本稿では、Zhisheng (Edward) Wenらによる論文 “Translanguaging genre pedagogy: implications for teaching business communication in the Greater Bay Area”(2022年)を取り上げ、その内容と意義を詳しく検討する。著者のWenはマカオ工科大学の準教授であり、第二言語習得や認知科学、翻訳・通訳研究を専門とする。共著者のLawrence Jun Zhangはオークランド大学教授で、EFL読み書き教育やプロセス・ジャンル教育学に精通している。さらに、マカオ工科大学の翻訳・通訳プログラムを担う研究者であるHao KongとLili Hanが加わり、理論と実践の両面にわたる厚みのある論考が展開されている。
二つの教育学的潮流が出会うとき
この論文が問いかける核心は、「ジャンル教育学」と「翻訳語用論(トランスランゲージング)教育学」という二つの有力な教育学的アプローチを統合すれば、ビジネス・コミュニケーション教育はどう変わるのか、という点にある。ジャンル教育学とは、特定の社会的・職業的コミュニティが共有する「型」(ジャンル)を教育的に活用しようという考え方だ。一方、トランスランゲージング教育学とは、複数の言語や記号資源を柔軟に駆使する実践を肯定し、それを学習の土台にしようという潮流である。どちらも別々のルーツを持ちながら、実は共通の知的源流―Hallidayのシステム機能言語学―に根ざしているという発見が、この論文の出発点となっている。
ジャンル教育学には三つの主要な研究流派がある。オーストラリア発のシドニー・ジャンル学派、北米を拠点とする新レトリック・ジャンル学派、そしてESP(特定目的の英語)を重視するジャンル学派である。それぞれがHallidayの遺産を引き受けながら、異なる教育文脈で発展してきた。この論文ではこれら三流派の特徴を丁寧に整理した比較表(Table 1)が提示されており、歴史的背景、理論的焦点、研究手法の違いが一目でわかるようになっている。学術論文でこれほど見通しよく整理されているのは、読者にとって非常にありがたい。
トランスランゲージングとは何か
トランスランゲージングという概念は、もともとウェールズのバイリンガル教育プログラムでWilliams(1994)が造語したものであり、その後Baker(2001)が二言語教育研究に導入した。簡単に言えば、「ひとつの授業の中で二言語を計画的・体系的に使い分けること」である。近年ではさらに広がりを見せ、W. Li(2018)はこれを「人間コミュニケーションの実践的理論」と位置づけ、言語的マイノリティの学習者に対してより公正な教室環境を生み出す可能性を持つ教育的アプローチとして論じてきた。
重要なのは、トランスランゲージングが単なる「コードスイッチング」や「二言語混用」とは異なるという点である。コードスイッチングが複数の名づけられた言語の間を行き来することを指すのに対し、トランスランゲージングは話し手・書き手が持つ「統一されたレパートリー」から適切なリソースを選び取ることを意味する。つまり、英語・中国語・広東語・ポルトガル語を別々の「引き出し」に入れて管理するのではなく、それらを含む全体的な言語レパートリーを一体として活用するという発想である。これは日本語で育った英語学習者にとっても、ある種の共鳴を呼ぶ考え方ではないだろうか。
大湾区(GBA)という独特の文脈
この論文が想定する教育現場は、中国の大湾区(グレーター・ベイ・エリア)である。香港、マカオ、広州などの都市を含むこの地域は、英語・ポルトガル語・標準中国語(普通話)・広東語・潮州語・客家語など、多様な言語が日常的に交差する超多様(superdiverse)な空間だ。多国籍企業の進出、中国企業の海外展開、そして2001年のWTO加盟以来拡大し続けるビジネス取引の現場では、複数言語を使いこなす能力が不可欠である。この文脈において、ジャンル教育学とトランスランゲージング教育学の融合は、単なる理論的な試みではなく、きわめて実践的な要請から生まれている。
日本の英語教育に携わる読者には、少し想像してほしい場面がある。グローバル企業に就職した若者が、英語の社内報告書を書く際に、頭の中にある日本語の思考と英語の表現形式の間で苦労している、という場面だ。そこで役立つのは「英語だけで考えろ」という指示ではなく、日本語という母語のリソースを足がかりにしながら英語のジャンル的慣習に習熟していく過程を支援することではないか。この論文の提案するアプローチは、そのような問いへの一つの答えでもある。
