近年、人工知能(AI)に関するニュースを毎日のように目にするようになりました。将棋や囲碁でトッププロに勝利したり、自動運転技術が実用化に近づいたり、あるいは個別化医療への応用が進んだりと、AIの進歩は目覚ましいものがあります。一方で、AIが人間の仕事を奪うのではないかという不安の声も聞かれます。
本書『人工知能はこうして創られる』は、このようなAIブームの真っただ中で出版されました。編者の合原一幸氏をはじめ、各章の著者たちは、AIブームが訪れる前からこの分野で地道に研究を続けてきた中堅の研究者たちです。彼らが、AIの基礎と今後の発展、さらには将来の広い可能性について、その蘊蓄を傾けて解説しています。
本書の特徴は、単にAIをもてはやすのでも、AIの技術的な解説に終始するのでもなく、AIの歴史的な流れを追いながら、これからの方向性を見据え、さらに広い視野に立ってその可能性を理解することを目指している点です。AIに関心を持つ一般の読者にとって、本書は非常に有益な羅針盤となるでしょう。
第1章 – AIの歴史と展望
第1章は編者の合原一幸氏が執筆しています。ここでは、AIとニューラルネットワーク(神経回路網)研究の歴史が詳しく解説されています。
AIの歴史は1950年代に始まり、これまでに2度のブームと衰退を経験しています。第1次AIブームは1950年代後半から1960年代にかけて起こりました。この時期は、デジタルコンピュータが実用化され始めた時代で、記号と論理をベースにした知能の実現を目指していました。しかし、コンピュータの能力が限られていたこともあり、期待されたほどの成果は上げられませんでした。
第2次AIブームは1970年代後半から1980年代にかけてでした。この時期は、専門家の知識をコンピュータに実装する「エキスパートシステム」の研究が活発に行われました。しかし、専門家の暗黙知をルール化することの困難さや、「フレーム問題」(解決すべき問題に関連した枠組みを設定する難しさ)が顕在化し、研究は次第に下火になっていきました。
そして現在、第3次AIブームが到来しています。このブームの特徴は、ディープラーニング(深層学習)と呼ばれる技術が画像認識や音声認識などの分野で高い性能を示していることです。ディープラーニングは、人工ニューラルネットワークの一種で、多層構造を持つことが特徴です。
合原氏は、ディープラーニングの成功の背景には、以下の3つの要因があると指摘しています。
1. ビッグデータの利用可能性
2. コンピュータの計算能力の飛躍的向上
3. 効果的な学習アルゴリズムの開発
また、合原氏は現在のAI技術の限界についても言及しています。例えば、ディープラーニングは大量のデータを必要とし、少ないサンプルからの学習は苦手です。一方、人間の脳は少ない例からでも学習できます。このような人間の脳の学習能力を模倣する研究も進められており、今後の発展が期待されています。
さらに、合原氏はAIと人間の協調の重要性を強調しています。AIには得意な分野と不得意な分野があり、人間にも同様です。両者の長所を組み合わせることで、より高度な問題解決が可能になるというのが合原氏の主張です。
第2章 – 機械学習の基礎と応用
第2章は、Google社のエンジニアである牧野貴樹氏が執筆しています。ここでは、機械学習の基本的な概念と、それが日常生活のどのような場面で使われているかが解説されています。
機械学習とは、コンピュータ自体にルールを発見させる手法です。従来、コンピュータはプログラマーが書いたルールに従って動作していましたが、機械学習では大量のデータを与えることで、コンピュータ自身がパターンを見つけ出し、ルールを作り出します。
例えば、手書き文字認識を例に考えてみましょう。従来の方法では、「0」や「1」といった数字の特徴を人間が細かくルール化する必要がありました。しかし、機械学習では、多数の手書き文字の画像とその正解(どの数字かという情報)を与えることで、コンピュータ自身が各数字の特徴を学習します。
牧野氏は、機械学習が日常生活のさまざまな場面で使われていることを紹介しています。例えば、
1. スマートフォンのカメラに搭載されている顔認識機能
2. 迷惑メールの自動振り分け
3. インターネットショッピングサイトでのおすすめ商品の提示
