かつて英語の授業では、学習者が単語帳をぱらぱらとめくりながら語彙を暗記する光景が当たり前でした。ところが今、多くの学習者はスマートフォンを片手に、アプリで単語を学んでいます。この変化は、教育の現場でどれほど真剣に研究されてきたのでしょうか。Kübra Okumuş Dağdeler氏が2023年に発表したこの論文は、まさにその問いに答えようとした一作です。
Okumuş Dağdeler氏はトルコのSivas Cumhuriyet大学の英語教育学部に所属する研究者です。モバイル支援語彙学習(Mobile-Assisted Vocabulary Learning、以下MAVL)という、比較的新しく、かつ急速に拡大している研究領域に焦点を当て、書誌計量分析と主題分析という二段構えの手法で文献の全体像を整理しました。論文はSmart Learning Environments誌に掲載され、オープンアクセスで公開されています。
なぜ今、語彙とモバイルなのか
英語教育の文脈において、語彙習得の重要性は言うまでもありません。言語学者のWilkinsが1972年に述べたように、「文法がなければほとんど何も伝えられないが、語彙がなければまったく何も伝えられない」という言葉は、今も語彙学習の根拠として広く引用されています。本論文でもこの引用が用いられており、語彙習得を研究の中心に置く理由として機能しています。
一方で、モバイル機器の普及は目覚ましいものがあります。Burston(2021)によれば、モバイル支援言語学習(MALL)に関する研究はすでに3000件に達するとされています。しかし、これだけ研究が蓄積されているにもかかわらず、MAVLに特化した書誌計量的な分析は、著者の知る限りこれまで存在しませんでした。この空白を埋めることが、本研究の主たる動機のひとつです。
研究の構造―二段階の分析手法
本研究は二つの分問を設定しています。第一に、Web of Science(WoS)データベースを用いた書誌計量分析により、MAVLの研究領域全体の地図を描くこと。第二に、厳選した19本の実証的論文を対象に、技術的・教育的焦点と対象者の特性を主題分析によって明らかにすること。
書誌計量分析には、社会ネットワーク分析ツールであるVOSviewerが使用されました。「Mobile AND language AND learn* AND vocabulary or Word or lexeme or lexicology」というクエリでWoSを検索した結果、687本の文献が収集されました。これらをすべて計量分析の対象とし、キーワードの共起分析、国別の生産性、著者の影響力などを可視化しています。
主題分析の対象となった19本は、さらに厳格な条件のもとで選ばれています。英語で書かれた論文であること、Social Science Citation Indexに索引されている上位5誌に掲載されていること、外国語・第二言語学習に焦点を当てていること、MALLのみを扱っていること、語彙学習を直接の主題としていること、そして実証的研究であること―という基準を順に適用した結果、687本から74本に絞られ、さらに19本が残りました。
浮かび上がるキーワードの変遷
書誌計量分析で明らかになったことのひとつは、研究で使用されるキーワードが時代とともに変化してきたという事実です。2016年ごろは「foreign language learning」「vocabulary learning」「mobile assisted language learning」といった語が主流でしたが、2017〜2018年にかけては「augmented reality(拡張現実)」「game-based learning」「mobile application」などが台頭し、最近では「gamification(ゲーミフィケーション)」「machine learning」「mobile apps」が注目を集めています。
これは単なる流行の変化ではありません。技術そのものの発展が、研究の問いを変えているのです。以前は「SMS(ショートメッセージ)で語彙を送れば学習者は覚えられるか」という問いが研究の中心でしたが、今は「ゲームの仕組みを組み込むと動機づけが上がるか」「拡張現実を使うと単語が定着するか」という問いへと移行しています。研究者が技術の変化に敏感に反応していることがわかります。
どの国が研究をリードしているか
最も論文数が多い国はアメリカ(104本)、次いで中国(92本)、台湾(72本)、トルコ(34本)、日本とマレーシア(31本)という順でした。これは著者自身が指摘するように、スマートフォンの普及率や研究資源の豊富さ、国際共同研究の活発さといった要因と関係しています。
ここで気になるのは、日本の順位です。31本という数字は決して少なくはありませんが、世界でも有数のスマートフォン普及国であることを考えると、研究の蓄積が十分とは言えないかもしれません。日本の英語教育現場ではスマートフォンの活用がまだ議論の段階にある学校も多く、実践と研究の間にギャップが生じている可能性があります。
影響力のある著者と論文
共引用分析によると、最も引用された著者はAgnes Kukulska-Hulme(226回)、Chih-Ming Chen(124回)、Patricia Thornton(116回)、Glenn Stockwell(106回)、Robert Goodwin Jones(100回)という顔ぶれです。Kukulska-Hulmeはモバイル学習の概念化に大きく貢献した研究者であり、「いつでもどこでも」という学習の定義を提示したことで知られています。また語彙研究の文脈では、Batia LauferやPaul Nation、Norbert Schmittといった名前が赤いクラスターに位置しており、語彙研究とモバイル研究が融合している領域も可視化されています。
最も引用された論文はThorntonとHouser(2005)の「Using mobile phones in English education in Japan」で、76回の引用を誇ります。この論文が日本を舞台にしている点は注目に値します。日本の学習者を対象にした研究が、MAVLの黎明期において世界的に影響力を持っていたという事実は、日本の研究者にとって誇りとともに、今後の研究への責任感も感じさせます。
実証研究の技術的・教育的焦点
