デジタル脳クライシス――AI時代をどう生きるか (朝日新書)

本書『デジタル脳クライシス-AI時代をどう生きるか』は、東京大学大学院総合文化研究科教授の酒井邦嘉氏が、デジタル技術やAIが人間の脳や認知能力に及ぼす影響について警鐘を鳴らした啓発書です。著者は言語脳科学の専門家として、最新の脳科学研究の知見を踏まえながら、デジタル機器やAIへの過度の依存が引き起こす問題点を指摘しています。同時に、人間本来の能力を活かすための方策についても提言しています。

デジタル機器依存の危険性

著者はまず、スマートフォンやタブレットなどのデジタル機器への依存が進む現状に警鐘を鳴らします。特に子どもたちへの影響を懸念し、スマホ漬けの生活が想像力や思考力の低下につながる可能性を指摘しています。また、インターネット検索への過度の依存が「検索依存症」を引き起こし、自ら考える力を奪っていく危険性にも言及しています。

著者は、デジタル機器の便利さと引き換えに失われるものの大きさを強調します。たとえば、手書きでノートを取ることの重要性を指摘し、キーボード入力に比べて手書きのほうが理解や記憶の定着に効果的であることを、脳科学の研究結果を引用しながら説明しています。

AI依存の問題点

本書では、近年急速に普及しつつあるAI(人工知能)、特に「生成AI」と呼ばれるチャットGPTなどのシステムについても詳しく論じられています。著者は、これらのAIを「合成AI」と呼び変え、人間の創造性や思考力を模倣しているわけではないことを強調します。

AIの問題点として、以下のような点が指摘されています:

1. 人間の言語能力の本質を理解していない
2. 文の構造や意味を正しく理解できない
3. 創造性や批判的思考力を養うことができない
4. 倫理観や人間性を欠いている

著者は、教育現場でのAI利用に特に警鐘を鳴らしています。作文や課題でAIを使うことは、生徒や学生が自ら考える機会を奪い、長期的には学力低下につながる可能性があると指摕します。

脳の仕組みと可塑性

本書の特徴は、脳科学の知見に基づいて議論を展開している点です。著者は脳の構造や働きについて詳しく解説し、特に「可塑性」と呼ばれる脳の適応能力に注目します。

脳の可塑性に関する興味深い研究例として、以下のようなものが紹介されています。

– タクシー運転手の海馬(記憶に関わる脳の部位)が、経験を積むにつれて大きくなる
– ジャグリングの練習によって、視覚情報処理に関わる脳領域が変化する
– 多言語習得によって、言語処理に関わる脳領域が活性化する

これらの例は、脳が環境や経験に応じて変化する能力を持つことを示しています。著者は、この可塑性こそが人間の強みであり、AIにはない特質だと主張します。

紙の重要性

著者は、紙の本やノートの重要性を繰り返し強調しています。電子書籍や電子機器と比較して、紙には以下のような利点があると指摘します。

1. 空間的な情報を関連付けて記憶しやすい
2. 視覚的な手がかりが豊富で、想起を助ける
3. 集中力を高め、深い理解を促す
4. 創造的な思考を刺激する

著者らの研究チームが行った実験では、紙の手帳を使用してスケジュールを記録した群が、タブレットやスマートフォンを使用した群よりも、記憶の想起時に脳の言語野や海馬の活動が高まることが示されました。この結果は、紙媒体の使用が脳の認知機能を活性化させる可能性を示唆しています。

マルチタスクの重要性

本書では、一つの作業に集中することを強調する「シングルタスク」よりも、複数の作業を同時にこなす「マルチタスク」の能力を養うことの重要性が説かれています。著者は、現代の教育現場で「集中」が過度に強調されていることを問題視し、むしろ複数の事柄に同時に注意を払う能力を育てることが重要だと主張します。

マルチタスク能力の例として、以下のようなものが挙げられています:

– 車の運転(ハンドル操作、アクセル・ブレーキ操作、周囲の状況確認など)
– 音楽のアンサンブル演奏(楽器の演奏、楽譜の読み取り、他の演奏者との協調など)
– 料理(複数の調理作業の並行実行、火加減の調整、調味料の調整など)

著者は、これらの能力が日常生活や職業生活において重要であり、AIには容易に模倣できないものだと指摘します。

非認知能力の重要性

本書の最後の章では、「非認知能力」の重要性が強調されています。非認知能力とは、IQテストなどで測定される認知能力とは異なる、やる気や忍耐力、協調性などの能力を指します。著者は、これらの能力がAI時代においてますます重要になると主張します。

特に強調されているのは、以下のような能力です。

1. 能動的な好奇心
2. 自己の限界に挑戦し続ける姿勢
3. 長期的な目標に向かって努力を継続する力

著者は、これらの能力を育てるためには、デジタル機器やAIに頼るのではなく、自らの脳を積極的に使う必要があると説きます。そのための具体的な方法として、読書、音楽鑑賞、美術鑑賞、スポーツなどの活動が推奨されています。

まとめ:人間らしさを取り戻すために

本書の結論として、著者は以下のようなメッセージを読者に投げかけています。

1. デジタル機器やAIへの依存度を意識的に減らす
2. 手書きや紙の本など、アナログな手段を積極的に活用する
3. 自らの脳を使って考える習慣を身につける
4. マルチタスク能力や非認知能力を意識的に育てる
5. 長期的な視点で自己の成長を目指す

著者は、これらの努力を通じて、人間本来の創造性や思考力を取り戻し、AI時代においても豊かな人生を送ることができると主張しています。

総評

本書は、デジタル技術やAIの進展に警鐘を鳴らすだけでなく、人間の脳の可能性を科学的な視点から解説した意欲作です。著者の専門である脳科学の知見を分かりやすく解説しながら、現代社会の問題点を鋭く指摘している点が高く評価できます。

一方で、デジタル技術やAIの利点にはあまり触れられておらず、やや一面的な議論になっている印象も否めません。特に子どもたちが今後AI社会を生き抜いていくためには、AIを避けるのではなく、むしろどのようにそれを生かし、活用していくかを教えていく必要もあります。

しかし、人間の認知能力や創造性の本質について深く考えさせられる内容であり、AI時代を生きる私たちに重要な示唆を与えてくれる一冊だと言えるでしょう。教育関係者はもちろん、ビジネスパーソンや一般読者にも広く読まれることが期待される良書です。

By 吉成 雄一郎

東海大学教授。コロンビア大学大学院ティーチャーズカレッジ(英語教授法)、信州大学大学院工学研究科(情報工学)修了。東京電機大学教授を経て現職。専門は英語教授法、英語教育システム開発。 さまざまな英語学習書、英検、TOEIC 対策書、マルチメディア教材等を手がけてきた。英語e ラーニングや英語関係の教材・コンテンツの研究開発も行う。全国の大学、短期大学、高専等で使われているe ラーニングシステム「リンガポルタ」も開発した。最近ではAI による新しい教育システムの開発にも着手している。