本書『ウェブ社会のゆくえ-〈多孔化〉した現実のなかで』は、インターネットやスマートフォンの普及により、私たちの生活がどのように変容しているかを分析し、これからの社会のあり方を考察した一冊です。著者の鈴木謙介氏は社会学者として、テクノロジーが人々の関係性や意識に与える影響を長年研究してきました。本書では特に、デジタル技術が現実空間と融合していく過程に注目し、そこから生じる課題と可能性を丁寧に描き出しています。
「多孔化する現実」という視点
著者が本書で提示する重要な概念が「多孔化する現実」です。これは、現実の物理空間にデジタル情報が流入し、様々な意味が混在する状態を指します。例えば、レストランで食事をしながらスマートフォンで別の人とやりとりをする。そこでは食事という現実の行為と、オンラインのコミュニケーションが同時に行われています。このように、一つの空間に複数の意味や関係性が共存する状況を著者は「多孔化」と呼び、現代社会の特徴として分析しています。
この視点は非常に興味深く、私たちの日常を新たな角度から捉え直すきっかけを与えてくれます。デジタル機器を介した情報のやりとりが、目の前の現実をどのように変容させているのか。著者はこの問いを軸に、様々な事例を紹介しながら考察を深めていきます。
個人と社会の変容
本書の前半では、多孔化する現実が個人の意識や行動にどのような影響を与えるかが論じられています。特に注目されているのが、ソーシャルメディアの利用と自己アイデンティティの関係です。著者によれば、ソーシャルメディア上での自己表現は、現実の人間関係とは異なる「もう一つの自分」を作り出す可能性があります。そこでは、他者からの承認を得るために理想の自分を演出したり、逆に本音をさらけ出したりと、複雑な自己呈示が行われるのです。
こうした分析は、私たちがSNSをどのように利用しているか、あらためて考えさせられる内容です。自分の投稿が他者にどう受け取られるか気にしたり、「いいね」の数に一喜一憂したりする経験は、多くの人に心当たりがあるのではないでしょうか。著者は、このような行動の背景に「孤立不安」があると指摘します。常に誰かとつながっていたい、承認されたいという欲求が、ソーシャルメディアへの依存を生み出しているというのです。
社会の分断と新たな共同性
本書の後半では、視点が個人から社会全体に移り、多孔化する現実が社会にもたらす影響が論じられます。著者が特に注目するのは、情報の個別化がもたらす社会の分断です。かつてはテレビのような一斉同報的なメディアが、共通の話題や価値観を提供していました。しかし現在では、個人の趣味や関心に合わせて情報が選別される傾向が強まっています。その結果、同じ社会に暮らしていても、全く異なる情報環境の中で生きる人々が増えているのです。
このような状況は、社会の統合を難しくする可能性があります。共通の体験や記憶が失われていけば、人々の間に分断が生じやすくなるからです。著者はこの課題に対し、新たな形の共同性を模索する必要性を訴えかけます。そのヒントとして挙げられているのが、「シビック・プライド」の醸成です。これは、地域への愛着や誇りを育むことで、人々のつながりを再構築しようという試みです。著者は、デジタル技術を活用しながら、現実の空間に根ざした共同性を作り出すことの重要性を指摘しています。
記憶の継承と共同体のあり方
本書の結論部分では、社会の記憶をどのように継承していくかという問題が取り上げられています。著者は特に、戦争や災害など、社会に大きな影響を与えた出来事の記憶に注目します。そして、そうした記憶を次世代に伝えていく上での課題を指摘します。
例えば、阪神・淡路大震災から時間が経過し、被災体験のない世代が増えていく中で、震災の記憶をどのように継承していくか。著者は、単に形式的な慰霊行事を行うだけでは不十分だと指摘します。むしろ、若い世代が主体的に参加できるような新しい形の記憶の場を作り出す必要があるというのです。
ここで著者が提案するのが、デジタル技術を活用した新しい形の「儀礼」です。例えば、ARを使って過去の風景を再現したり、スマートフォンを通じて当時の音声を体験させたりする試みが紹介されています。こうした取り組みは、若い世代にも訴求力のある形で記憶を継承する可能性を秘めています。
まとめ: 変化する社会への指針
本書は、デジタル技術と現実空間が融合していく中で、私たちの社会がどのように変容しているかを多角的に分析しています。著者の視点は、技術決定論に陥ることなく、人間の意識や行動、社会の仕組みにも目を向けたバランスの取れたものです。そして、単に現状を分析するだけでなく、これからの社会をどのように作っていくべきかについても、具体的な提案を行っています。
特に印象的なのは、デジタル技術がもたらす変化を単純に肯定したり否定したりするのではなく、その両義性を見据えた上で、よりよい社会を作るための方策を模索する姿勢です。例えば、ソーシャルメディアが個人の孤立不安を助長する側面を指摘しつつも、それを新たな共同性を生み出すきっかけとして活用する可能性も示唆しています。
また、本書の議論は社会学の専門的な知見に基づいていますが、難解な専門用語を多用することなく、平易な言葉で説明されています。随所に挿入される具体例も、議論の理解を助ける効果があります。
一方で、本書の限界として指摘できるのは、議論の対象が主に日本社会に限定されている点です。グローバル化が進む中で、他の国・地域との比較や、国境を越えた影響についての考察があれば、より広い視野からの分析が可能だったかもしれません。
しかし、これは本書の価値を大きく損なうものではありません。むしろ、日本社会に焦点を当てることで、私たちの身近な生活の変化をより具体的に描き出すことに成功しています。
本書は、デジタル技術が浸透する現代社会を理解する上で、重要な視点を提供してくれます。特に、「多孔化する現実」という概念は、私たちの日常を新たな角度から捉え直すための有効な道具となるでしょう。また、社会の分断や記憶の継承といった課題に対する著者の提案は、これからの社会のあり方を考える上で示唆に富んでいます。デジタル技術と人間社会の関係について考えたい人、現代社会の変容を理解したい人にとって、本書は貴重な指針となるでしょう。