Li Wei(ユニバーシティ・カレッジ・ロンドン)とOfelia García(ニューヨーク市立大学大学院センター)による論文 “Not a First Language but One Repertoire: Translanguaging as a Decolonizing Project”(2022年、RELC Journal)は、近年急速に広まった「トランスランゲージング」という概念が、現場でどのように誤解され、また本来どのような意義を持つべきかを、二人の子どもたちの具体的な事例を通じて鋭く問い直した論文です。英語教育の世界でトランスランゲージングという言葉を耳にしたことがある方は多いでしょう。しかし、その言葉の本質をどれほど深く理解しているかとなると、話は少し変わってくるかもしれません。
二人の書き手が持ち寄った問いの重さ
Li Weiはロンドンを拠点とする応用言語学の第一人者であり、多言語使用や超多様性(superdiversity)の研究で世界的に知られています。Ofelia Garcíaはニューヨーク市立大学でバイリンガル教育と言語政策を長年研究してきた研究者で、とくにラテン系移民の子どもたちの言語実践に深く関わってきました。二人はすでに2014年に共著 Translanguaging: Language, Bilingualism and Education を刊行しており、その続きとも言えるのが本論文です。Google Scholarによれば、2022年3月時点でトランスランゲージングに関する研究文献はすでに約23,000件に達しているといいます。概念が広まるほど、その本質が失われていく。そういうことは、どんな分野にもよくある話です。
本論文では、二つの問いが中心に据えられています。ひとつは、トランスランゲージングが「第一言語の活用」と混同されているという問題。もうひとつは、トランスランゲージングが本来、脱植民地化のプロジェクトとして構想されていたという点が十分に理解されていないという問題です。この二点を論じるために、著者たちはロンドンに住む中国系の少年Songとニューヨークのガリフナとスペイン語を使う少女Juliaという、二人の実在する(もしくはそれに近い)子どもたちの物語を丁寧に描き出します。
SongとJuliaの現実―ラベルが見えなくさせるもの
Songはロンドン生まれで、家庭では上海語を使い、親はさらに北京語や広東語も話せます。週末には中国語補習校に通い、書道を学びました。その書道を現代アートに融合させた作品を作る才能ある少年です。ところが学校では、彼の英語は「不適切」と評価され、退屈な英語補習クラスに入れられます。さらに、アート教師が書道の才能に気づいたことで、学校は彼に中国語クラスを勧めます。しかしそのクラスは普通話(標準語)のクラスであり、Songが使っているのは上海語です。「中国語」とひとくくりにされた結果、彼は実際には自分の言語を学べない場所に送られてしまいます。
Juliaはホンジュラスからニューヨークに来た10歳の少女です。祖母とともに過ごした故郷ではガリフナ語と地域のスペイン語を使い、学校の成績は優秀で、詩の暗唱コンクールで全国的な賞を取るほどでした。ガリフナ音楽のプンタも演奏し、自分で歌詞を書く才能も持っていました。しかし、ニューヨークの学校ではESLの教師から「英語が苦手な問題のある黒人の貧困層の生徒」と見なされます。後にスペイン語と英語の「デュアルランゲージ」クラスに転入しますが、そこでも彼女の言語実践は理解されませんでした。ガリフナ語などは存在しないも同然に扱われ、彼女の豊かなスペイン語さえも、ニューヨークで使われるスペイン語とは異なるとして正当に評価されなかったのです。
この二人の物語は、決して珍しいものではありません。日本でも、ブラジルやフィリピン出身の子どもたちが、「母語」とされる言語でさえ標準変種とは異なるために、学校でも家庭でも「どの言語でも不完全」と見なされてしまうケースが報告されています。名前のついた言語(named languages)のカテゴリーに押し込めることで、子どもたちの実際の言語実践の豊かさが見えなくなる。これが、著者たちが指摘する根本的な問題です。
「第一言語を使わせること」ではないトランスランゲージング