4. 掃除ロボットの効率的な掃除ルートの計画
また、機械学習の中でも特に注目されている「深層学習」についても触れています。深層学習は、人間の脳の仕組みを模した「ニューラルネットワーク」を多層に重ねたもので、より複雑なパターンの認識が可能になります。
牧野氏は、機械学習の限界についても言及しています。機械学習は大量のデータから傾向を見出すものであり、全く新しいアイデアを生み出すことは苦手です。また、学習に使用したデータに偏りがあると、その偏りを反映した結果を出してしまう可能性があります。これらの点に注意しながら機械学習を活用することが重要だと指摘しています。
第3章 – 質問応答システムの発展
第3章は、日本IBM社の金山博氏が執筆しています。ここでは、IBMが開発した質問応答システム「Watson」の開発秘話と、その技術がどのように発展しているかが解説されています。
Watsonは、2011年にアメリカのクイズ番組「Jeopardy!」で人間のチャンピオンに勝利し、大きな話題となりました。金山氏は、Watsonの開発チームの一員として、その開発過程を詳しく説明しています。
Watsonの核心技術は「DeepQA」と呼ばれるものです。これは、与えられた質問文を解析し、可能性のある答えの候補を多数生成し、それぞれの候補について根拠となる情報を大量の文書から探し出し、最も確からしい答えを選び出すというプロセスを踏みます。
金山氏は、Watsonの技術がクイズ番組での勝利にとどまらず、さまざまな分野で応用されつつあることを紹介しています。例えば、
1. 医療分野での診断支援
2. カスタマーサポートでの質問応答
3. 金融分野でのリスク分析
特に医療分野では、Watson for Genomicsという技術が注目されています。これは、特定の遺伝子と関連するものは何かという質問に対して、数千万編の論文に書かれた情報の中から関連する情報を抽出するものです。これにより、未知のがんに関する情報を効率的に探し出し、適切な治療法の発見につながる可能性があります。
金山氏は、Watsonのような質問応答システムの発展が、「コグニティブ・コンピューティング」という新しい概念につながっていると指摘しています。これは、大規模な学習、目的に基づいた推論、そして人間と自然にやりとりをすることができるシステムを指します。金山氏は、このようなシステムが今後、医療や経済など多岐にわたる実世界の課題に貢献できるだろうと期待を寄せています。
第4章 – 脳型コンピュータの可能性
第4章は、東京大学の河野崇氏が執筆しています。ここでは、人間の脳の仕組みを模倣した「脳型コンピュータ」の研究について解説されています。
河野氏によれば、脳型コンピュータ研究の目的は、脳の優れた特性を受け継ぐ情報処理システムを作ることです。脳の特徴としては、以下のようなものが挙げられます。
1. 柔軟性:ノイズの影響下でも適切に情報を処理できる
2. 自律性:体の状態や周囲の状況を基に次の行動を判断できる
3. 適応性:新しい環境や課題に適応できる
4. 低消費電力:人間の脳は約20ワットという低い消費電力で動作する
5. 自己修復能力:長期間メンテナンスなしで動作し続けられる
これらの特性を人工的なシステムで実現できれば、複雑な情報処理を低消費電力で行えるだけでなく、柔軟で適応性の高いシステムが作れる可能性があります。
河野氏は、脳型コンピュータの実現に向けた様々なアプローチを紹介しています。その中でも特に注目されているのが「シリコン神経ネットワーク」です。これは、神経細胞(ニューロン)とシナプス(神経細胞間の接続部)の機能を電子回路で模倣したものです。
シリコン神経ネットワークの代表例として、IBMが開発したTrueNorthチップが挙げられています。このチップは100万個のシリコンニューロン回路と2億5600万個のシリコンシナプス回路を持ち、わずか63ミリワットという低消費電力で動作します。
ただし、河野氏は現在のシリコン神経ネットワークにはまだ課題があることも指摘しています。例えば、TrueNorthチップは脳の神経細胞の働きを非常に単純化したモデルを使用しているため、実際の脳のような複雑な情報処理はまだ難しいという問題があります。
