はじめに―「母語禁止」の教室から考える
日本の英語の授業を思い浮かべてほしいのですが、そこにはある種の「暗黙のルール」が根強く存在してきました。英語の時間は英語だけを使うべきだ、日本語に頼るのは学習者の怠慢だ、母語は「邪魔者」である、という発想です。かくいう私自身も、英語教育に携わる者として、そうした考え方の呪縛から自由ではありませんでした。教室で学生が日本語でひそひそ話すのを見ると、なんとなく「もっと英語で考えさせなければ」と焦る感覚は、多くの英語教員に共通するものではないでしょうか。
ところが、応用言語学の世界では、こうした「モノリンガル教育観」に対する根本的な問い直しが続いています。その中心にあるのが「トランスランゲージング(translanguaging)」という概念です。学習者が持つ言語資源すべてを柔軟に活用することを良しとする、この考え方はこの二十年で急速に広まりました。
Marina Prilutskayaは、ノルウェーのNord University(教育・芸術学部)に所属する研究者です。多言語教育と英語教育を専門とし、英語ライティング指導や言語評価の研究でも知られています。彼女が2021年にLanguages誌に発表した “Examining Pedagogical Translanguaging: A Systematic Review of the Literature” は、2011年から2021年2月までの約十年間にわたるトランスランゲージング研究の全体像を、PRISMA(Preferred Reporting Items for Systematic Reviews and Meta-Analyses)ガイドラインという厳格な方法論に従って整理した大規模な体系的文献レビューです。11のデータベースから約3,000件の文献を収集し、最終的に233件の実証研究を分析対象としたこの論文は、規模においても方法論においても、この分野の文献レビューとして現時点で最も包括的なものの一つといってよいでしょう。
トランスランゲージングとは何か―まず基本から
専門外の読者のために、まずこの概念を説明しておきます。トランスランゲージングという語は、もともとウェールズの教育者Cen Williamsが1994年に提唱したものです。ウェールズ語と英語のバイリンガル教育の文脈で、教師が意図的に二言語を組み合わせて授業を展開するという、きわめて実践的な教育戦略として生まれました。たとえば、英語でテキストを読んでウェールズ語でディスカッションする、あるいはその逆、といった活動がこれにあたります。
その後、この概念はOfelia Garcíaらによって理論的に深化され、単なる「二言語の切り替え」を超えた、より根本的な言語観へと発展しました。人間の言語使用は、「英語」や「日本語」といった社会的・政治的に名付けられた言語の境界線とは無関係に、個人の中で一体の言語レパートリーとして機能している、という考え方です。この視点に立てば、教室で学習者が母語を使うことは「ルール違反」ではなく、むしろ学習を促進する自然な認知プロセスの発現であるということになります。
Prilutskayaの論文が分析の対象とするのは、こうしたトランスランゲージングを意図的・計画的に教室実践に組み込む「教育的トランスランゲージング(pedagogical translanguaging)」です。自然発生的な言語混交とは区別して、教師が能動的に設計する教育活動として捉えることが、この論文全体を貫く視点です。
体系的レビューという方法論の誠実さ
この論文の最初の美点は、方法論の透明性にあります。PRISMAガイドラインに従った体系的文献レビューとは、いわば「再現可能な知識の地図づくり」です。どのデータベースをどのキーワードで検索し、どの基準で文献を取捨選択したかを、一つひとつ明示します。Figure 1に示されたフロー図を見ると、2,976件から233件への絞り込みの過程が、漏れなく記録されています。
一方で、この方法論には制約もあります。Prilutskaya自身が認めているように、検索対象が英語文献に限定されていること、そして特定のデータベースへのアクセス可能性が選択に影響していることは、避けがたい限界です。たとえば、日本語で書かれたトランスランゲージング研究は、この233件には一件も含まれていません。英語圏以外の実践が「見えない」構造になっていることは、後述する日本への示唆とも深く関わります。
