研究の背景と著者について
英語教育の現場では、長年にわたって「英語だけで英語を教えるべきだ」という考え方が主流でした。しかし近年、学習者が持つすべての言語資源を授業の中で活用しようとする「トランスランゲージング(translanguaging)」という考え方が急速に広まり、研究者たちの間で大きな注目を集めています。本稿で取り上げるのは、ノルウェーの南東ノルウェー大学(University of South-Eastern Norway)に所属するTony BurnerとChristian Carlsenが2023年に発表したスコーピング・レビュー論文、”Teachers’ Multilingual Beliefs and Practices in English Classrooms: A Scoping Review”です。両著者はノルウェーにおける英語教育と多言語主義の研究を長年牽引してきた研究者であり、特にCarlsenは多言語環境における教師の実践と信念に関する複数の実証研究を発表しています。このレビュー論文は、2011年から2021年にかけて世界各地で行われた56本の実証研究を体系的に収集・分析したもので、英語を第二言語または外国語として教える(ESL/EFL)教師たちの多言語に関する「信念」と「実践」を幅広く検討しています。
スコーピング・レビューという手法の強みと限界
まず、この研究がとっている「スコーピング・レビュー」という手法について説明しておきましょう。これは、ある研究分野の全体像を俯瞰するために、広範な文献を系統的に収集し、傾向や空白を整理するための手法です。システマティック・レビューとは異なり、個々の研究の質を厳密に評価して統合するというよりも、研究領域の地図を描くことを目的としています。著者たちはERIC、Scopus、Web of Scienceという主要な三つの教育系データベースを使ったデータベース検索に加え、六つの主要専門誌を対象とした手動検索、さらに引用文献の追跡調査という三段階の方法を組み合わせ、最終的に56本の論文を選定しています。総計2282本の論文を精査したというプロセスは、この研究の徹底ぶりを示しています。ただし、著者自身も認めているように、書籍や博士論文は対象外となっており、また「多言語主義(multilingualism)」「多言語的(multilingual)」という語が明示的に使われていない研究は除外されています。「バイリンガリズム(bilingualism)」や「プルリリンガリズム(plurilingualism)」を中心的な概念として用いている研究が漏れている可能性も否定できず、この点は検索の宿命的な制約として理解しておく必要があります。
「知っている」と「やっている」のあいだにある深い溝
この論文の最も核心的な発見は、英語教師たちが多言語主義について概ねポジティブな信念を持っていながら、実際の授業ではそれを実践していないという一貫したパターンです。たとえていえば、「健康のために運動が大切だ」と信じている人が、実際には毎日ソファに座ってテレビを見ているというような状況に似ています。信念と行動のあいだに大きな隔たりがある。これは英語教育の世界において、世界中の国々で確認されているということです。
Vaish(2012)の調査では、インドの英語教師の75%が「母語は英語を教えるのに役立つ」と回答しながら、95%が「授業中に学習者の母語使用を促すことはない」と述べています。この数字の落差は衝撃的です。ほぼ全員が「有益だ」と思いながら、ほぼ全員が「やらない」というのですから。同様の傾向はOtwinowska(2014, 2017)のポーランドにおける研究や、Burner and Carlsen(2022)のノルウェーにおける新着学習者のための学校を対象とした研究でも確認されており、この矛盾が特定の国や文化に固有のものではなく、英語教育という営みに普遍的に潜む問題であることが示されています。
なぜ「やらない」のか―実践を阻む壁
では、なぜこれほど多くの教師が信念を実践に移せないのでしょうか。論文ではいくつかの要因が浮かび上がっています。まず挙げられるのが、多言語的な教授法に関する正式なトレーニングの不足です。Meier(2016)が指摘する「モノリンガル規範(monolingual norm)」、すなわち「外国語の授業はその言語だけで行うべきだ」という根強い思い込みは、多くの教師の意識に深く刻み込まれています。Escobar and Dillard-Paltrineri(2015)が報告しているように、ラテンアメリカの高等教育に携わる英語教員のなかには「授業中に母語を使うと脳が怠け者になる」と信じている人さえいます。
次に注目すべきは、評価制度との矛盾です。多言語的なアプローチを授業で試みようとしても、最終的な評価がモノリンガルな形式(英語だけで解答するペーパーテストなど)で行われる限り、教師は「本当にこれでいいのか」という不安を拭えません。Galante(2020)の研究でも、教師たちが多言語的タスクの意義を認めながらも、時間的制約や評価との乖離を実践の障壁として挙げています。さらに、学校文化の問題も無視できません。Schissel et al.(2021)が示すように、反トランスランゲージングの慣行が強固に根付いている学校環境では、一人の教師が変わろうとしても周囲の抵抗に直面することがあります。
トランスランゲージングの「実態」は期待より小さい
論文のもう一つの重要な知見は、たとえ多言語的な実践が行われている場合でも、その内実が限定的であるという点です。多くの研究で「トランスランゲージング」と呼ばれている行為は、Cenoz and Gorter(2011, 2020)が定義するような「学習者の言語レパートリー全体を体系的に活用する教育的アプローチ」とは程遠く、実際には授業言語(例えばノルウェー語)や学習者の第一言語を使った文法説明や教室管理に留まっていることがほとんどです。つまり、複数の言語が使われていたとしても、それは「多言語を学習資源として戦略的に活用している」というよりも、「わからないところを母語で補足している」程度に過ぎない場合が多いのです。Beiler(2021)のノルウェーにおける民族誌的研究や、Brevik and Rindal(2020)の60クラスを対象とした観察研究も、授業で使われる言語が英語とノルウェー語の二言語に事実上限定されており、学習者が持つその他の言語(アラビア語、ソマリ語、ウルドゥー語など)はほぼ完全に不可視化されていることを示しています。
