この論文が生まれた背景

第二言語習得(SLA)という研究分野は、長年にわたって深刻な「たこつぼ化」に悩まされてきました。認知心理学的なアプローチで学習者の頭の中を解明しようとする研究者と、社会的文脈や権力構造こそが言語学習を規定すると主張する研究者は、互いにほとんど話しかけることなく、各自の学術誌に論文を発表し続けてきました。筆者の一人である Lourdes Ortega が以前から指摘してきたように、SLA研究は「コグニティブ派」対「ソーシャル派」という不毛な二項対立に陥りがちで、その分断は教育現場にも影を落としていました。

そうした状況に対して、本論文は真正面から挑んでいます。The Modern Language Journal 2025年増刊号に掲載されたこの論文”Forging common ground in second language acquisition and teaching: A combined synergy statement”は、世界13か国の研究機関に所属する17名の研究者が、約1年半にわたる共同作業を経て書き上げた「統合的宣言」です。リード・オーサーのMarije Michelはオランダのフローニンゲン大学に籍を置き、学習者コーパスと複雑動態系理論を結びつける研究で知られています。共著者には、社会認知的アプローチのDwight Atkinson(アリゾナ大学)、テクノロジーと言語学習のSteven L. Thorne(ポートランド州立大学)、日系研究者としてWaseda UniversityのMiyuki Sasakiも名を連ねています。

論文の構造は独特で、まず5〜6名からなる3グループが独立した「シナジー声明」を作成し(Articles 2〜4)、本論文はそれらをさらに統合する「シナジーのシナジー」として機能しています。グループ名もユニークで、The Pragmatists(実用主義者たち)、The Elephants(群盲象を評すの「象」から)、The Four Pillars(四本柱)という呼称が与えられています。この命名センスにも、硬直しがちな学術論文にあえて遊び心を持ち込もうとする著者たちの姿勢が垣間見えます。

「象の全体像」を把握するために

論文を読み進めると、The Elephantsというグループ名の由来が腑に落ちます。インドの寓話「群盲象を評す」では、それぞれが象の一部分しか触れていないために、全体の姿を誰も正確に把握できません。SLA研究もまさにその状態にあった、というわけです。文法習得を追う研究者は象の脚を触り、アイデンティティと権力を論じる研究者は象の耳を触り、会話分析的手法で相互行為を微視的に分析する研究者は象の鼻を触っている。それぞれが「私こそ本当の象を知っている」と主張してきたのです。

著者たちが提案するのは、各研究者が自分の知見を「部分的な真実」として謙虚に差し出し、他の知見と協働させることによって、より完全な「象の姿」に近づこうという試みです。これは言うほど簡単ではありません。認識論的前提が根本的に異なる研究者同士が「共通基盤」を見出そうとすると、往々にして最大公約数的な曖昧さへの後退か、あるいは表面的な妥協に終わります。その罠をどこまで回避できているか、という点が本論文を評価する上での重要な軸となります。

4つの概念的シナジー

論文の核心部で提示される4つの概念的シナジーは、SLA研究者なら当然知っているはずの命題に見えます。しかし丁寧に読むと、それぞれが興味深い含意を持っています。

第一のシナジーは「SLA/Tは唯一無二の個人的体験である」です。これは一見自明に聞こえますが、ここで言われていることは単なる「個人差がある」という話ではありません。言語習得の軌跡は個人ごとに異なるだけでなく、そもそも比較可能なものとして設定すること自体に問題がある、という認識が底流に流れています。大規模なコーパス研究や実験研究が「一般的傾向」を明らかにしようとしてきたことを著者たちは否定しませんが、そうした知見は必ず個人レベルの研究によって補完される必要があると主張します。

日本の英語教育の文脈で考えると、この主張は切実な意味を持ちます。全国一律のカリキュラム、大学入学共通テストに向けた画一的な指導、教室内での「標準的な学習者」を前提とした授業設計。こうした現実の中で、「一人ひとりの軌跡は根本的に異なる」という命題は、単なる建前ではなく、制度設計への問いかけとして機能しうるのです。

第二のシナジーは「言語と言語学習は社会的行為であり、アイデンティティ構築と主体性の発達を含む」です。ここで著者たちは、Douglas Fir Group(2016)の多層的枠組み(ミクロ・メゾ・マクロの三層)を引き継ぎつつ、「定期的に繰り返される使用の文脈」という表現を「行為の文脈」に置き換えています。これは小さな変更に見えて、実は「行為の中心性」を前景化しようとする理論的なシフトです。言語は「使われるもの」ではなく「行うもの」である、という視点です。

第三のシナジーは「SLA/Tは複雑かつ多因子的である」です。この箇所でCookとSeidlhofer(1995)の言語定義が引用されています。「言語とは遺伝的遺産であり、数学的体系であり、社会的事実であり、個人的アイデンティティの表現であり、文化的アイデンティティの表現であり……」という、ありとあらゆる記述を並べた後に「どれかを選ぶ必要はない。言語はそのすべてでありえる」と結ぶ有名なくだりです。言語という現象の複雑さを「縮減」して扱うのではなく、そのまま「複雑なものとして」記述しようとする姿勢が示されています。