Song の英語教師はトランスランゲージングについて研修を受けました。よかれと思い、彼に「中国語(北京語)を使って」と促しました。しかしSongにとってそれは、自分の言語ではない言語を強要されることでした。結果として彼は、英語でも「不完全」、北京語でも「不完全」という二重の劣等感を抱かされることになりました。Juliaの教師もまた、トランスランゲージングを「スペイン語か英語か、どちらかを使えるようにすること」と解釈していました。教室にはガリフナ語、広東語、ミシュテコ語などを使う子どもたちがいたにもかかわらず、です。
著者たちが強調するのは、トランスランゲージングの「trans-」という接頭辞の意味です。これは単に「言語と言語の間を移動する」ことではなく、社会的に構築された「名前のついた言語」そのものを超越することを意味します。英語、北京語、スペイン語といったカテゴリーは、あくまでも国家や制度が作り上げた社会的構築物であり、実際の言語使用者の頭の中には、そうした境界線とは異なる形でフィーチャー(言語的特徴)が統合された「統一されたレパートリー」が存在するというのです。
Otheguy、García、Reidらが2015年に提唱した概念を借りれば、言語学習者の内部にあるのは「真珠を一本の糸に通したもの(pearls in a single string)」のような統一されたレパートリーであり、それはある言語に「属する」フィーチャーと別の言語に「属する」フィーチャーを分けて持つのではなく、全てが一体となったものとして機能しています。Juliaがメキシコ出身のクラスメートから「órale」という表現とその身振りを学んで自分のレパートリーに取り込んでいく様子は、その好例として描かれています。それはスペイン語でも英語でも、あるいはガリフナ語でもなく、Julia自身のものとなった言語的フィーチャーなのです。
人種言語イデオロギーという見えない壁
論文の中核的な概念のひとつが、「raciolinguistic ideologies(人種言語イデオロギー)」です。これはRosaとFloresが提唱した概念で、人種と言語が植民地化のプロセスを通じて互いに構築されてきたという歴史的事実に基づいています。制度的権力を持つ人々は「白い耳を持つ聴衆(white listening subjects)」として、人種化されたバイリンガルの言語使用をどの言語であれ「不適切」「不完全」と聞いてしまうのです。SongもJuliaも、この見えないイデオロギーの壁によって、絶えず「欠損のある学習者」として位置づけられてきました。
Peruviaの社会学者Quijanoが「coloniality(植民地性)」と呼ぶプロセスは、かつての植民地支配が終わった後も、言語、人種、権力の階層構造として現代社会に根強く残っています。学校が採用する「標準語」「アカデミックな言語」という概念も、実態としては白人支配的な言語使用を「正しい」言語の基準として位置づけ、それ以外を「欠如」として扱う機能を果たしています。Santos(2007)がいう「深淵の線(abyssal line)」の比喩は鮮烈です。植民地化によって引かれたその線の向こう側に追いやられた人々の知識体系や言語実践は、存在しないものとして扱われてきた。その線を越えて教育を再構築することが、著者たちの言う「脱植民地化のプロジェクト」なのです。
日本の英語教育現場への問いかけ
この論文を読んで、日本の英語教育との関係を考えずにはいられません。日本の教室にも、多様な背景を持つ子どもたちが増えています。中国語圏出身の子どもが、「中国語」とひとくくりにされてしまう経験はSongとほぼ重なります。ポルトガル語圏出身の子どもが、家庭で使うブラジル・ポルトガル語を「標準的なポルトガル語ではない」として周縁化される経験も、Juliaのそれと無縁ではありません。さらに言えば、日本語を母語とする多くの子どもたちが受ける英語教育の場においても、「英語ネイティブの英語」という一種の「名前のついた言語」の規範が、学習者のさまざまな言語的リソースを見えなくさせていないかを問うことができます。
たとえば、日本語の知識を活かしながら英語を学ぶことを「干渉」や「誤り」として捉えるのではなく、学習者の統一されたレパートリーの豊かさとして捉え直すという視点は、本論文のトランスランゲージング観と直接つながっています。英語の授業で「日本語禁止」というルールを設ける学校は今も少なくありませんが、それがSongの英語教師と同じ誤解に基づいていないかどうか、改めて問い直す必要があるでしょう。
また、著者たちが批判する「additive bilingualism(加算的バイリンガリズム)」という概念は、日本の「英語力を加えよう」という教育言説とよく似た構造を持っています。日本語という「第一言語」のうえに英語という「第二言語」を積み上げる、というイメージは直感的にわかりやすい。しかしそれは、言語を分離した「モノ」として捉え、学習者の内的なレパートリーを無視する発想でもあります。