なお、本論文は2023年5月に一部訂正(Corrigendum)が出されており、Figure 5の地域別データのラベル表示に誤りがあったことが修正されています。科学的結論への影響はないとされていますが、体系的レビューという厳密な方法論を採用しながらも、こうした細部の誤りが生じることは、単一著者によるレビューの限界を示してもいます。
研究の地理的・制度的偏りが示すもの
分析結果として最初に目を引くのは、研究の分布です。北米が39%、ヨーロッパが21%と、この二地域で全体の六割を占めています。アジアは13%、アフリカは16%です。北米の優位は、Garcíaをはじめとするアメリカの研究者たちがこの分野を牽引してきた歴史的経緯と、米国内のスペイン語系移民コミュニティという豊富なフィールドの存在によって説明されます。
日本はアジアの13%の一部として数えられますが、論文本文では「South Africa, Japan, and China appeared in most of the studies placed in the African and Asian contexts respectively」という言及があるのみです。日本がアジアの文脈でそれなりに存在感を示していることはわかりますが、その研究の性質や焦点がどのようなものかは、このレビューからは読み取れません。これは研究上の空白であると同時に、日本の研究者にとっての貢献可能領域でもあります。
教育段階別の分布も興味深いです。小学校・中学校段階が33%と最多で、大学段階が25%と続きます。高校段階(11%)と教員研修(3%)は相対的に手薄です。日本の英語教育が全面英語化への転換を強く求められているのは高校段階であることを考えると、この層の研究の薄さは日本の実践者にとって特に示唆的です。
83%が質的研究という事実の意味
方法論の分析で特筆すべきは、対象となった233件のうち実に83%が質的研究であったという点です。量的研究はわずか3%、混合研究法が14%という内訳になります。
これは何を意味するでしょうか。一方では、トランスランゲージングという実践がいかに文脈依存的であり、個別の教室の生態系を丁寧に記述することへの需要が高いかを反映しています。観察、インタビュー、フィールドノート、学習者の作品収集といった言語民族誌的な手法が多用されるのは、この研究対象の性質に合致しています。少数または単一の参加者に焦点を当てたケーススタディが主流であることも、同じ理由から理解できます。
しかし他方では、これほど量的エビデンスが薄い状態では、「トランスランゲージングは学習効果がある」という主張を広く政策に採用することには慎重にならざるを得ません。統計的な介入研究や事前・事後テストを用いた比較研究の積み重ねが、まだ圧倒的に不足しているのです。Prilutskayaがこれを「懸念」として明示的に指摘しているのは、学術的誠実さの現れです。日本の英語教育政策に携わる立場からは、この点を特に重く受け止めるべきでしょう。
教師の信念と実践のギャップ―最も核心的な問い
論文の第二の問い―トランスランゲージングの教室実践を促進または制約する要因は何か―への答えは、三つのテーマに整理されています。利害関係者(stakeholders)、文脈(context)、活動形態(activity type)です。なかでも、最も繰り返し強調されるのは教師の信念と実践のギャップです。
教師がトランスランゲージングに肯定的な態度を持つことは、実践を促す重要な条件です。Axelrod(2017)の研究では、教師が子どもたちの言語使用を積極的に支持したとき、子どもたちは家庭や地域社会で経験するハイブリッドな言語実践を教室に持ち込めるようになったと報告されています。しかし重要なのは、肯定的な態度があれば十分ではないという点です。Mwinda and van der Walt(2015)やYuvayapan(2019)が示すように、好意的な姿勢が必ずしも体系的な学習者中心の実践につながるわけではありません。
この指摘は、日本の現場感覚と一致します。「学習者の母語も使っていいんだ」と頭でわかっていても、では実際にどんな活動を設計すればいいのか、どのタイミングで日本語を促せばいいのか、という実践的なスキルは別物です。Ganuza and Hedman(2017)が警告するように、意図も目的もなく多言語実践が行われる状況を「教育的トランスランゲージング」と呼んでしまうことには、概念の希薄化という危険が伴います。
