言語の教室で「母語を使ってはいけない」と言われた経験は、日本で英語を学んできた多くの人にとって決して他人事ではないでしょう。中学・高校・大学の英語授業で「日本語禁止」を宣言された先生がいた、あるいは自分自身がそう思い込んでいた、という話はよく耳にします。この「英語のみ使用」という規範は、実は世界中の英語教育現場で根強く生き続けています。今回紹介する論文は、その規範がどれほど深く学習者の意識に刻み込まれ、教室での学びを阻害しているかを、オーストラリアの大学という具体的な場で丁寧に描き出した研究です。
研究者たちとその問題意識
この研究を行ったのは、オーストラリア・パースにあるカーティン大学教育学部の5名の研究者―Toni Dobinson、Stephanie Dryden、Sender Dovchin、Qian Gong、Paul Mercieca―です。チームの構成がまず興味深く、英国系オーストラリア人、モンゴル系オーストラリア人、中国系オーストラリア人、そしてローカルのオーストラリア人と多様な背景を持つ研究者が集まっています。彼らのうち二名は、かつて自分自身が留学生として英語で学位を取得した経験を持ちます。その「当事者に近い視点」が、この研究に温かみと深みを与えています。
彼らが注目したのは「トランスランゲージング(translanguaging)」と呼ばれる概念です。これは、複数の言語を持つ人が、それらを截然と分けて使うのではなく、意味づくりのために流動的・統合的に活用する実践を指します。英語の授業中に日本語で友達にこっそり確認する、英語と母語を混ぜながら頭の中で考えを整理する―そういった行為は、従来「邪道」とされてきましたが、近年の言語学ではむしろ自然で有益な学習方略として評価されています。
問題は、そのような実践を「してもいい」と教師が認めたとしても、学習者がすぐにそれを受け入れられるわけではない、という点にあります。この論文はまさにその「ギャップ」に焦点を当てています。
どんな調査だったのか
研究は言語的エスノグラフィー(Linguistic Ethnography)という手法を用いています。教室の中に研究者が入り込み、学生たちの言語行動を14週間にわたって観察・録音し、授業後のインタビューと照らし合わせながら分析するというものです。対象となったのは、カーティン大学のビジネス学部1年次生である中国人男子留学生8名で、彼らはいずれも英語と北京語を話します。授業は教育学部の選択科目で、アジア研究を扱うものでした。
担当講師は応用言語学の専門家で、トランスランゲージングを積極的に推奨する姿勢を持っています。授業中に「中国語で話してもいいよ」と明言しているにもかかわらず、学生たちはほとんど中国語を使おうとしない。この矛盾こそが、研究の出発点でした。
分析には批判的教室談話分析(Critical Classroom Discourse Analysis; CCDA)が用いられており、教室内での発話・沈黙・身振りなど言語的・非言語的な相互行為が丁寧に記録・解釈されています。
Extract 1と2が示すもの―沈黙という雄弁な抵抗
論文が示す最初の事例(Extract 1)では、講師が「人種差別主義とは何か、グループで議論してください」と指示した場面が記録されています。学生の一人はため息をついて、グループは10秒間沈黙します。やがて学生Bが「人々を見下すこと」という簡単な答えを出し、学生Aが「中国みたいに」と付け加え、さらに詳しい定義を読み上げますが、その後なんと153秒間の沈黙が続きます。講師が「なぜ話していないの?」と近づくと、「もう終わりました」と学生Bが答えます。
これを読んで、思わず苦笑してしまった日本人教員の方もいるのではないでしょうか。「もう終わった」という返答で沈黙を正当化する―これは日本の教室でも見られる光景です。しかし注目すべきは、講師がそこで「中国語で話し合ってもいいよ、そのあと英語でまとめてくれれば」と提案したにもかかわらず、学生たちがそれにも応じなかった点です。
続くExtract 2では、より難しい概念「人種言語イデオロギー(raciolinguistic ideologies)」についての議論が求められます。学生Aは何を聞かれているのかを確認しようと、北京語で「彼女が話し合うよう言ったのはこれ? これのこと?」と繰り返しますが、グループメンバーからは曖昧な「うん」しか返ってきません。やがて彼は「わからない。本当にこの表現の意味がわからない」と北京語でつぶやき、重いため息をついて黙り込みます。グループは85秒、そして153秒と沈黙に沈んでいきます。