第四のシナジーは「言語学習は(理想的には)生と人間化を促進する」です。ここでの「人間化(humanization)」という概念は、Paulo Freireの教育哲学を想起させます。言語を学ぶことは、単に別のコードを習得することではなく、世界に参加し、自分を表現し、社会を変える能力を獲得することだという主張です。また著者たちは、Wilhelm von Humboldtの「人間の真の目的は自己の能力を最高かつ最もバランスよく全体として発展させること」という言葉も引きながら、教育の倫理的・人格形成的次元を強調します。

方法論と教育実践への提言

方法論的シナジーとして提示されるのは、ケーススタディへの注目と、複数の研究方法の組み合わせです。前者については、Richard Schmidtによる英語学習者Wesの事例研究(1983)と、Schmidtが自らブラジル・ポルトガル語を学んだ際の記録(Schmidt & Frota, 1986)が印象的なかたちで言及されています。WesとSchmidtほど異なるタイプの学習者はいないにもかかわらず、両者の事例がともにSLA研究に深い示唆を与え続けているという事実は、「個人」を研究することの豊かさを雄弁に語っています。

教育実践への提言は3つ示されています。まず「多様なSLA/T研究の視点は、互いに補完し合うパズルのピースである」という主張です。どの理論的枠組みも「黄金の答え」を持たず、教師自身が自分のコンテクストに合わせて複数の視点を統合すべきだという立場が示されています。次に「学習者を言語学習者としてだけでなく、全人的な存在として扱う」ことの重要性が強調されます。これは抽象的なスローガンに聞こえますが、著者たちが言わんとするのは具体的なことで、学習者が「何を望み、どんな将来の自分を描いているか」を知ることなしに適切な指導は不可能だということです。そして三つ目は「プロセスに目を向ける教育」で、AIや大規模言語モデルの普及により提出物が学習者本人の産出かどうかの判断が難しくなった今、学習のプロセスを足場がけすることが一層重要になっているという指摘は、特に時宜を得ています。

この論文を批判的に読む

ここまで内容の紹介を中心に書いてきましたが、本論文には批判的に検討すべき点もあります。

最も大きな問題は「シナジー」という概念の操作的な曖昧さです。著者たちは「シナジー」を、事前に存在していた共通性の発見ではなく、相互作用を通じて「生成された」共通基盤として定義しています。これは理論的に興味深い立場ですが、読み進めると、提示される「シナジー」の多くは、実際には多くのSLA研究者がすでに広く共有していた認識であることに気づきます。「言語学習は個人的である」「言語は社会的行為である」「SLA/Tは複雑だ」という命題は、いずれも新規性が高いとは言えません。17名もの研究者が1年半かけて到達したにしては、もう少し驚きのある「生成物」を期待したいというのが正直な感想です。

また論文は「commensurabili​ty(共約可能性)」という概念を中心的なキーワードとして掲げています(論文のキーワードにも含まれています)。異なる研究パラダイムが根本的に異なる認識論的前提に立っているとすれば、それらは本当に「共約可能」なのかという問いは、Thomas KuhnがThe Structure of Scientific Revolutions(1962)以来、科学哲学の核心的な争点であり続けています。著者たちはこの問いを真剣に取り上げてはいますが、最終的な回答は「共約可能性は理論的には完全ではないが、実践的な協働は可能だ」という穏当な立場に落ち着いており、もう一段の理論的深化を期待する読者には物足りさが残ります。

さらに言えば、本論文が依拠するDouglas Fir Group(2016)の枠組みは、欧米の研究者を中心に構築されたものです。著者たちは「equitable multilingual education(公平な多言語教育)」を訴え、植民地主義的な言語政策を批判しますが、日本のような「一見均質だが実は複雑な言語環境」を持つ社会における含意については、ほとんど論じられていません。日本では英語が「グローバルなエリートへのアクセス」としての社会的機能を強く持つ一方、地域の少数言語やろう文化コミュニティの言語権、そして近年急増する外国につながる子どもたちの複言語的なアイデンティティという問題が複雑に絡み合っています。こうした文脈に本論文の枠組みを適用する際には、相当の「翻訳作業」が必要になるでしょう。

関連研究との対話

本論文を読む上では、比較対象として先行する類似の試みを念頭に置くと理解が深まります。代表的なのはDouglas Fir Group(2016)の “A Transdisciplinary Framework for SLA in a Multilingual World” で、本論文もこれを重要な参照点として引用しています。Douglas Fir Groupもまた複数の研究者による協働的宣言という形式を取っており、本論文はある意味でその後継・発展形として位置づけられます。

一方、認知的SLA研究の伝統から見ると、本論文の立場は相当に「ソーシャル寄り」に見える可能性があります。たとえばJohn Hattie の学習効果量研究のような、教育介入の効果を量的に比較する研究潮流とは、存在論的な前提のレベルで緊張関係があります。本論文が強調する「学習の個別性と複雑性」は、大規模サンプルによるエビデンス・ベースドな教育政策との相性が必ずしも良くない部分も含んでいます。どちらが「正しい」という話ではなく、異なる問いに答えようとしている研究群が存在するということであり、そのことを意識しながら読む必要があります。