教師の言語背景が信念と実践を左右する
興味深いのは、教師自身の言語的背景が多言語的な信念・実践と相関しているという発見です。Otwinowska(2014, 2017)によれば、英語教師の多言語的な言語意識は、教師が第三言語(L3)以上の言語をどの程度習得しているかと密接に関連しており、現職か研修生かという違いよりも重要な要因であることがわかっています。Calafato(2020b)の研究も、複数言語を教えることに意義を見出している教師ほど多言語的実践を行う傾向があることを示しています。一方で、自分自身が移民コミュニティの出身でありながら、学習者に素早いL2(第二言語)習得を求める言語イデオロギーを内面化してしまっている教師もいます(Dávila & Linares, 2020; Flores, 2019)。自らの経験が必ずしもポジティブな方向に働くとは限らない、という点は重要な発見です。
教師教育と継続的な専門研修の必要性
この論文が繰り返し強調するのは、教師教育と現職研修の重要性です。多くの研究が、教師教育プログラムにおける多言語主義の理論と実践の双方を取り入れた訓練の強化を求めています。介入研究(intervention study)を含む複数の研究は、ワークショップや研究者との協働を通じて教師の信念や実践が変化しうることを示しています(Daniel & Burgin, 2019; Liu et al., 2020; Galante et al., 2020)。ただし、論文はこうした介入研究の長期的な効果についての知見が著しく不足していることも指摘しています。短期的なプログラムで「気づき」を得た教師が、その後の長い教職生活の中で実際に実践を変え続けるかどうかは、まだほとんど研究されていません。
さらに注目すべきは、Vallente(2020)の研究が示す皮肉な現実です。教師教育機関で多言語的な教授法を学んだ実習生たちが、実習校の文化に合わせようとするあまり、わざわざモノリンガルな規範を採用してしまうことがあるというのです。制度全体を変えなければ、個人レベルの意識改革だけでは限界があることを示す好例といえます。
日本の英語教育への示唆
この研究が日本の英語教育関係者にとって特に意義深いのは、「英語の授業は英語で行うことを基本とする」という方針が文部科学省から打ち出されているにもかかわらず、現場の教師たちの実践がそれとずれることも多いという状況と、本研究が報告する世界的なパターンが驚くほど重なるからです。日本の学習者のほとんどは、日本語という強力な母語を持ちながら英語を学んでいます。また近年では、外国にルーツを持つ生徒が増加しており、教室の言語的多様性は以前とは比べものにならないほど高まっています。それにもかかわらず、「英語の授業は英語だけで」という規範は学習者の日本語さえも排除しがちであり、ましてや外国にルーツを持つ生徒が持つアラビア語やタガログ語などの言語は、ほぼ完全に無視されているのが現状ではないでしょうか。
本論文は、こうした多言語的背景を持つ生徒の言語資源を「問題」ではなく「資源」として捉え直すことを求めています。Ruíz(1984)の「言語はリソースである(language as a resource)」という概念を出発点とするこの視点は、日本の英語教育においてもっと真剣に議論されるべきでしょう。教師研修においても、英語そのものの教授法だけでなく、多言語主義の認知的・社会的利点についての深い理解を培う機会を充実させることが急務です。
研究の独自性と関連研究との対比
関連する先行レビューとしては、ドイツとオーストリアに限定した12本の研究をまとめたBredthauer and Engfer(2016)や、非ネイティブ教師に関するCalafato(2019)のレビューなどがあります。本研究はそれらと比較して、地理的な広がりが格段に大きく、欧州・北米・アジア・南米・オセアニア・アフリカを横断する56本の論文を扱っている点が際立っています。また、ネイティブ・スピーカー規範への固執やモノリンガルな言語イデオロギーが、特定の国や文化に固有の現象ではなく、グローバルな英語教育の構造的問題であることを明確に示した点は、研究の重要な貢献です。
一方で、批判的な目を向ければ、56本中33本が質的研究であり、インタビューを中心とした少人数の事例研究が多い点は、知見の一般化可能性という観点から限界があります。また、定量的な効果測定を行った研究はCorcoll(2013)やHopp et al.(2020)など少数にとどまっており、多言語的実践が実際の言語習得にどれほど寄与するかという問いに対しては、まだ十分な答えが出ていません。この点は著者たちも率直に認めており、今後の研究課題として介入研究や長期追跡研究の充実を求めています。
締めくくりに
信念と実践のあいだの溝。これはおそらく、英語教育に関わるすべての人が多かれ少なかれ経験したことのある問題でしょう。「本当はこうしたいが、できない」という葛藤は、教師としての誠実さの表れでもあります。しかしこの論文が示すのは、その葛藤が個人の怠惰や意志の弱さからではなく、教師教育の不備、評価制度の矛盾、学校文化の保守性、そして社会的な言語イデオロギーという、より大きな構造的問題から生じているということです。問題を個人のレベルで解決しようとするのではなく、制度と文化を変える取り組みが必要だ、という論文のメッセージは明快で力強いものです。日本の英語教育に携わる研究者・教師・政策立案者の全員に、ぜひ一読を勧めたい論文です。
Burner, T., & Carlsen, C. (2023). Teachers’ multilingual beliefs and practices in English classrooms: A scoping review. Review of Education, 11, e3407. https://doi.org/10.1002/rev3.3407
