「英語で授業をしているつもりだけれど、学生が理解しているかどうか正直わからない」――こんな悩みを抱えたことのある英語教育関係者は少なくないはずです。中国のSTEM(理工系)分野の大学教員が直面しているこの問いを、学術的に鋭く掘り下げた論文が、Amy Wanyu OuとMichelle Mingyue Guによる “Teacher Professional Identities and Their Impacts on Translanguaging Pedagogies in a STEM EMI Classroom Context in China: A Nexus Analysis”(2024)です。本論文は学術誌 Language and Education の第38巻第1号(42〜64ページ)に掲載されており、オープンアクセスで公開されています。

OuはスウェーデンのChalmers University of Technologyに所属し、理系教育における言語とコミュニケーションを専門とする研究者です。GuはThe Education University of Hong Kongで英語教育を研究しており、EMI(英語による教科指導)とトランスランゲージングの実践に豊富な知見を持ちます。二人が中国東南部の有力大学のSTEM学部という具体的なフィールドで行ったこの研究は、教師の職業的アイデンティティという視点から、EMI教育の実態を丁寧に描き出しています。

トランスランゲージングとは何か

まず「トランスランゲージング」という概念を整理しておきましょう。これは、バイリンガル教育の文脈でGarcíaとLi(2014)が提唱した考え方で、簡単に言えば「複数言語を単一の流動的なレパートリーとして活用する教育実践」のことです。英語だけ、または母語だけ、という二項対立を超えて、学習者がもつあらゆる言語リソースを教室で積極的に使うことを指します。たとえば、英語で授業をしながら、要所では日本語で補足し、さらに図や動画などの視覚資料も組み合わせる――これもトランスランゲージングの一形態です。

Cummins(2019)の定義によれば、トランスランゲージング指導法とは「学習者の言語レパートリー全体を授業に動員し、言語間の生産的な接触を促すこと」です。また、計画的トランスランゲージング(planned translanguaging)と自然発生的トランスランゲージング(spontaneous translanguaging)という区別も重要で、前者は教師が意図的に設計した戦略、後者は授業の流れの中で無意識に生じる言語切替を指します。この論文は、この区別が教師のアイデンティティと深く結びついていることを明らかにします。

ネクサス分析という方法論

研究の方法論として採用されているのが「ネクサス分析(nexus analysis)」です。Scollon and Scollon(2004)が提唱したこのアプローチは、ある社会的行為(ここでは教師のトランスランゲージング実践)を三つの相互作用する言説サイクルの交差点として分析します。

第一は「場の言説(Discourse in Place: DiP)」で、教室や制度において循環している価値観やイデオロギーを指します。第二は「相互作用秩序(Interaction Order: IO)」で、教師と学生が教室で築き上げるコミュニケーションの規範です。第三は「歴史的身体(Historical Body: HB)」で、個人がこれまでの人生経験や学習歴、職業経験を通じて体現してきた信念や価値観を指します。これら三つが交差する「実践のネクサス(nexus of practice)」において、教師の言語行動が生まれると考えるわけです。

この枠組みの魅力は、教室での言語使用を孤立した現象として見るのではなく、制度的・社会的・個人的な文脈の重なりの中で動的に捉える点にあります。カメラのズームレンズのように、マクロとミクロを行き来しながら教育現場を描写する方法と言えるでしょう。

二人の教師が映し出す対照

調査対象となったのは、中国東南部の名門大学に付設されたSTEM学際研究所です。この研究所は数学・物理・化学・生物科学の学部・大学院プログラムをすべて英語で提供しており、学部生・大学院生・博士課程生をそれぞれ年間60名程度受け入れています。教員は約40名で、ほぼ全員が中国系ですが、海外(主に英語圏)で博士号を取得しています。EMI政策としては「英語ベースのバイリンガル教授法」と定められているものの、教室内での言語選択は各教員の裁量に委ねられているという興味深い状況です。

本研究は2021年の春学期に実施され、フォーカルティーチャーとして選ばれたのはYe(男性・物理専攻・教歴6年)とMing(女性・化学専攻・教歴3年)の二人です。どちらも中国語を母語とし、英語を職業上の作業言語とする、助教ポジションのバイリンガル教員です。研究チームは授業観察、半構造化インタビュー、言語政策文書の分析、さらには他の教員や管理職との非公式会話なども収集データとして活用しました。