教員研修の重要性は、複数の研究から繰り返し強調されています。Gorter and Arocena(2020)は、現職教員向けの専門研修がトランスランゲージングに関する信念を変える可能性を示し、Caldas(2019)はメキシコ系アメリカ人のプレサービス教員を対象とした研究で、理論と実体験の組み合わせが教員の姿勢を変化させることを示しています。研究者と教師の協働という形式も有効だとされており、Liu et al.(2020)は一年間にわたる研究者・教師コラボレーションが、EAP(学術目的の英語)担当教員の理解と実践を深めたと報告しています。
学校の言語政策という「壁」
もう一つの重要な制約要因は、学校・機関レベルの言語政策です。Allard(2017)は、トランスランゲージングが教室という「敵対的な生態系」の中でいかに機能し、いかに制限されるかを記述しています。南アフリカの小学校を舞台にしたKrause and Prinsloo(2016)の研究は、教師たちが校長の言語政策に反しながらも、学習のためにトランスランゲージングを続けるという、現場の葛藤を生々しく描いています。
この緊張関係は、日本でも見覚えがあります。文部科学省が「英語授業は英語で行うことを基本とする」と方針を示した2013年以降、高校の英語授業では「原則英語使用」が制度的な規範となっています。この方針とトランスランゲージングの発想とは、表面上、矛盾しているように見えます。しかし、Costley and Leung(2020)がイングランドの事例で示したように、政策レベルで多言語主義が「修辞的に賛美されながら」も実践的支援が欠如している状況では、教室での変化は起きにくいのです。日本も全く同じ構造的課題を抱えていると言っていいでしょう。
バスク地方の事例も、示唆に富んでいます。Cenoz and Gorter(2017)らの研究は、少数言語保護という目的のために厳格な言語分離政策を採るバスク語学校において、トランスランゲージングがいかに懐疑的に受け止められるかを示しています。これは「日本語を守るためには英語教育でも日本語使用を制限すべきか、それとも促進すべきか」という問いとも、構造的に類似しています。
協働学習とトランスランゲージングの親和性
促進要因として明確に浮かび上がるのが、グループ活動との相性のよさです。Ramchander(2020)は南アフリカの大学生がグループワークで課題に取り組む場面を観察し、多言語使用が課題理解を深める傾向を示しました。Banda(2018)は、英語・コサ語・両言語混交のグループ議論が全員の参加を促し、英語力の低い学習者が上位の学習者から学ぶ機会を生んだと報告しています。
これは、ペアワークやグループワークが日本の英語教室でも広く実践されている今日、具体的に参照できる知見です。モノリンガルの目標言語使用を強制するのではなく、意図的にトランスランゲージングを組み込んだグループ活動を設計することで、特に言語的に不安を抱える学習者の参加が促進される可能性があります。これは「おとなしい日本人学生をどうグループ活動に参加させるか」という、多くの英語教員が直面する問いへの、一つの応答でもあります。
関連研究との対比―何が新しく、何が継続しているのか
本論文が先行する体系的レビューとして挙げるのは、Poza(2017)の研究です。Pozaは1996年から2014年の53件の文献を対象に、トランスランゲージングの理論と具体例を検討しましたが、主に理論的文献を対象としており、実証研究の系統的分析という点では本論文が明確に前進しています。
また、コードスイッチング(code-switching)研究との対比も重要です。トランスランゲージングはしばしばコードスイッチングと混同されますが、前者が「二つの独立したシステムの間を行き来する」という発想を前提とするのに対し、後者は言語境界そのものを問い直す点で、より根本的なパラダイム転換を含んでいます。この理論的区別が実践にどう影響するかは、まだ十分には解明されていないと言えます。