この沈黙は単なる「わからない」ではありません。言語的孤立、内容理解の困難、そして「英語でなければならない」という内面化された規範が絡み合った、複合的な苦しみの表れです。
「英語でなければ」という内なる声
インタビューで学生Aが語った言葉は非常に印象的です。なぜ中国語を使わなかったのか、と問われた彼はこう答えます。「英語を話さないといけないから」。さらに「それはルールなの?」と問い返されると、「ルールじゃない。自分自身への要求です。英語を使える唯一のチャンスだから」と答えました。
この発言は深く考えさせられます。彼は、英語でうまく話せれば自信を持って他者と交流できると信じています。しかし同時に、自分の英語は「十分ではない」と感じており、その不安が沈黙を生んでいます。北京語で話せば気楽にたくさん話せると認めながらも、教室ではそれをしない。なぜなら、ELB(英語言語ブリッジング)コースでそれを禁じられてきたからです。「中国語は話せない、という意識を植えつけられた」と彼は述べています。
このメカニズムは非常に重要です。教師による許可があっても、それより前に内面化された禁止の経験が、学習者の行動を制約し続けるのです。
対照的なExtract 4―空間的リソースの活用
もう一方のクラス(Class 2)では異なる様子が観察されました。Extract 4では、Facebook上のコメントを分析する課題が課されており、学生たちは「TMNT」「Bebop」という略語・固有名詞の意味がわからず戸惑います。しかし彼らは沈黙に沈むのではなく、ラップトップを開いて検索し、「TMNT」が「ティーンエイジ・ミュータント・ニンジャ・タートルズ」であること、「Bebop」が豚(猪)のキャラクター名であることを突き止めます。謎が解けた瞬間、グループから笑い声が上がります。
この場面は、言語だけに頼らず、デジタルツールや視覚情報、仲間との協働を「空間的リソース(spatial repertoires)」として使いこなすトランスランゲージングの豊かな形を示しています。Canagarajah(2018)が論じる「アセンブラージュ(assemblages)」として機能しており、言語的な制約を乗り越えながら意味を構築しているのです。
ただし、このクラスでも全員が均等に参加していたわけではなく、沈黙しがちな学生がいたことも指摘されています。インタビューで学生Cは「自分たちが観察されているとわかっていたから、中国語を使うのを控えた。失礼だし、排他的に見えるから」と述べています。研究者への配慮という別の力学が働いていた点も、研究者たちは正直に記しています。
ELBコースという「元凶」
この研究が特に強調するのが、大学入学前の英語言語ブリッジングコース(ELB)における「英語のみ」の規範の影響力です。学生Cは「ELBで習ったのは、大学では英語だけを使うべきだということ。英語だけが大学で使われる言語だから」と語り、ネイティブスピーカーに近い英語を習得するためには英語のみを使うべきだという信念を持つに至っています。
ELBの教師に関する先行研究(Tan, 2017; Khng, 2020)によれば、多くの教師は学生が母語を使うことの一定の価値を認識しつつも、「英語学習を妨げる」という懸念から母語使用を監視・制限しており、意図的に異なる母語話者とペアを組ませることさえあります。こうした実践が、学生の意識に深く刻み込まれてしまっているわけです。
ここに日本の英語教育との共鳴を感じる方は多いでしょう。「授業は英語で行うことを基本とする」という文部科学省の方針のもと、多くの日本の英語教師も似たようなジレンマに直面してきました。英語のみを使えば本当に英語が身につくのか、それとも学習者を孤立させ、沈黙を生むだけなのか。
日本の英語教育への示唆
この研究から日本の英語教育が学べることは多岐にわたります。まず最も重要な点として、「英語のみ使用」の規範がいかに強力かつ持続的に学習者の意識を縛るかを、実証的なデータとともに示していることが挙げられます。日本でも「英語の授業は英語で」という指針が広まっていますが、その結果として学習者が萎縮し沈黙するという本末転倒が起きていないか、改めて問い直す必要があります。
次に、トランスランゲージングを「許可する」だけでは不十分だという点も重要です。教師が口頭で「日本語を使っていい」と言っても、それだけでは学習者の心理的抵抗を解くことはできません。研究者たちが提言するように、コースのシラバスや大学のポリシー文書にトランスランゲージングの許容が明記され、学習者が「公式に許されている」と実感できる環境の整備が必要です。これは日本の英語教育においても、教科書や学習指導要領レベルでの方針転換を示唆するものです。