河野氏は、より脳に近い動作をする「ニューロモルフィックハードウェア」の研究も進められていると述べています。これは、脳の神経細胞の電気生理学的な特性をより忠実に再現しようとする試みです。このような研究が進めば、将来的には脳により近い働きをする人工システムが実現する可能性があります。
第5章 – 自然計算と人工知能
第5章は、慶應義塾大学の青野真士氏が執筆しています。ここでは、「ナチュラル・コンピューティング(自然計算)」と呼ばれる新しい研究分野について紹介されています。
ナチュラル・コンピューティングは、自然現象を計算過程として捉える立場から出発する研究分野です。青野氏によれば、自然界には人間が作り出した記号(デジタルデータ)以外にも情報が存在しており、それらの情報処理過程を理解し活用することで、新たな計算手法や人工知能の可能性が開けるというのです。
青野氏は、ナチュラル・コンピューティングの例として、「アメーバ型コンピュータ」の研究を紹介しています。これは、単細胞生物である粘菌アメーバの情報処理能力に着目した研究です。粘菌アメーバは、複数のエサの位置を最適に結ぶような形に自身の体を変形させる能力を持っています。これは一種の最適化問題を解いていると考えることができます。
研究者たちは、このような粘菌アメーバの能力を模倣したアルゴリズムを開発し、それを様々な最適化問題に応用しています。例えば、「充足可能性問題」と呼ばれる組み合わせ最適化問題を高速に解くアルゴリズムが開発されています。
さらに興味深いのは、このようなアルゴリズムを物理的に実装する試みです。例えば、電子回路を使ってアメーバ型アルゴリズムを実装する研究や、光の量子的性質を利用した実装の研究などが進められています。これらの研究は、従来のシリコンチップとは全く異なる原理で動作する新しいタイプのコンピュータの可能性を示唆しています。
青野氏は、このようなナチュラル・コンピューティングの研究が、未知の化学物質や反応経路の探索にも応用できる可能性があると述べています。例えば、「AmoebaChem」と呼ばれるモデルは、化学反応をアメーバ型アルゴリズムの枠組みで表現することで、未知の化合物や反応経路を効率的に探索することを目指しています。
青野氏は、このようなアプローチが従来の計算化学とは異なる利点を持つと指摘しています。従来の方法では、量子力学の方程式を解くために膨大な計算量が必要でした。一方、AmoebaChem のようなアプローチでは、化学反応の可能性を論理的な空間で探索するため、より少ない計算量で広範囲の可能性を調べることができる可能性があります。
最後に青野氏は、ナチュラル・コンピューティングの研究が「自然知能」という新しい概念につながる可能性を示唆しています。これは、自然界の情報処理能力を活用することで、人間がプログラムできなかった想定外の状況でも適切に対応できるような、真の意味で「知的」な処理を実現する可能性を指しています。
技術解説 – ディープラーニングとは何か
本書の最後には、東京大学の木脇太一氏による「ディープラーニングとは何か?」という技術解説が付されています。ここでは、現在のAIブームの中心的技術であるディープラーニングについて、その基本的な仕組みから最新の研究動向まで、詳細に解説されています。
木脇氏はまず、ディープラーニングの基礎となるニューラルネットワークについて説明しています。ニューラルネットワークは、人間の脳の神経細胞(ニューロン)の働きを模した数理モデルです。入力層、中間層(隠れ層)、出力層という複数の層からなり、各層のニューロンが相互に結合しています。
ディープラーニングは、このニューラルネットワークの中間層を多層化したものです。多層化することで、より複雑なパターンや特徴を学習できるようになります。木脇氏は、ディープラーニングが従来の機械学習手法と比べて優れている点として、以下を挙げています。
- 特徴抽出の自動化:従来は人間が手作業で行っていたデータの特徴抽出を、ネットワーク自体が学習する。
- 階層的な特徴表現:低次の特徴から高次の特徴まで、段階的に学習できる。
- 転移学習の容易さ:ある課題で学習したネットワークを、別の似た課題に転用しやすい。
しかし、ディープラーニングには課題もあります。木脇氏は主な課題として以下を挙げています。
