CLILという教育アプローチをご存じでしょうか。「内容言語統合型学習(Content and Language Integrated Learning)」と訳されるこの方法は、英語などの外国語を「教科の内容」を教えるための媒体として使うことで、言語と教科内容を同時に学ばせるという発想に基づいています。1990年代初頭にヨーロッパで生まれ、今では日本を含むアジア、南米、アフリカにまで広がっています。文部科学省が推進する英語によるアクティブラーニングや、内容重視の英語教育の文脈でも、CLILへの関心は日本国内でも確実に高まっています。

しかしこの論文は、そのCLILに根本的な問いを投げかけます。Simon Fraser大学のBong-gi Sohn、Pedro dos Santos、そしてAngle M. Y. LinがRELC Journalの2022年号に発表した “Translanguaging and Trans-Semiotizing for Critical Integration of Content and Language in Plurilingual Educational Settings” は、CLILが掲げる「統合」というスローガンの実態を批判的に検証し、トランスランゲージング(translanguaging)という視座からその刷新を提案する意欲的な論考です。

CLILの「統合」は本当に統合なのか

論文が最初に切り込むのは、CLILの名称に潜む矛盾です。「内容と言語の統合型学習」という名前自体が、内容と言語を別々のものとして想定しているのではないか、というのです。確かに言われてみればそうです。「英語と数学を統合する」と言うとき、そこにはすでに「英語」と「数学」が別々に存在しているという前提があります。

筆者たちは、Nikula et al.(2016)の言葉を引用しながら、「内容と言語の統合」というフレーズそのものが、両者を別個のものとして扱う思考を温存させると指摘します。現場でも、内容教科の教師と語学教師が別々に動くことがほとんどで、いわゆる「教科間の断絶(intercurricular disconnect)」(Lin, 2016)は容易には解消されていません。

さらに問題なのは、その「統合」の対象となる言語がほぼ英語一択であるという現実です。CLILはもともとヨーロッパの多言語主義の文脈で生まれ、母語以外の「ある言語」を媒体とする教育として設計されました。しかし実際には、英語が圧倒的に優遇され、CLILは事実上「内容と英語の統合型学習(CEIL)」になっているというのが著者たちの批判です。Dalton-Puffer(2011)が指摘した「英語の圧倒的な優位性」は、多様な言語背景を持つ学習者の母語や地域言語を排除することにつながっています。

エリート教育としてのCLILという問題

この英語偏重は、単なる言語政策の偏りにとどまりません。それは社会的格差の再生産という深刻な問題にもつながっています。スペインの例では、英語と스페イン語を媒体とするCLILプログラムが主に私立のエリート校に集中しており、移民の子どもたちはほとんど参加できていない(Martín Rojo, 2013)。カザフスタンでは、CLILはもともと国家が選定した「優秀な子どものための学校」から始まった(Karabassova, 2018)。台湾の大学では、CLILプログラムの高い学業成果が英語の高い入学前能力と強く結びついており、「英語エリートのためのプログラム」という認識が社会的に広まっている(Yang, 2015)。

日本でも同様の傾向は見えます。英語イマージョン教育や英語教科統合学習を本格導入しているのは、多くの場合、私立の進学校や国際バカロレア認定校です。公立学校に通う多様な背景の子どもたちにとって、CLILは「どこか遠い話」になりがちです。この論文が日本の英語教育関係者にとって重要なのは、まさにこの点です。英語教育の「質の向上」を目指す改革が、同時に社会的排除の仕組みを強化していないかという問いは、日本の文脈でも真剣に受け止められるべきです。

トランスランゲージングとは何か

では、その問いに対する著者たちの処方箋は何か。それが「トランスランゲージング(translanguaging)」です。

トランスランゲージングは、コード・スイッチングとよく混同されます。コード・スイッチングが「英語モードから日本語モードに切り替える」という比較的機械的な現象を指すのに対し、トランスランゲージングは「バイリンガルが持つすべての言語的・記号論的リソースをひとつの統合されたレパートリーとして使いこなすこと」を指します(García, 2009a)。つまり、英語と日本語を「別の言語」としてではなく、その人が持つ意味生成のための道具全体として扱う、という発想です。

