「英語はネイティブのように話さなければ」という信念が、多言語話者を静かに傷つけている。Sender DovchinとMin Wangによるこの論文は、そうした信念の根深さを、実際の移民の声を通じて鮮明に描き出しています。
論文の概要と著者について
本論文は、2024年に学術誌Critical Inquiry in Language Studies(第21巻第4号)に掲載された “The resistance to translanguaging, spontaneous translanguagers and native speaker saviorism” です。筆頭著者のSender Dovchinはオーストラリア・カーティン大学教育学部に所属し、移民の言語実践、言語差別、トランスランゲージングを専門とする研究者です。共著者のMin Wangはアメリカ・ホートン大学の応用言語学者です。Dovchinはモンゴル系の研究者であり、本研究の参加者と同じモンゴル語という言語的背景を共有しているという点が、この研究に独自の深みを与えています。
トランスランゲージング(translanguaging)とは、複数の言語資源を流動的かつ創造的に組み合わせて意味を構築するコミュニケーション実践のことです。英語が第二言語(L2)の話者が、母語と英語を自在に行き来しながら意思を伝えるような行為が代表例です。近年の応用言語学では、この実践が言語的少数派の人々に対してアイデンティティ形成や教育的公正をもたらす可能性を持つものとして、非常に肯定的に評価されてきました。ところが著者たちは、そうした楽観的な見方に対して重要な疑問を投げかけます。実際の多言語話者たちは、トランスランゲージングの恩恵を享受するどころか、それを意図的に抑制しようとしていないか、と。
「自発的トランスランゲージャー」とは何か
著者たちが注目するのは、「自発的トランスランゲージャー(spontaneous translanguagers)」と呼ばれる人々です。これは、教室で教師に促されて行うような計画的な翻訳行為ではなく、日常生活の中で無意識のうちに複数言語を使い混ぜる、いわば言語の混合を「息をするように」行う人々を指します。計画されたトランスランゲージングを「教育的トランスランゲージング(pedagogical translanguaging)」と呼ぶのに対し、こちらは意図せず自然に生じる言語実践です。
たとえば、日本で生まれ育って英語を学び、その後海外に移住した人が、友人との会話の中で日本語と英語をごく自然に混ぜて話す、というような場面を思い浮かべてください。本人は「今トランスランゲージングをしている」などとは意識していません。ただ、自分が持つすべての言語資源を使って、最も自然に気持ちを伝えようとしているだけです。本論文で取り上げられるモンゴル系移民の参加者たちも、まさにそのような自発的トランスランゲージャーです。
研究手法―「オープン・エスノグラフィック観察」の強み
研究は2018年から2023年にかけて行われた大規模な質的研究プロジェクトの一部であり、オーストラリアに住む英語L2話者の日常言語実践を対象としています。本論文では特に、西オーストラリア在住の二人のモンゴル人移民、HulanとSaruulの事例が取り上げられています。
方法論として採用された「オープン・エスノグラフィック観察(OEO)」は、研究者が週に数時間、スーパーマーケットや図書館、カフェといった日常空間に参加者と同行し、自然な言語行動を記録するものです。さらに半構造化インタビューも並行して実施されました。注目すべきは、インタビューが「何を語ったか」だけでなく「どのように語ったか」―すなわちトーン、感情表現、パラ言語的特徴も含めて分析された点です。Dovchin自身がモンゴル語を母語とするため、インタビューはモンゴル語で行われ、彼女自身が翻訳・書き起こしを担当しました。これは内部者視点(insider perspective)を持つ質的研究の典型的な強みといえます。
ネイティブ・スピーカー・サバイオリズムとは何か
本論文の中核概念は、Jenks and Lee(2020)が提唱した「ネイティブ・スピーカー・サバイオリズム(native speaker saviorism)」です。これは、白人のネイティブ英語話者こそが英語の正当な所有者であり、彼らのような英語を話すことで「救われる」という長年の思い込みを指します。つまり、有色人種が社会的・経済的に成功するためには、白人ネイティブ話者の英語を習得しなければならないという信念です。