CLIL(Content and Language Integrated Learning)との親和性も、本論文が示す重要な発見です。Adamson and Yamauchi(2020)の日本の大学を舞台にした研究が引用されており、CLILやEMI(English as a Medium of Instruction)の文脈ではトランスランゲージングが好意的に受容される傾向があるとされています。日本では近年、大学を中心にEMIが急速に広がっていますが、その現場でのトランスランゲージングの可能性と限界は、まさに今後の研究が求められる領域です。
日本の英語教育現場への示唆
この論文が日本の英語教育に与える示唆は、いくつかの層で考えることができます。
第一に、教員研修のあり方です。「英語の授業は英語で」という方針が現場の教員に何をもたらしてきたかを、改めて問い直す必要があります。その方針の趣旨は理解しながらも、学習者の日本語を「資源」として戦略的に活用する方法を、具体的なスキルとして教員が身につける機会が必要です。Gorter and ArocenaやLiu et al.の研究が示すように、理論と実践を組み合わせた継続的な研修の設計が、変化の鍵となります。
第二に、評価の問題です。本論文が指摘するように、トランスランゲージングと評価実践の関係は研究が薄い領域です。日本の英語教育では、センター試験からの転換を経て、「使える英語」の評価が強調されるようになりましたが、その評価の場で学習者が日本語を使うことをどう位置づけるかは、まだ議論が成熟していません。
第三に、研究上の貢献可能性です。アジアの中で日本が一定の存在感を示しているとはいえ、日本発の英語教育における実証的トランスランゲージング研究は、国際的な文脈ではまだ限られています。とりわけ高校段階、そして日本語という強力な共通語を持つモノリンガル的環境でのトランスランゲージングという、きわめて特殊な条件の分析は、国際的な学術的貢献につながる余地があります。
この論文の学術的功績と残された問い
Prilutskayaの論文は、体系的文献レビューとしての誠実さにおいて、高く評価されます。方法論の透明性、自己の限界への率直な言及、そして実践的示唆と研究上の課題の両方を丁寧に整理した構成は、この分野の研究者にとって信頼できる出発点を提供しています。
ただし、233件という数は多いようで、実はすでに十年以上前の状況を反映しています。2021年以降、ChatGPTなどの生成AIの登場が言語学習観そのものを揺るがしつつある今日、「学習者が複数の言語資源を活用することの意味」は、さらに複雑な様相を帯びています。AIを使えば瞬時に翻訳できる世界で、教室内のトランスランゲージングはどのような新しい意味を持つのか。この問いは、Prilutskayaの論文が設定した問い枠組みを超えて、私たちに突きつけられています。
また、本論文は「トランスランゲージングの効果」を示す証拠の蓄積を求めながらも、「何に対する効果か」という問いには慎重です。言語習得、内容理解、情意面での効果、アイデンティティ形成、社会正義への貢献と、研究者が目指す「効果」は多様であり、それらを単一の指標で測ることへの根本的な困難が、量的研究の少なさにも反映されていると解釈することができます。
おわりに―「禁止」から「設計」へ
授業での母語使用を「禁止する」のか、それとも「設計する」のか。この対比が、Prilutskayaの論文を読んで残る、最も根本的な問いです。禁止は簡単です。しかし設計には、理論の理解、実践的スキル、制度的支援、そして何より、学習者の言語的背景への敬意が必要です。
本論文が描き出すトランスランゲージング研究の全体像は、その設計のためのヒントに満ちています。同時に、研究の地理的偏り、量的エビデンスの薄さ、高校段階の手薄さといった空白は、日本の研究者と実践者が埋めていくべき余白でもあります。この論文を読むことは、英語教育を言語習得の問題としてだけでなく、社会的公正や学習者のアイデンティティと結びついた、より広い問いとして捉え直す契機になるはずです。そしてそれは、どの教室にも、実は静かに続いている問いでもあります。
Prilutskaya, M. (2021). Examining pedagogical translanguaging: A systematic review of the literature. Languages, 6(4), 180. https://doi.org/10.3390/languages6040180