Lin(2015)が「トランス記号論化(trans-semiotizing)」と呼ぶ概念もここで重要です。これはMichael Hallidayのトランス記号論的視座に基づくもので、言語だけでなく、身振り、視覚情報、身体動作、音、物質的な道具など、あらゆる記号論的リソースが意味生成のプロセスに絡み合うという考え方です。授業中の教師の手ぶり、黒板の図、学習者の母語による独り言―これらすべてが、分断されたシステムとしてではなく、意味の流れの中で有機的に結びついているというわけです。

「意味の流れ」という視点

さらに著者たちは、Lemke and Lin(2022)が提唱する「トランスランゲージングとフロー(translanguaging and flows)」という視座を紹介します。これは、教室でのコミュニケーションを瞬間瞬間のやりとりとしてではなく、複数の時間スケールにわたる流れとして捉えるものです。学習者が持つ過去の経験、家族との会話、地域コミュニティの記憶―こうしたものがすべて、今この瞬間の教室での意味生成に影響を与えていると考えます。

このフロー概念は、Paul Thibaultの「言語の分散的視点」に依拠しています。人間の意味生成は、個々の話者の頭の中に閉じた孤立した言語システムとして機能するのではなく、話者同士、身体、物的環境の中に分散したリソースを通じて成立するのだという考え方です。これは「英語ができるかどうか」だけで学習者を評価する発想を根本的に問い直すものです。

MECという実践ツール

理論だけでは変わらないのが教育現場です。著者たちが紹介するのが、Lin(2015)が開発した「マルチモダリティ・テクスト化サイクル(Multimodalities-Entextualisation Cycle、以下MEC)」というカリキュラムジャンルです。

MECは三つの段階から成ります。第一段階では、動画、図、実験、体験活動などのマルチモーダルなリソースを使って豊かな経験的文脈を作り出します。第二段階では、L1やL2を組み合わせた読解やノート取りを通じて意味を整理します。そして第三段階では、学習した内容を目標言語の学術的ジャンルで産出するよう求めます。この三段階は繰り返し循環するもので、「英語で書けるようになるための階段」を、多様な言語・記号リソースを活用しながら一歩一歩登っていくイメージです。

著者たちが紹介するWu and Lin(2019)の研究は、香港の中学10年生の生物の授業でMECを活用した事例です。植物の蒸散のしくみという、視覚で確認できない抽象的な現象を、広東語の語彙、図、身体動作、英語の科学用語を絡み合わせながら学ぶ授業が記録されています。生徒の一人は「蒸散について英語で書くとき、頭の中に先生の身振りや図が浮かんで、それをなぞればうまく書ける」と述べています。言語を超えた、身体と記号の絡まり合いが学びを支えているという証拠です。

もう一つの事例はHe and Lin(2021)によるもので、パキスタン系・インド系の14人の女子生徒を持つ中学9年の英語媒体授業です。ウルドゥー語、広東語、英語が入り混じりながら、口語と学術的文体が交差し、黒板の絵や映像、実物教材が使われる中で、循環器系のしくみが学ばれていきます。ここでも、MECが「英語オンリー」という公的方針を暗黙のうちに揺さぶり、学習者の多様なリソースが堂々と教室空間に持ち込まれていました。

日本の英語教育現場への示唆

この論文が日本の英語教育関係者に問いかけるものは、非常に具体的です。

日本の学校では、英語授業の「英語使用率」を高めることが政策的に推進されています。ALT(外国語指導助手)との協働授業、英語によるアクティブラーニング、そして各地で試みられているCLIL型授業。こうした取り組みは確かに重要です。しかし、そこで「日本語は使ってはいけない」「生徒の母語は学習の妨げ」という暗黙の前提が働いていないでしょうか。

