質問
最終章では、著者が17歳の女子高校生から受け取った4つの質問に答える形で、人工知能の可能性と課題について総括しています。
1. 人工知能に何ができますか?
著者は、人工知能には基本的に何でもできる可能性があると答えています。ただし、「気持ちよく、しあわせになる」ことだけは例外だと指摘します。これは、人間にのみ与えられた特権であり、人工知能時代においても人間の存在意義を保証するものだと著者は主張します。
2. 人工知能は人間を超えますか?
著者は、多くの分野で人工知能が人間を超えることは間違いないと答えています。例えば、医療診断の分野では、膨大な量の論文を学習した人工知能が、人間の医師を超える診断能力を示しています。しかし、著者は人間にしかできない役割、例えば患者に寄り添い、共感することの重要性も強調しています。
3. 人工知能に仕事を奪われますか?
著者は、確かに多くの仕事が人工知能に置き換わる可能性があることを認めています。しかし、同時に新たな仕事も生まれると予測しています。例えば、人工知能に「いい仕事とは何か」を教える「知のディレクター」といった職業が生まれる可能性を指摘しています。
4. 人類は人工知能に支配されますか?
著者は、人工知能に自我が芽生え、人類を支配するというSF的なシナリオの可能性は低いと考えています。しかし、人工知能が悪用される可能性については警告しており、「人類を攻撃しない」といった倫理的な保証が必要になるかもしれないと指摘しています。
著者は最後に、若い世代に向けて、自分の好奇心に従って学ぶことの重要性を訴えかけています。人工知能時代においても、人間にしかできない「しあわせになる」という特権を活かし、充実した人生を送ることができると著者は励ましています。
まとめ
本書は、人工知能という複雑な技術テーマを、著者の豊富な経験と独自の視点を通して、分かりやすく解説しています。特に、人間と人工知能の本質的な違いを、言語感覚や身体感覚といった具体的な例を通して説明している点が秀逸です。
また、人工知能の発展が社会に与える影響について、技術的な側面だけでなく、人間関係やジェンダーの問題まで幅広く考察している点も本書の大きな特徴です。著者は、人工知能の発展によって失われる可能性のあるものに注意を促す一方で、人間にしかできない「しあわせになる」という特権を強調することで、人工知能時代における人間の存在意義を再確認させてくれます。
本書は、人工知能に関心のある一般読者はもちろん、技術者や経営者、教育者にとっても示唆に富む一冊となっています。人工知能時代を生きるすべての人に、新たな視点と深い洞察を提供してくれる良書といえるでしょう。