日本のSLA研究との関連では、Miyuki Sasakiの参加は象徴的な意味があります。日本語圏の英語学習者の写作発達を長年追ってきた Sasaki の視点が、この統合的声明にどのように組み込まれているかを探ることも、論文の読みどころの一つです。また、Masatoshi Satoはチリのandres Bello大学に籍を置くThe Pragmatistsグループの一員として、相互行為的アプローチと教室実践の接続を論じており、日本の英語教育にとって示唆の多い視点を提供しています。

日本の英語教育現場へのメッセージ

日本の英語教育に関わる人々にとって、本論文は何を語りかけているでしょうか。

一つは、「正解志向」への根本的な問い直しです。本論文は繰り返し、ネイティブスピーカーを理想とする規範意識が学習者のアイデンティティを傷つけることを指摘しています。「英語が話せない自分」というアイデンティティを内面化した日本の学習者が、多言語話者としての自分の強みに気づけるようなカリキュラム設計は、本論文の枠組みから直接演繹されるものです。

もう一つは、教室内の権力関係への自覚です。誰の英語が「正しい」とされるか、どんな発音が笑われるか、どのテキストが使われるか―こうした細部に、植民地主義的な言語イデオロギーが忍び込むことを著者たちは強調します。日本の英語教科書に描かれる世界、採用される「ネイティブスピーカー」の出身地の偏りなどを批判的に見直す視点は、本論文の第2・第4の概念的シナジーから直接導かれます。

三つ目は、AIの時代における「プロセス重視の教育」です。論文の後半では、ChatGPTに代表される大規模言語モデルが英語産出を代替できる時代において、教育がどこに焦点を当てるべきかが論じられています。「正しい文章を提出させる」ことよりも、「概念化・創造・モニタリング・修正というプロセスを支援すること」への転換は、日本の英語教育が向き合わざるを得ない現実の課題です。

四つ目として、この論文が指摘する「協働的研究の文化」の欠如は、日本の英語教育研究についても耳の痛い指摘です。日本では英語教育関連の学術誌は数多あれど、認知的アプローチの研究者とエスノグラフィックな研究者が腰を据えて対話する場は限られています。中学・高校の現場教員と大学の研究者が共同研究を行う「リサーチ・プラクティス・パートナーシップ」の仕組みも、欧米に比べると未整備です。

「シナジー」という実践の先にあるもの

この論文を読み終えて残る問いは、「では次に何が起きるべきか」です。著者たちは「協働」「学際性」「間視点的研究」を呼びかけていますが、それを実現するための制度的・財政的条件については、ほとんど触れていません。国際共著論文に対して高い評価を与える研究費審査、異なるパラダイムの研究者を一つの研究プロジェクトに組み込めるような補助金スキーム、そしてそもそも異なるバックグラウンドを持つ研究者が互いの言語を学び合う機会―こうした「インフラ」なしに、精神論としての「協働」を訴えても、変化は生まれにくいでしょう。

それでも、この論文の試みには固有の価値があります。17名の研究者が「部分的な真実」を持ち寄り、それを手放す覚悟でテーブルにつく行為そのものが、SLA研究コミュニティにとって一つのモデルケースです。学問的正直さとは、自分の立場を守り抜くことよりも、自分が見えていないものを認め、他者の視点によって自分の「象の一部分」を相対化できることではないでしょうか。

英語教育の研究者でも実践者でも、自分が毎日向き合っている学習者の一人ひとりに、その人にしかない言語の物語があります。その物語に耳を傾けることが、あらゆる理論的精緻化よりも先に来るべき倫理的態度だと、この論文は静かに、しかし粘り強く語りかけています。象の全体像を把握することは難しいかもしれません。それでも、仲間と一緒に象に触れ続けることに意味があるのだ―そのメッセージは、日本の英語教育という場所でも、確かに届くはずです。


Michel, M., Atkinson, D., Custodio Ribeiro, A., Alexopoulou, T., Cappellini, M., Eskildsen, S. W., Gao, X., Hellermann, J., Kayi-Aydar, H., Lowie, W., Mejía-Laguna, J. A., Ortega, L., Pekarek Doehler, S., Sasaki, M., Sato, M., Thorne, S. L., & Zheng, Y. (2025). Forging common ground in second language acquisition and teaching: A combined synergy statement. The Modern Language Journal, 109(S1), 90–103. https://doi.org/10.1111/modl.12983

 

By 吉成 雄一郎

株式会社リンガポルタ代表取締役社長。東京電機大学教授、東海大学教授を経て現職。コロンビア大学大学院ティーチャーズカレッジ(英語教授法)、信州大学大学院工学研究科(情報工学)修了。専門は英語教授法、英語教育システム開発。 さまざまな英語学習書、英検、TOEIC 対策書、マルチメディア教材等を手がけてきた。英語eラーニングや英語関係の教材・コンテンツの研究開発も行う。全国の大学、短期大学、高専等で使われているeラーニングシステム「リンガポルタ」も開発した。最近ではAIによる新しい教育システムの開発にも着手している。

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