トランスランゲージングの視点は、日本語も英語も、そして生徒一人ひとりが持つ言語的・文化的背景も、学びのリソースとして積極的に活用すべきだと主張します。外国籍の生徒が増える日本の教室では、中国語、フィリピノ語、ベトナム語、ポルトガル語など多様な言語が持ち込まれています。それらを「排除すべきノイズ」ではなく「活用すべきリソース」として扱う発想の転換が求められています。

また、「英語ができないのは能力不足」という評価観を見直すことも示唆されます。MECの考え方に基づけば、多様なモードと言語を使って意味を生成し、それを段階的に目標言語での産出へとつなげるプロセスそのものが、豊かな学びの証拠です。英語のテストの点数だけで学習者を一元的に評価する発想とは根本的に異なります。

批判的視点と残された課題

もちろん、この論文に課題がないわけではありません。著者たち自身も認めているように、Kubota(2020)はトランスランゲージングの理論的理想と社会的現実との乖離を指摘しています。多言語的な実践がいかに豊かでも、現実の社会は依然として「英語ができることが有利」という一言語優位の構造で動いています。トランスランゲージングが社会変革につながるためには、植民地主義、帝国主義、資本主義、言語イデオロギーといった深層の問題と向き合う必要があるとKubotaは言います。

また、この論文が主として紹介するのは香港の事例であり、日本の文脈への直接的な適用には慎重を要します。香港の英語媒体教育は、植民地支配の歴史と深く結びついており、そこでのトランスランゲージング実践の意味合いは、日本のそれとは異なる次元を持ちます。日本の文脈に即した実証研究の蓄積が今後ますます必要です。

さらに、MECはあくまでもひとつのカリキュラムジャンルであって、万能な処方箋ではありません。教師のトレーニング、カリキュラム設計への支援、時間・予算・人材の確保といった制度的課題は、理論的な提案だけでは解決しません。著者たちもこの点を認めており、実践の普及には組織的・制度的なサポートが不可欠だと述べています。

言語教育における「統合」を問い直す

この論文の最大の貢献は、「統合」という言葉の意味を根本から問い直したことにあります。内容と言語を「くっつける」ことが統合なのか、それとも両者が本来分かちがたいものであることを認め、多様な言語・記号リソースを通じて意味が動的に生成される場を作ることが統合なのか。後者の意味での統合こそが、真の多言語教育の姿ではないかと著者たちは主張します。

CLILをめぐる議論は、英語教育の枠を超えた問いを私たちに突きつけています。誰のための英語教育か。何のための統合か。誰が恩恵を受け、誰が排除されているか。日本の英語教育が「グローバル化への対応」という旗印のもとで推進される中、こうした問いに立ち止まることは決して無駄ではありません。むしろ、教室の現場で日々奮闘する教師にとって、理論と実践をつなぐ確かな足場になり得るのではないでしょうか。

Sohn、dos Santos、そしてLinによるこの論文は、CLILの実践者や研究者だけでなく、多様な背景を持つ学習者と向き合うすべての英語教育関係者にとって、読む価値のある一本です。「英語を教える」という行為の背後にある権力関係と、それを問い直す勇気を、この論文は静かに、しかし力強く促しています。


Sohn, B., dos Santos, P., & Lin, A. M. Y. (2022). Translanguaging and trans-semiotizing for critical integration of content and language in plurilingual educational settings. RELC Journal, 53(2), 355–370. https://doi.org/10.1177/00336882221114480

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By 吉成 雄一郎

株式会社リンガポルタ代表取締役社長。東京電機大学教授、東海大学教授を経て現職。コロンビア大学大学院ティーチャーズカレッジ(英語教授法)、信州大学大学院工学研究科(情報工学)修了。専門は英語教授法、英語教育システム開発。 さまざまな英語学習書、英検、TOEIC 対策書、マルチメディア教材等を手がけてきた。英語eラーニングや英語関係の教材・コンテンツの研究開発も行う。全国の大学、短期大学、高専等で使われているeラーニングシステム「リンガポルタ」も開発した。最近ではAIによる新しい教育システムの開発にも着手している。

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