「国際化」という言説と「研究業績主義」という言説

分析の中で浮かび上がった二つの支配的な「場の言説」が、論文の核心をなします。一つ目は「国際化の言説(discourse of internationalism)」です。研究所の公式ウェブページには、「本研究所はEnglish-based bilingual teaching modeを採用しており、多数の国際交流機会を提供する……2019年度学部卒業生の60%が海外大学院に進学し、Oxford大学・UC Berkeley・Columbia大学・University of Pennsylvaniaなどの名門校に合格した」と記されています。英語教育の成果を「海外有名大学への合格率」で示しているわけで、英語が知識構築の内在的ツールとしてではなく、国際化の象徴的資本として捉えられていることが見て取れます。

二つ目は「研究業績主義の言説(discourse of research meritocracy)」です。教員たちは、大学の人事評価が実際には研究業績(論文数・引用数など)によって決まると認識しています。別の教員Jerryが「建前では教育・研究・管理の三本柱で評価すると言っているが、実際は研究だけだ。首を切りたいときだけ教育を持ち出す」と語った場面は、この言説の実態を端的に表しています。

YeとMingの対照的な実践

Yeの授業では、英語が支配的言語として使われ、中国語はほぼ専門用語の訳語を提示するときだけに限定されています。たとえば「Rayleigh Cri-rium(Rayleigh Criterion)」という概念を説明する場面では、まず中国語訳を提示し(瑞麗判責)、その後は英語のみで解説を続けます。発音に誤りがあり(”criteria”を”cri-rium”と繰り返す)、文法も不完全なものの、ジェスチャーや図解を使うことで内容の伝達は確保されています。しかし、授業は教師中心の一方通行となっており、学生との対話はほとんど生まれません。

Yeは自身の授業言語について「英語のみ」と述べながら、実際には中国語も使っているという矛盾した認識を持っています。これは「トランスランゲージングが正式な指導戦略になりうる」という認識がそもそも欠如していることを示しています。そして彼が教授法の改善に時間を割けない理由として繰り返し挙げるのが「研究が時間をとっている(research has taken up a lot of time)」という言葉です。Yeにとって、EMI授業は自分の英語力を鍛え、学術英語ライティングや国際学会でのプレゼンテーション能力を向上させる場として捉えられており、これは研究業績主義の言説が彼の授業実践にまで入り込んでいることを示しています。

一方、Mingは全く異なるアプローチをとっています。彼女の授業では、英語と中国語が柔軟に交差しながら対話的な知識構築が行われています。論文中のExcerpt 2で示された場面では、「Precision 還是 accuracy?(Precision、それともaccuracy?)」という問いかけから始まり、学生の応答を受けながら、英語と中国語それぞれの日常語・学術語を駆使して概念理解を深めていく様子が示されます。この「流動的・柔軟・分散的」な言語使用(Lin and Lo 2017)は、まさに計画的トランスランゲージングの実践です。

さらにMingは毎回の授業の最後に、ネイティブスピーカーが英語で解説した短い講義動画を再生します。「自分の英語より標準的なので、内容の定着と英語力向上のために使っている」という彼女の言葉は、自分をノンネイティブスピーカーとして自覚しつつも、その不足を補う形で学習リソースを積極的に組み込む教師としての機転を示しています。

Mingが現在の指導法にたどり着いたのは、3年間の試行錯誤を経た末のことです。1年目は英中半々、2年目は部門長の指示で英語のみにしたところ学生の理解度が落ちた。3年目は学生の学習実態に基づいて自分で言語政策を再解釈し、トランスランゲージングを再導入しました。この過程は、Hult(2018)が言う「能動的な言語政策の調停者(agentive language policy arbiter)」としての教師像そのものです。

教師アイデンティティが生む分岐点

この二人の差はどこから来るのでしょうか。本論文が明快に示すのは、研究業績主義という制度的言説への向き合い方の違いが、教師アイデンティティの強さを規定し、それがトランスランゲージングの質を左右するという構造です。

Yeは研究者アイデンティティを優先するあまり、教師としての自己投資に時間を割けていません。授業改善への動機はあるものの、「良い方法が見つからない」という閉塞感の背後に、教育に投資するインセンティブが制度的に担保されていないという現実があります。対してMingは、「教えることと研究することは同等に重要」という価値観を持ち、学生との対話から教師としての達成感を得ています。研究業績主義の言説を認知しながらも、それに飲み込まれない強い教師アイデンティティが彼女を動かしています。