これはHolliday(2006)が提唱した「ネイティブ・スピーカーイズム(native speakerism)」をさらに発展させた概念であり、単なる言語的偏見を超え、人種的優位性の問題と結びついています。ネイティブイズムが「ネイティブ話者の英語が最も優れている」という信念であるとすれば、サバイオリズムはそこに「だから非ネイティブは救ってもらわなければならない」という救済の論理が加わったものです。日本でいえば、「外国語指導助手(ALT)として白人のネイティブ・スピーカーが理想的だ」という暗黙の前提や、英会話学校の広告に白人の笑顔が溢れている現象が、その典型的な表れといえるでしょう。
Hulanの事例―英語教師としての自己否定
一つ目の事例は、Hulanという43歳の女性です。彼女はモンゴルの大学で15年間英語を教えた後、研究者としてオーストラリアに渡り、現地の大学でも非常勤チューターとして英語教育に携わっています。日常生活では、英語とモンゴル語を自在に混ぜながら話す自発的トランスランゲージャーです。「気づかないうちに混ざっている」と彼女自身が語るほど、それは自然な言語実践です。
しかし、英語教師としての仕事の場では話が変わります。彼女は「完璧なネイティブのような英語」を見せなければならないという強迫観念を抱き、モンゴル語を一切使わないという「暗黙のルール」を自らに課していました。学生に発音を直されたとき、英語が通じなかったとき―そのたびに彼女は自尊心を傷つけられていきました。オーストラリアで教え始めてからは、それがさらに悪化します。「私はオーストラリア人には見えない。私の英語はオーストラリア英語じゃない」という言葉が痛々しいほど正直です。
著者たちはHulanの状態を「言語的劣等コンプレックス(linguistic inferiority complex)」と名付けています。これは自分の多言語実践を恥じ、自己評価を低下させていく心理的・感情的ダメージのことです。英語教師でありながら、英語によって自分を傷つけてしまっているという逆説が、深く考えさせられます。
Saruulの事例―子どもに「英語だけ」を求める親
二つ目の事例は、Saruulという38歳の主婦です。彼女はモンゴルで生まれた2人の子どもと共にオーストラリアに移住しました。子どもたちはオーストラリアに来てから英語に触れ始め、すぐにモンゴル語と英語を混ぜて話す自発的トランスランゲージャーになっていきました。最初はそれを「自然なこと」と受け入れていたSaruul。子どもたちも「楽しかった」と振り返っています。
しかしやがて問題が起き始めます。学校でモンゴル語を使う子どもに教師が困惑し、「言語療法士に相談してはどうか」と提案されたのです。さらに、「英語が変だ」という理由でクラスメートからいじめを受け、物理的なトラブルにまで発展した子どもは「スクール・カウンセラー」を薦められます。自分が「オーストラリア人のようになりたい」と強く思い始めた子どもたち。そしてSaruulは、子どもを守るために「常に英語だけを使うよう」指導するようになります。
著者たちはこれを「エスニック・イベージョン(ethnic evasion)」、すなわち自らのルーツや母語を積極的に回避する行動として捉えています。これは自己防衛の戦略である一方で、アイデンティティの喪失でもあります。学校という制度的空間が、知らず知らずのうちにネイティブ・スピーカー・サバイオリズムを再生産していることが、この事例からよく見えてきます。
日本の英語教育現場への示唆
この論文が日本の英語教育関係者に突きつける問いは、決して遠い話ではありません。日本でも「ネイティブのような発音」「ネイティブのような表現」を目指すべきだという信念は根強く残っています。英会話学校のCMで白人講師が「正しい英語」を教えるという構図は何十年も変わっていませんし、ALTの採用においても白人・英語母語話者が暗に優遇される傾向があることは、研究者の間では指摘されてきた事実です。
さらに、日本の学校現場では帰国子女や海外にルーツを持つ子どもたちが、授業中に母語や複数言語を自然に使用することを「問題行動」として扱われたり、評価を下げられたりするケースが依然として存在します。Saruulの子どもたちが経験したことと、実は地続きです。トランスランゲージングが自然な言語発達の一形態であるという認識は、日本の教育現場にはまだ十分に浸透していないと言わざるをえません。