- 大量のデータが必要:十分な性能を得るには、大量の学習データが必要。
- 計算コストが高い:多層のネットワークを学習させるには、高性能なコンピュータが必要。
- 解釈可能性の低さ:ネットワークがなぜそのような出力をしたのか、理由を説明するのが難しい。
これらの課題に対して、様々な研究が進められています。例えば、少ないデータでも効率的に学習できる「少数サンプル学習」や、ネットワークの判断根拠を可視化する「説明可能AI」の研究などが行われています。
木脇氏は最後に、ディープラーニングの今後の展望について述べています。現在のディープラーニングは主に「教師あり学習」(正解が与えられたデータからの学習)が中心ですが、今後は「教師なし学習」(正解のないデータからパターンを見出す学習)や「強化学習」(試行錯誤を通じて最適な行動を学習する方法)との組み合わせがより重要になるだろうと予測しています。また、より少ないデータや計算資源で効率的に学習できる手法の開発や、ネットワークの判断根拠をより解釈しやすくする研究なども進むだろうとしています。
本書の意義と今後のAI研究の展望
本書「人工知能はこうして創られる」は、AIの基礎から最新の研究動向まで、幅広くかつ深く解説した良書です。特に以下の点において、本書の意義は大きいと言えるでしょう。
- 歴史的視点の提供: 本書は、AIの歴史を丁寧に追うことで、現在のAIブームがどのような背景で起こっているのかを明確に示しています。これにより、読者はAI技術の発展を長期的な視点で捉えることができます。
- 多角的なアプローチの紹介: ディープラーニングだけでなく、質問応答システム、脳型コンピュータ、ナチュラル・コンピューティングなど、様々なアプローチからAI研究を紹介しています。これにより、AIにはまだ多様な可能性があることが示唆されています。
- 限界と課題の指摘: 各章の著者たちは、現在のAI技術の限界や課題についても率直に言及しています。これは、AIの可能性を過大評価せず、適切に理解するために重要な視点です。
- 人間とAIの協調の重要性: 本書は、AIが人間に取って代わるのではなく、人間とAIが協調することの重要性を強調しています。これは、AIの発展と社会の調和を考える上で重要な視点です。
今後のAI研究の展望として、本書から以下のようなポイントが読み取れます。
- より柔軟で適応的なAI: 現在のAIは大量のデータを必要とし、想定外の状況への対応が苦手です。今後は、より少ないデータでも学習でき、新しい状況にも適応できるAIの開発が進むでしょう。
- 省エネルギーAI: 脳型コンピュータの研究が示すように、より少ないエネルギーで高度な情報処理を行えるAIの開発が進むと考えられます。
- 説明可能なAI: 現在のディープラーニングは「ブラックボックス」的な面があります。今後は、AIの判断根拠をより明確に説明できる技術の開発が進むでしょう。
- 自然界からのインスピレーション: ナチュラル・コンピューティングの研究が示すように、自然界の情報処理メカニズムからヒントを得た新しいタイプのAIが登場する可能性があります。
- より広範な分野への応用: 医療、金融、環境問題など、社会の様々な課題解決にAIが活用されていくでしょう。
本書は、AIに関心を持つ一般読者から、AI研究者や開発者まで、幅広い読者に有益な情報を提供しています。AIが社会に与える影響が今後ますます大きくなっていく中で、本書はAIを適切に理解し、その可能性と課題を冷静に捉えるための優れたガイドとなるでしょう。
AI技術は日々進化しており、本書で紹介されている内容も、将来的には古くなる部分が出てくるかもしれません。しかし、本書が示す「AIの歴史を踏まえ、多角的な視点でAIの可能性と課題を捉える」という姿勢は、今後もAIを考える上で重要な指針となるはずです。
AI技術の発展は、私たちの社会や生活に大きな変化をもたらす可能性があります。しかし同時に、それは人間の能力を拡張し、より豊かな社会を作り出すチャンスでもあります。本書は、そのようなAIの可能性を適切に理解し、活用していくための貴重な知識と視点を提供してくれます。AI時代を生きる全ての人々にとって、本書は必読の書と言えるでしょう。