日本の英語教育への示唆

この研究は、日本の英語教育関係者にとっても決して他人事ではありません。日本でも「グローバル人材育成」という名のもとに英語による授業(EMI)の拡充が求められており、スーパーグローバル大学事業などを通じて多くの大学が英語授業を増やしてきました。しかし、英語で教える理系教員への教授法トレーニングは著しく不足しており、「英語で話せれば教えられる」という前提が暗黙のうちに共有されています。

本研究が突きつけるのは、「EMI教員に必要なのは英語力だけではなく、教師としてのアイデンティティと指導法への意識的な投資である」という点です。特に日本では、理系の大学教員が研究業績によって評価される傾向が強く、教育活動は「研究の片手間にやるもの」と見なされがちです。この構造がYeのような自発的でないトランスランゲージングを生み出し、学生の学びを損ねる可能性があることを、本研究は示しています。

また、日本語を母語とする学生が英語で理系の高度な学術内容を学ぶという状況は、本研究の対象と多くの点で重なります。学生の母語をリソースとして積極的に位置づけ、英語一辺倒ではなく複言語的な指導法を設計することの価値を、本研究は改めて示してくれます。さらに、Mingが行っていたような「ネイティブスピーカーによる動画の活用」は、日本の英語授業でも十分に応用可能なアイデアです。

研究の評価と限界

本研究の最大の強みは、教師のアイデンティティ形成と言語実践の関係を、ネクサス分析というマクロ・ミクロ統合的な方法論で鮮やかに描き出した点です。Trent(2017)やBlock and Moncada-Comas(2022)の先行研究が個別の文脈で示していた傾向を、より体系的な分析枠組みで整理し直した貢献は大きいと言えます。とりわけ、教師の言語イデオロギーだけでなく、職業的アイデンティティ構造全体を視野に入れた分析は、EMI研究に新たな視点を付け加えるものです。

一方で、著者自身が認めるように、本研究の限界も明確です。フォーカルティーチャーが二名に限られており、しかも両者が似た社会的背景を持つという点は、知見の一般化に制約を与えます。ネイティブスピーカーや非研究職の教員(論文中で言及されるJerryはその例)を含めた比較研究があれば、制度的言説への反応パターンがさらに多様に描かれたでしょう。また、学生側の視点がほぼ完全に欠落していることも、教室という双方向的な空間を分析する上では惜しまれます。学生がYeとMingの授業をどのように経験し、言語スイッチングをどう受け止めていたかを知ることができれば、より立体的な理解が可能になったはずです。

加えて、Mingが「モデル」として描かれかねないという著者の自戒は適切です。Mingの実践は独力による試行錯誤であり、体系的な訓練に基づくものではありません。計画的トランスランゲージングが個人の資質や動機に依存するだけでは持続可能ではなく、制度的サポートと組み合わせてこそ意味をなすというメッセージは、本研究全体を通じて一貫しています。

何が求められているのか

本論文が最終的に訴えるのは、EMI教育の改善は個々の教師の努力だけに委ねられるべきではないということです。大学が研究と教育を対等に評価するための仕組みを整えること、教員が授業に自分の言語イデオロギーや教授法を批判的に振り返る機会を持てるようにすること、そして学生の複言語的なレパートリーを問題視するのではなく積極的なリソースとして位置づける制度的文化を育てること――これらは、中国のみならず日本を含む多くのEMI実施国に共通する課題です。

教師が「研究者である前に授業に立つ人間」としての自己を大切にできる環境がなければ、どんなに洗練されたトランスランゲージング理論も教室には届きません。本研究はその構造的な問題を、YeとMingという二人の等身大の教師像を通じて、説得力をもって伝えています。理論と現場の間に橋をかけようとする誠実な姿勢が、この論文の読後感を温かくも重くするのです。


Ou, A. W., & Gu, M. M. (2024). Teacher professional identities and their impacts on translanguaging pedagogies in a STEM EMI classroom context in China: A nexus analysis. Language and Education, 38(1), 42–64. https://doi.org/10.1080/09500782.2023.2244915

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By 吉成 雄一郎

株式会社リンガポルタ代表取締役社長。東京電機大学教授、東海大学教授を経て現職。コロンビア大学大学院ティーチャーズカレッジ(英語教授法)、信州大学大学院工学研究科(情報工学)修了。専門は英語教授法、英語教育システム開発。 さまざまな英語学習書、英検、TOEIC 対策書、マルチメディア教材等を手がけてきた。英語eラーニングや英語関係の教材・コンテンツの研究開発も行う。全国の大学、短期大学、高専等で使われているeラーニングシステム「リンガポルタ」も開発した。最近ではAIによる新しい教育システムの開発にも着手している。

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