さらに、空間的リソース(ラップトップ、視覚資料、仲間のサポートなど)の活用をデザインした課題設計の重要性も見逃せません。Extract 4の学生たちが見せたように、言語的なハードルをデジタルツールや協働で乗り越える経験は、学習者に達成感と有能感をもたらします。日本の高校・大学の英語教師も、言語的産出だけを求めるのではなく、こうした多様なリソースを組み込んだ課題設計を工夫することで、よりインクルーシブな学習環境を作れるでしょう。
関連研究との対話
トランスランゲージングに関しては、Garcia, Johnson & Seltzer(2017)による「トランスランゲージング教室」の概念枠組みが基礎として使われており、教師の「トランスランゲージング的スタンス」という考え方が本研究でも採用されています。また、Canagarajah(2011, 2018)のアセンブラージュ論が、言語を超えた意味生成の多様性を説明するために援用されています。
一方で、本研究が既存研究との対比において際立つのは、「許可されているのに使わない」という現象の詳細な記述にあります。多くの先行研究はトランスランゲージングの恩恵を論じますが、学習者が心理的・歴史的理由から積極的にそれを拒絶する場面を、実際の教室データと学習者の声を組み合わせてここまで丁寧に描いた研究は多くありません。この点でDobinsonらの研究は重要な貢献をしています。
また、Rosa(2016)の人種言語イデオロギー論や、Piller & Bodis(2022)の「白人ネイティブスピーカー市民構築」批判を援用することで、言語的不平等を個人の能力問題ではなく構造的・イデオロギー的問題として位置づけている点も評価できます。日本の文脈では人種という軸は異なる形を取りますが、「標準的な英語話者」への憧れと劣等感という力学は日本人英語学習者にも強く働いており、この視点は示唆に富んでいます。
研究の限界と今後の課題
もちろんこの研究にも限界はあります。対象者が8名という少人数であること、全員が中国人男性留学生であること、特定の大学・学部・単位に限定されていることなど、一般化には慎重であるべきです。また、研究者の存在が学生の行動に影響を与えた(「見られているから中国語を使わなかった」)という点は研究者自身も認識しており、観察者効果の問題は避けられません。
さらに、沈黙の解釈は多義的です。研究者たちは沈黙を「言語不安」「内容理解の困難」「課題への不満」「英語のみ規範の内面化」などと多角的に解釈していますが、それぞれの割合や因果関係を特定するのは難しく、その点の曖昧さは残ります。とはいえ、複数の解釈可能性を示しながら丁寧に議論を展開している姿勢は誠実であり、研究としての信頼性を高めています。
変化のための三層アプローチ
論文の締めくくりで研究者たちが提示する提言は、実践的かつ現実的です。まず大学ポリシーのレベルでトランスランゲージングを明記すること、次に個々の講師がコース初日に明言し、協働的にトランスランゲージング活動を設計すること、そして入学前の英語コースでこそこの考え方を根付かせることが必要だと述べています。このうち最後の点が最も重要で、最も難しいとも言えます。なぜなら、ELBや日本の高校英語のような「入り口」の段階での規範形成が、その後何年にもわたって学習者の意識を制約するからです。
日本では現在、「話すこと」や「やりとり」の強化が英語教育の重点として語られています。しかし話すことを促すためには、まず「話していい」という心理的安全性が必要です。そしてその安全性を作り出すためには、「英語でなければならない」という呪縛を解くことが、どうしても必要なのです。この論文が伝えているのは、その呪縛がいかに強く、いかに早期から形成され、いかに意識的な許可だけでは解けないか、ということです。
英語教育に携わるすべての人に、一度立ち止まって問いかけてほしい問いがあります。あなたの教室で学習者が沈黙しているとき、それは何を語っているでしょうか。
Dobinson, T., Dryden, S., Dovchin, S., Gong, Q., & Mercieca, P. (2024). Translanguaging and “English only” at universities. TESOL Quarterly, 58(1), 307–333. https://doi.org/10.1002/tesq.3232