関連研究との対話―批判的な視点から
本論文の強みは、トランスランゲージング研究の進展を踏まえながら、その現場への誤適用を具体的な事例で示した点にあります。Canagarajah(2011)のコード・メッシング論やPennycook(2017)のセミオティック・アセンブリッジ論など、言語を社会的構築物として相対化する流れの中に本論文は位置づけられ、その実践的帰結を描いています。
一方で、批判的に読むならば、著者たちの議論はやや規範的に傾く面もあります。「統一されたレパートリー」という概念は理論的には説得力がありますが、それを教師が実際にどう見取り、評価し、授業に生かすかという具体的な方法論については、本論文は比較的大まかな方向性を示すにとどまっています。Sánchez、GarcíaおよびSolorza(2017)の「トランスランゲージング・リング」の概念が引用されますが、それが日本のような文脈でどう機能しうるかは、さらなる実証研究が求められます。
また、デュアルランゲージ教育を「言語配分政策」の観点から批判する論点は重要ですが、その制度的制約の中で現実に働く教師が何をどこまでできるかという問いに対して、本論文は「教師が主体性と自律性を持って取り組めば」という前提に依拠しすぎる嫌いがあります。理念の正しさと現場の複雑さの間の距離を、もう少し埋める論述があれば、実践家への説得力はさらに増したでしょう。
脱植民地化という言葉の重みを受け取る
Mignolo(2000)がいう「植民地的権力のマトリックス(colonial matrix of power)」という概念は、日本の文脈ではやや馴染みが薄いかもしれません。しかし、「ネイティブの英語が正しい」「標準語が正しい日本語だ」「学術的な言語でなければ評価しない」といった学校の言語規範が、誰かの言語実践を構造的に排除している可能性があるとすれば、それはMignoloが語る「線の内側」の論理と無縁ではありません。
Santos(2007)が提唱する「知識の生態系(ecology of knowledges)」という考え方は、一つの言語や知識体系を絶対的な基準とせず、多様な言語的・文化的知識が共存し互いに学び合う状態を目指すものです。それはトランスランゲージングの教育実践とも重なり、同時に日本の学校教育が長年抱えてきた「均質性の神話」への問いかけでもあります。
Songの書道とSFへの愛着が一体となった芸術表現、Juliaの詩の暗唱とプンタ音楽と社会運動への目撃者としての経験。これらを「欠損」ではなく「統一されたレパートリーの豊かさ」として受け取ることができる教師であること。それが本論文の描く理想の教師像ですが、そこには「言語そのものへの見方」を根本から変える覚悟が要求されています。それは簡単なことではありません。しかし、簡単ではないからこそ、問い続ける価値があると感じさせる論文でもあります。
評価と展望
本論文が持つ最大の貢献は、トランスランゲージングという概念を「第一言語を使わせること」という浅い理解から引き剥がし、それが本質的には脱植民地化のプロジェクトであるという点を鮮明に打ち出したことです。その議論は、言語教育を単なる技術として捉えるのではなく、権力と知識と人間の尊厳に関わる政治的実践として捉え直す視点を提供しています。SongとJuliaという二人の子どもたちの物語は、数字やデータに還元できない現実の重さを持ち、読者を理論から実践へと引き戻す力があります。
日本の英語教育においても、「多様な言語背景を持つ学習者」への対応は今後ますます重要になるでしょう。その際、本論文が示す視点は、単なる「多文化共生」や「母語活用」の議論を超えた、より深い問いへと私たちを誘います。言語とは何か、学ぶとはどういうことか、そして学校はいかなる知識を「正統」として承認してきたか。そうした根本的な問いに向き合う勇気を、本論文は静かに、しかし確かに求めています。
Wei, L., & García, O. (2022). Not a first language but one repertoire: Translanguaging as a decolonizing project. RELC Journal, 53(2), 313–324. https://doi.org/10.1177/00336882221092841