六段階の教育フレームワーク
論文の中核をなすのは、「トランスランゲージングに基づく六段階ジャンル教育フレームワーク」である。第一段階はニーズ分析と職業的ジャンル・タスクの選定、第二段階は特定ジャンルの特徴への親しみ(文脈化)、第三段階はメタコミュニケーションと批判的ジャンル分析(CGA)、第四段階は職業的ジャンルの模擬翻訳、第五段階は誘導型ライティング、第六段階は自律的創造的ライティングである。
特に注目すべきは第三段階と第四段階の連携だ。Bhatia(2017)が提唱する「批判的ジャンル分析(CGA)」を取り入れることで、学習者は単にジャンルの型を学ぶだけでなく、その型が担う社会的・文化的機能を批判的に検討する眼を養う。たとえば、香港上場企業の「Chairman’s Statement(会長声明)」には、「業績発表」「財務レビュー」「展望」「結びの謝辞」という四つの必須の「move(移動段)」があるとされる。こうした構造を分析することで、学習者は「なぜこの順番で、なぜこの語彙を使うのか」という問いを持てるようになる。答えを与えるのではなく、問いを育てる教育だ。
模擬翻訳の段階(第四段階)では、学習者が見慣れない語彙や表現に出会ったとき、それが「Translanguaging Spaces(翻訳語用論的空間)」となる。つまり、学習者が持つ多言語・多様記号のリソース全体を動員して意味を構築する場となるわけだ。この発想は、翻訳教育に携わる教員には特に響くものがあるだろう。「正解を教える」翻訳授業から「意味を探る過程を共にする」授業への転換を示唆している。
「interim results」と「中期业绩」のはざまで
論文には、著者たちの実際の授業経験から生まれた具体的な事例が散りばめられており、これが読み物としての説得力を高めている。たとえば、多くの学習者が企業の半期財務報告を「mid-year achievement」と書いてしまうという話が出てくる。これは中国語の「中期业绩」からの直訳であり、文法的には問題ないが、香港証券取引所(HKEX)上場企業のプロフェッショナルな文書では「interim results」という定型表現が使われる。この違いを知らないと、文書は「文法的には正しいが、プロフェッショナルではない」と判断されてしまう。
同様に、「CEO(Chief Executive Officer)」の訳語も香港・マカオでは「行政总裁」、広州など中国本土では「首席执行长官」と異なる。こうした地域的な変異を意識的に教えることが、GBAのような多都市にまたがる職業環境では不可欠だとされる。日本の英語教育でも、たとえば「社長」の英語訳が文脈によって”president”にも”CEO”にも”managing director”にもなり得るという現実と重なる話であり、身近な問題として受け取ることができる。
マルチコンピテンスモデルへの展開
六段階フレームワークを経た後、論文はさらに「動態的ビジネス・コミュニケーションのマルチコンピテンスモデル」を提示する。このモデルは三つのレベルで構成されている。レベル1は多言語・非言語リソースの基礎的プロフィシエンシー(「学習者を知る」段階)、レベル2は対象とするディスコース・コミュニティに関するジャンル知識(「タスクを知る」段階)、レベル3は「翻訳語用論的空間」を生かした実践的な認識・分析・批評・制作・翻訳能力の統合(「学習サイクルを駆動する」段階)だ。
このモデルの強みは、学習の循環性と適応性を明示している点にある。学習者のフィードバックを受けて常に更新されるダイナミックなプロセスとして教育実践を捉えており、一方通行の知識伝達ではなく、教師と学習者が共に作り上げる協働的な営みとして授業を位置づけている。ここに、論文が一貫して強調する「公正のための教育(teaching for justice)」という理念が体現されている。
複雑動態システム理論(CDST; Larsen-Freeman & Cameron, 2008)との接続も試みられており、多言語プロフィシエンシーは初期段階でより重要であり、高次の認知的方略(実行制御など)は翻訳の後期段階で比重を増すという知見も紹介されている。この点は翻訳教育の設計に具体的な示唆を与えるものだ。
関連研究との対話と独自性
本論文はSun & Zhang(2022)やHuang & Zhang(2020)、Rahimi & Zhang(2021)など、プロセス・ジャンル教育学の実証研究と密接に連携している。これらの研究はジャンルに基づくライティング指導の有効性を実証してきたが、本論文はそこにトランスランゲージングの視点を加えることで、単言語主義的な前提を超えた枠組みへの展開を図っている点に独自性がある。
