はじめに―三人の研究者が教室に入ってきたら

論文の冒頭に、なかなか痛烈なジョークが置かれています。ISLA(指導場面における第二言語習得)研究者、生成文法言語学者、相互行為研究者の三人が同じ教室を訪問し、それぞれ全く異なるアドバイスを教師に投げかける。教師はどんどん混乱し、研究者たちはそれぞれ徒労感を抱えて大学へ帰っていく――。このジョーク、笑えないほどリアルだと感じる英語教師も少なくないのではないでしょうか。

本稿が取り上げるのは、Masatoshi Sato(Universidad Andres Bello)、Steven L. Thorne(Portland State University / Groningen University)、Marije Michel(Groningen University)、Theodora Alexopoulou(University of Cambridge)、John Hellermann(Portland State University)の五名による共著論文 “Language, people, classrooms, world: Blending disparate theories for united language education practices”(The Modern Language Journal, 2025, 109, 15–38)です。

この論文は、Modern Language Journalの特集号に掲載されたものです。特集全体のテーマは、第二言語学習と教育に関わる「人」「教室」「言語」「社会」の相互関係を多角的に探ることにあり、本論文はその巻頭論文として、異なる研究パラダイムを横断しながら実践への橋渡しを試みるという、いわば特集全体の旗振り役を担っています。

著者陣の顔ぶれもユニークです。日本の単一言語社会に生まれ、英語を文法訳読法で学び、後にモントリオールで多言語家族の父親になったというSatoの経歴は、まるでそのまま第二言語習得の縮図のようです。ヨーロッパの多言語話者として現代語教育に長年向き合ってきたMichelと、生成言語学の視点からケンブリッジで学習者コーパスを分析してきたAlexopoulou、そして相互行為とエコロジー的学習観を25年間にわたって探求してきたThorne とHellermann。これほど立場の異なる研究者が一つの論文に集い、意見をすり合わせてまとめ上げた事実そのものが、既にメッセージになっています。

三つの視点を整理する―何が違って、何が同じか

論文は大きく三つの「視点」から構成されています。

Perspective 1(MichelとSato)は認知・社会的観点からのISLAです。インプット・アウトプット・インタラクションという三角形を軸にしながら、学習者の注意、作動記憶、暗示的・明示的知識の発達、さらには個人差や教師の資質といった問題を包括的に扱います。フォーカス・オン・フォームや課題遂行型言語教授法(TBLT)の実証研究などもここに含まれ、日本の英語教育研究者にとっては最も馴染み深い立場といえるでしょう。

Perspective 2(Alexopoulou)は生成文法に基づく言語類型論と習得可能性の議論です。学習者が母語(L1)の統語解析器を活用してL2のインプットを処理し、L1とL2の類型的距離に応じて習得の難易が変わるという主張は、理論的には難解に聞こえますが、実は直感的に納得できます。たとえば中国語母語話者が英語の時制形態素を長期間にわたって習得できないのに、複雑な構文はすぐに使えるようになる、という研究知見がその証拠として挙げられます。EFCAMDATという大規模学習者コーパスを活用した実証研究が、この視点を支えています。

Perspective 3(ThorneとHellermann)は、社会物質論(sociomaterialism)、エスノメソドロジー的会話分析(EMCA)、使用基盤言語学(usage-based linguistics)などを組み合わせたシンクレティック(混合的)で生態学的なアプローチです。言語使用は脳内の処理だけでなく、身体、環境、道具、他者との相互行為の中から創発するものだという考え方が中心にあります。「再野生化(rewilding)」という教育的比喩も提唱されており、これは野生生態学からの比喩で、制度化された教室学習を自然界の豊かな言語使用の場と結びつけようという試みです。

これほど異なる三つの立場が、しかし結論では五つの共通命題に収束します。L2研究はL2教育に貢献すべきこと、L2教育の目標はL2学習であること、L2学習は人生を豊かにすること、L2学習者は個別の背景を教室に持ち込むこと、そしてL2使用はL2学習に不可欠であること。この五つは一見当たり前に聞こえますが、それぞれの研究パラダイムが全て同意できる命題として提示されているところに、この論文の戦略性があります。

「研究と実践の乖離」という問題の構造

この論文が向き合っている本質的な問題は、研究と実践の断絶です。これはSLAに限らず教育研究全般に通じる古典的な悩みですが、SLAの場合はいくつかの特殊な悪化要因があります。

一つは、理論間の断絶です。認知派と社会派が互いに対話せず、それぞれの学会で研究を積み上げてきた歴史があります。教師の側から見れば、「インタラクションを促せ」「文法に注目させろ」「L1の干渉を意識しろ」「学習者のアイデンティティを尊重しろ」といった互いに矛盾しているようなアドバイスが飛び交う状態であり、どれを信じればいいのかわかりません。