選定された19本の実証研究の分析では、技術的焦点として最も多く採用されていたのがゲーミフィケーションでした。Duolingo、Pokemon Go、研究者が独自に開発したシステムなど、さまざまなアプリが検討されています。特徴的なのは、9本の論文で研究者自身がシステムを開発していたという点です。市販のアプリをそのまま使うのではなく、特定の教育的仮説を検証するためにアプリ自体を設計するというアプローチは、研究の精緻さを高める一方で、現場での再現性という点では課題を残します。
Pang and Aziz(2021)の先行レビューでは、研究者たちが主に既存の商業アプリを使用していたとされていましたが、本研究では逆の傾向が見られました。著者はこの違いをデータベースの違い(WoSのみを対象にしたこと)に帰因しており、WoSに収録される論文は方法論的により厳格であることが多いという仮説は、妥当な解釈でしょう。
教育的焦点としては、ほぼすべての論文が語彙の習得成果(achievement)を測定しており、次いで学習者の態度・認識・満足度が研究対象となっていました。これは、客観的に測定しやすい成果指標が研究者に選ばれやすいという傾向を反映しています。モチベーションや自己効力感なども一部の研究で取り上げられていましたが、主流ではありませんでした。
研究対象者の偏りと示唆
サンプリングの面では、大学生が最も多く(11本)、次いで小学生(6本)という構成でした。中学生・高校生を対象にした研究は非常に少なく、これは重要な研究の空白として認識されるべきでしょう。日本では中学・高校での英語教育が学習の重要な節目にあたります。義務教育段階の学習者に対するMAVLの効果が十分に研究されていないとすれば、それは現場への応用においても大きな障壁となります。
なぜ大学生に研究が集中するのかという問いに対し、著者は三つの理由を挙げています。まず、モバイル学習には高い自律性が求められ、年少の学習者には教師のサポートがより必要であること。次に、研究者自身が大学に所属していることが多く、身近な対象を研究しやすいこと。そして、K12(幼稚園から高校まで)の学校ではスマートフォンの持込みが禁止されている場合があること。この最後の点は、日本では特に顕著です。
日本の英語教育現場への示唆
本論文が日本の英語教育関係者に提示する示唆は複数あります。まず、ゲーミフィケーションを組み込んだ語彙学習の有効性が複数の実証研究で支持されているという事実は、授業設計に活かすことができます。たとえば、Duolingoのような既存のアプリを課外活動として推奨したり、授業内でミニゲーム的な語彙練習を取り入れたりすることは、今すぐ実践できる応用例です。
また、拡張現実(AR)技術の活用も興味深い可能性を示しています。Pokemon Goを使ったWu(2021)の研究では、学習者が英語表現に触れる文脈がゲームの世界観と結びつき、記憶定着に寄与したとされています。日本でも一時期社会現象になったこのゲームが、語彙学習のツールとして学術的に検討されているというのは、現場教師の視点からも興味深い事実です。
さらに、スマートフォン使用禁止という学校ポリシーの問題は、日本でも避けて通れません。モバイル学習の研究が進む一方で、学校の環境整備が追いついていないという現実があります。研究の知見を現場に接続するためには、政策レベルでの議論も必要になってきます。
研究の限界と今後の課題
著者自身も認めているように、この研究にはいくつかの限界があります。書誌計量分析がWoSのみに限定されているため、他のデータベースに収録されている研究が対象外となっています。また、主題分析の対象が19本という少数にとどまっていること、さらに選定基準や主題カテゴリーが研究者個人の判断に依拠していることも、客観性の観点から留意が必要です。
書誌計量分析と主題分析を組み合わせた手法は、全体像の把握と詳細な質的考察の両立を意図したものとして評価できます。ただし、両分析の対象が異なる(前者は687本、後者は19本)ため、結果の接続が必ずしも有機的に機能しているとは言い切れません。読者としては、二つの分析がそれぞれ独立した章として読まれる印象を受けるかもしれません。この点は、今後の類似研究において改善が期待される部分です。
先行研究との対比
Feng and Chen(2022)によるモバイル支援第二言語学習の書誌計量分析では、語彙、個別化学習、学習環境、学習者の態度が主要な研究領域として挙げられていました。本論文の分析結果と大きく矛盾するものではありませんが、本研究が語彙に特化した点で独自の貢献を持っています。また、Khodabandelou et al.(2022)の一般的な英語モバイル学習の分析とも比較可能であり、語彙という焦点を加えることで引用される著者・論文の顔ぶれが変わることが示されています。これは、研究の焦点が分析結果に大きく影響するという方法論的示唆として受け取ることができます。
Lin and Lin(2019)のメタ分析では、MAVLが語彙学習に大きな効果をもたらすという結果が示されており、本論文の研究的な前提を支えています。本論文はその「なぜ効果があるのか」「どのような技術的・教育的特徴がその効果に寄与しているのか」という問いに、レビューという形で迫ろうとしたと言えるでしょう。
まとめにかえて―研究と実践の橋渡しとして
本論文の価値は、膨大な研究群を整理して可視化し、今後の研究が向かうべき方向性を示した点にあります。語彙とモバイル技術という二つの軸を持つMAVLという領域は、まだ多くの未開拓の問いを抱えています。中学・高校生を対象とした研究の不足、アジア圏以外での実証研究の少なさ、長期的な語彙保持に関するデータの欠如――こうした空白は、研究者にとって取り組むべき課題を意味します。
そして、日本の英語教育関係者にとっては、研究の知見を教室に持ち込む際の「何を使うか」「どう使うか」「誰を対象にするか」という三つの問いへの手がかりが、この論文には詰まっています。スマートフォンはすでに生徒の手の中にあります。それを単なる娯楽の道具として扱うか、語彙学習の有力なパートナーとして活用するかは、教師の判断と設計力にかかっています。この論文はその判断を支える、確かな一歩となるはずです。
Okumuş Dağdeler, K. (2023). A systematic review of Mobile-Assisted Vocabulary Learning research. Smart Learning Environments, 10, Article 19. https://doi.org/10.1186/s40561-023-00235-z