また、本論文がVijay K. BhatiaのCGAフレームワーク(2017)に依拠している点も重要だ。CGAは単なる移動段分析を超えて、プロフェッショナル・コミュニティが言語実践を通じて権力をどう構築するかという批判的視点を持つ。これをトランスランゲージング教育学の「公正」の理念と接合することで、ジャンル教育を「制度への同化」ではなく「批判的参加」のツールとして再定義しようという野心的な試みがなされている。
この点は、日本の英語教育においても示唆深い。たとえば、大学のアカデミック・ライティング指導では、しばしば「英語母語話者のように書くこと」が暗黙の目標とされる。しかし本論文の立場に立てば、日本語という母語のリソースを否定せず、それを活かしながら英語のジャンル的慣習に参入していくことが、より公正かつ効果的な教育方針となる。英語が「外国語」として教えられる日本では、トランスランゲージングの導入には慎重な議論が必要であるが、少なくとも「日本語で考えることは英語学習の妨げになる」という単言語主義的思い込みを再検討する契機を与えてくれる。
課題と今後の展望
本論文には批判的に検討すべき点もある。まず、提示されたフレームワークは理論的・概念的なものであり、実証データに基づく検証はこれからの課題とされている。六段階フレームワークが実際の授業でどの程度機能するか、学習者のアウトプットにどのような変化をもたらすかについては、今後の実証研究が待たれる。
次に、トランスランゲージングの「強い」バージョン(Garcia & Lin, 2016)―すなわち、言語間の境界を完全に否定し、統一されたレパートリーのみが存在するという立場―については、教育的実装に当たって慎重な議論が必要だという批判もある。特に、職業的ジャンルには特定の言語形式的規範が存在し、それを習得することが学習者の実質的な利益につながる場面も多い。本論文はその点を十分意識しており、ジャンル知識の習得を否定するものではないが、「ジャンルの型の習得」と「多言語レパートリーの活用」をどう調整するかについての議論は、さらに深める余地がある。
また、GBAという特定の文脈における超多様言語環境と、日本のような比較的単一言語的な文脈との差異をどう処理するかという問いも残る。しかし、著者たちが論文の最後で述べているように、CDST(複雑動態システム理論)、TBLT(タスク基盤型言語教育)、学習者自律性研究などとの接続可能性を探ることで、このフレームワークは今後さらに精緻化されていくことが期待される。
日本の英語教育現場への示唆
この論文が日本の英語教育に与える示唆は、三つの方向から考えることができる。第一に、ニーズ分析に基づくジャンル選定の重要性だ。大学のビジネス英語や専門英語の授業では、学習者が将来出会うであろうジャンル(メール、報告書、プレゼンテーション等)を体系的に分析し、その構造と慣習を明示的に教えることが求められる。第二に、批判的ジャンル分析の視点を取り入れることで、単なる文書作成能力の養成を超えた「言語と権力」をめぐる批判的思考力の育成が可能になる。第三に、学習者の日本語リソースを否定せず、それを英語ジャンルへのアクセスの足がかりとして活用するという姿勢が、現実的なビジネス・コミュニケーション能力の育成につながる。
もちろん、GBAの超多様な言語環境と日本のEFL環境は大きく異なる。しかし、英語教育がグローバルなビジネス実践と接続することを目指す限り、「英語だけで考える教室」から「多様なリソースを動員する教室」へのパラダイムシフトは、避けて通ることのできない問いとして私たちの前に立ちはだかっている。この論文は、その問いに対する一つの誠実で緻密な応答として、広く読まれる価値がある。
Wen, Z. (E.), Zhang, L. J., Kong, H., & Han, L. (2022). Translanguaging genre pedagogy: Implications for teaching business communication in the Greater Bay Area. Asian-Pacific Journal of Second and Foreign Language Education, 7(1), Article 32. https://doi.org/10.1186/s40862-022-00161-6