もう一つは、研究者と実践者の権力構造です。知識は研究者が生産し、教師はそれを受け取る側だという暗黙の前提が、研究の設計そのものに埋め込まれているとSatoらは指摘します。これは極めて重要な指摘で、OASIS(Open Accessible Summaries in Language Studies)やTESOLgraphicsなど、研究成果を教師向けに一ページにまとめて届けようという近年の取り組みは、その前提を問い直す試みといえます。SatoとLoewen(2022)の「実践基盤型研究(practice-based research)」の提案も、研究者と教師が対等な協働者として研究プロジェクトを進めるという発想であり、本論文でも重要なリファレンスとして機能しています。

この論文が実際に評価されるべき点

本論文の最大の貢献は、おそらく「異なる理論を持つ研究者が共通の教育言語を見つけようとした実践」そのものです。相互行為論者と生成文法学者が同じ論文の中に共著者として並ぶことは、それ自体が珍しく、学術的なジェスチャーとして意味を持ちます。

また、GenAI(生成的人工知能)に対する批判的かつ建設的な立場も、現代的な問題意識を反映しています。翻訳ツールの精度が上がるにつれ「なぜ外国語を学ぶのか」という問いが現場でも聞かれるようになってきましたが、著者たちはこれに対して二つの論点で応答します。第一に、AIによるコミュニケーションと自分自身の身体化された言語経験は根本的に異なるということ。第二に、L2学習は言語産出の「結果」だけでなく「過程」であり、認知的柔軟性の向上、共感能力の発達、さらには認知症発症の遅延といった多様な恩恵をもたらすということです。これは日本の英語教育を正当化する文脈でも、十分に活用できる論拠です。

日本の英語教育への示唆―「日本語話者」という視点

Alexopoulouの視点は、日本の英語教育研究者にとって特に示唆に富んでいます。日本語と英語の言語的距離は非常に大きく、語順、形態素の種類、冠詞体系、時制の表示方法など、ほぼあらゆる点で両言語は異なります。EFCAMDATを用いた研究では、L1とL2の言語的距離が小さいほど習得が早く、距離が大きいほど年齢による習得能力の低下がより顕著に現れることが示されています。日本語母語話者が英語を学ぶ場合、この「言語的距離の不利」は現実であり、それは学習者の失敗ではなく、習得プロセスの必然的な特徴として理解されるべきです。

Alexopoulouが提案する「赤字ではなく創造性として」という視点も重要です。日本語母語話者の英語に見られる「誤り」を欠陥として捉えるのではなく、L1文法とL2文法が相互作用した創造的な中間言語として認め、そこからの出発点を設計するという考え方は、日本の中学・高校・大学の英語教育にそのまま応用できます。特に、移民児童を「学習障害」として特別支援学級に送り込むという欧米での誤りと全く同様の問題が、日本でも外国につながる子どもたちへの対応という形で現れていることを考えると、この指摘は地域を問わず切実です。

MichelとSatoの視点から見ると、日本の英語教育における最大の問題の一つは、アウトプットとインタラクションの機会の絶対的な不足です。週数時間の英語授業、大学入試という重力に引き寄せられた文法・語彙中心のシラバス、そして実際に英語を使う機会の少ない日常環境――。これは「外国語文脈(foreign language context)」における指導の難しさという普遍的問題の極端な事例ですが、著者たちは絶望的に捉えず、テクノロジーを活用した「教室外での言語使用の拡張」を積極的に提案します。YouTube、ゲーム、SNS、ポッドキャスト――これらを単なる娯楽ではなく、教師がキュレーションし、教室の学習と意味のある形で接続できるリソースとして位置づける視点は、日本の英語教師にとっても実践的な示唆となりえます。

関連研究との対比―何が新しく、何が既知か

SLAにおける「インタラクション仮説」(Long, 1996)や「アウトプット仮説」(Swain, 1985)は既に古典的地位を占めており、本論文もそれらを前提として組み込んでいます。「認知的転換(cognitive turn)」に対する「社会的転換(social turn)」(Block, 2003)という対立軸も、SLA研究の文脈では繰り返し論じられてきたテーマです。その意味で、本論文が個々の理論的主張において全く新しいものを提示しているわけではありません。

しかし本論文が既存の「認知対社会」の対立図式と一線を画しているのは、そもそも対立を解消しようとする姿勢にあります。Douglas Fir Group(2016)の「超分野的フレームワーク」や、Hulstijn et al.(2014)の認知・社会的アプローチ橋渡しの試みなど、類似する先行研究は存在します。しかし本論文は単なる概念的統合ではなく、実際に異なる研究者が協働して論文を書き、そのプロセスで何を発見したかを率直に示している点で、よりプラグマティックな性格を帯びています。