一方でHulanの事例は、非ネイティブ英語教師の自己評価の問題として、日本の英語教師にも深く響くはずです。日本人英語教師が「自分はネイティブじゃないから」と発音や文法に過度な引け目を感じ、英語使用を萎縮させてしまうという現象は、まさに論文が描く「言語的劣等コンプレックス」そのものです。
関連研究との対比と本論文の学術的位置づけ
本論文は、Jaspers(2017)の「トランスランゲージングの変革的限界」という議論と連続しています。Jaspers はトランスランゲージングが解放的な力である一方で、それ自体が支配的な力になり得ると警告しましたが、本論文はその延長線上に、「そもそも当事者がトランスランゲージングを拒絶している」という実態を提示することで、議論をさらに一歩進めています。
また、Charalambous et al.(2016)のキプロスの研究と比較すると興味深い点が浮かびます。キプロスでは、教師がトルコ語話者の生徒に対してトルコ語を使った教育を試みたところ、生徒側から拒否されたという事例が報告されています。「トルコ語を話す=トルコ人である」というアイデンティティの問題が、生徒の沈黙を生んだのです。本論文のモンゴル系移民の事例でも、「英語だけを使う=オーストラリア人になれる」という論理が働いており、背後にある心理的メカニズムは非常に近いといえます。地理的・文化的文脈は異なっても、制度的空間における言語イデオロギーの抑圧という本質は共通しているのです。
Collins(2005)のマヤ語話者に関する研究もまた、より教育を受けた話者ほどコード切り替えを避けようとするという発見を報告しており、本論文の知見と呼応しています。Hulanのような高度な専門教育を受けたELT教師が最も強く「純粋な英語使用」にこだわるという事実は、この傾向の典型例として解釈できます。
方法論上の限界と今後の課題
批判的な観点からいえば、本論文の限界は事例数の少なさにあります。HulanとSaruulという2名の事例から引き出される知見は、深みと具体性において優れている一方で、一般化可能性については慎重であるべきです。著者たちも「大規模な質的研究の一部」として位置づけてはいるものの、論文内で提示された証拠は限定的です。
また、「自発的トランスランゲージャー」という概念の境界線について、さらなる定義の精緻化が必要かもしれません。どこまでが「自発的」でどこからが「意識的」なのかという問いは、トランスランゲージング研究全体における未解決の問題でもあります。それでも、この概念を持ち込むことによって、実践の自然性・無意識性に光を当てた点は、本論文の重要な貢献といえます。
さらに、ネイティブ・スピーカー・サバイオリズムという概念そのものが、Jenks and Lee(2020)に由来する比較的新しいものであり、その批判的・概念的有効性についてはさらなる検証が求められます。本論文はその概念の応用例として機能していますが、概念自体の精緻化には課題が残ります。
論文が伝えるメッセージ
著者たちは最終的に、「トランスランゲージングは変革的可能性を持つが、当事者がそれを拒絶している現実から目を背けてはならない」というメッセージを発しています。これは、トランスランゲージング研究への批判というよりも、その推進者への率直な問いかけです。「私たちはトランスランゲージングを推奨するが、それを受け取る側がどんな現実を生きているかを直視しているか」という問いです。
研究者や教育者がどれほど理念を磨いても、実際の教室や職場でネイティブ・スピーカー信仰が根強く機能しているなら、理念は空中を漂うだけです。Hulanが「完璧な英語教師になれなかった」と苦しみ、Saruulが子どもに「英語だけ話しなさい」と言い続けた背景には、制度と社会が生み出したイデオロギーの重力がありました。
この論文は、その重力に名前をつけ、顔を与えようとする試みです。そしてその名前が「ネイティブ・スピーカー・サバイオリズム」である以上、私たちは日本の教育現場においても、同じ問いを立て直す必要があります。英語教育が誰かを「救う」ためのものだとしたら、その「救う」という発想自体に、すでに誰かを傷つける論理が潜んでいるかもしれないのです。
Dovchin, S., & Wang, M. (2024). The resistance to translanguaging, spontaneous translanguagers and native speaker saviorism. Critical Inquiry in Language Studies, 21(4), 429–446. https://doi.org/10.1080/15427587.2024.2336469