また、「再野生化(rewilding)」という概念は保全生物学由来のメタファーであり、言語教育に持ち込まれた文脈では比較的新しい提案です。教室という「飼育された」環境から、自然界のコミュニケーション生態系へと接続するという発想は、拡張現実(AR)を活用した場所基盤型言語活動の実践例とともに提示されており、デジタル教育環境が整備されつつある日本の高校・大学においても試みられる余地があります。

批判的考察―何が足りないか、何が難しいか

もちろん、この論文には課題もあります。

第一に、五つの「共通命題」の抽象度が高すぎる点です。「L2使用はL2学習に不可欠である」という命題は、ほぼすべての言語教師が直感的に同意するでしょう。しかし実際の教室では、どの種類のL2使用を、どの程度の頻度で、どのような形で組み込めばいいのかという具体性が求められます。論文の後半にいくつかの示唆が含まれているものの、それぞれの研究パラダイムが収束する「共通の命題」は、必然的に最大公約数的なものになってしまいます。これは複数の立場を統合しようとする試みの宿命ともいえますが、現場の教師にとっては「それはわかっているが、明日の授業をどう設計すればいいのか」という問いへの答えとしては不十分かもしれません。

第二に、文化的・制度的文脈への感度という点です。著者たちはSLAの普遍的な知見を提示しようとしていますが、日本の英語教育は非常に特殊な条件の下に置かれています。大学入学共通テストという高度に標準化された試験制度、学習指導要領という中央集権的なカリキュラム管理、そして「英語が使えない」という社会的自己評価が根強く残る文化的文脈。これらは単なる「実施上の障壁」ではなく、教育的価値観そのものに関わる問題です。本論文は欧米と南米の文脈で書かれており、日本の英語教育が置かれた特殊性を考慮した上で批判的に読み解く必要があります。

第三に、GenAI論の楽観性についてです。著者たちはGenAIを活用した自律的学習の可能性を肯定的に評価しつつも、それが「人間の身体化された言語経験」と質的に異なるという主張の論拠は、まだ実証的基盤が薄い段階にあります。GenAIとの対話が実際にどの程度L2習得を促進するのか、あるいはしないのかは、今後の研究課題として急速に重要性を増している領域であり、本論文の楽観的なトーンには慎重な留保が必要です。

研究と実践の関係を問い直す―現場からの逆流

論文の結論部でSatoらが強調しているのは、知識の流れが研究者から実践者への一方向であってはならないということです。研究者が生産し、教師が消費するという非対称な権力関係を解体し、教師を知識の共同生産者として位置づけること――これはアクション・リサーチの伝統に繋がる考え方でもあります。

日本では、いわゆる「授業研究(lesson study)」の文化が長年にわたって根付いています。教師が互いの授業を観察し、協議し、改善するというこの実践は、まさに「教師が研究者になる」という精神に近いものを持っています。しかし日本の授業研究は、SLAの最新の理論的知見と直接接続されることは少なく、その橋渡しが課題として残っています。本論文が提唱する「実践基盤型研究」の枠組みは、日本の授業研究の文化と組み合わせることで、より実り豊かな形に発展できる可能性を秘めています。

おわりに―異なる声が重なるとき

Satoらのこの論文は、完成された答えを提示しているわけではありません。むしろ、答えを出すための「対話の姿勢」そのものを提示している論文です。異なる理論を持つ研究者が、互いの違いを認めながら、共通の目標に向かって声を重ねる。その行為自体が、SLA研究と教育実践の間に存在する溝を埋めるための第一歩になりえます。

日本の英語教育の現場では、毎日多くの教師が試行錯誤しながら授業を設計しています。彼らが「研究は難しくてわからない」と感じ、研究者が「教育現場は研究の知見を使ってくれない」と感じている状況は、まさにこの論文の冒頭のジョークが描いた世界と重なります。この論文が提示する「大同団結」の試みが、日本の英語教育においても何らかの触媒となりうるとしたら、それはおそらく、研究者と教師が同じ教室の問題を共に考え始めるその瞬間からではないでしょうか。


Sato, M., Thorne, S. L., Michel, M., Alexopoulou, T., & Hellermann, J. (2025). Language, people, classrooms, world: Blending disparate theories for united language education practices. The Modern Language Journal, 109, 15–38. https://doi.org/10.1111/modl.12976

 

By 吉成 雄一郎

株式会社リンガポルタ代表取締役社長。東京電機大学教授、東海大学教授を経て現職。コロンビア大学大学院ティーチャーズカレッジ(英語教授法)、信州大学大学院工学研究科(情報工学)修了。専門は英語教授法、英語教育システム開発。 さまざまな英語学習書、英検、TOEIC 対策書、マルチメディア教材等を手がけてきた。英語eラーニングや英語関係の教材・コンテンツの研究開発も行う。全国の大学、短期大学、高専等で使われているeラーニングシステム「リンガポルタ」も開発した。最近ではAIによる新しい教育システムの開発にも着手している。

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