論文との出会い―「英語だけ」の授業に感じた違和感
英語の授業で、教師が「日本語を使わないで」と指示する場面は珍しくありません。日本の英語教育の現場では、「英語だけで考え、英語だけで答える」という方針が広く共有されており、それが「本物の英語力」につながると信じられてきました。しかし、そもそもその前提は正しいのでしょうか。学習者がすでに持っている日本語という豊かな言語資源を、なぜ教室の外に追い出さなければならないのか。本論文を読み進めるうちに、長年そうした疑問を抱えてきた読者は、静かな確信を得ることになるでしょう。
Claudia VallejoとMelinda Doolyによる”Plurilingualism and Translanguaging: Emergent Approaches and Shared Concerns. Introduction to the Special Issue”(2020年、International Journal of Bilingual Education and Bilingualism, Vol. 23, No. 1, pp. 1–16)は、複言語主義(plurilingualism)とトランスランゲージング(translanguaging)という二つの概念を軸に、現代の言語教育が抱える根本的な問題を鋭く問い直す論文です。本稿はバルセロナ自治大学(Universitat Autònoma de Barcelona)の研究グループGREIPが2017年に開催した二日間の円卓会議「言語教育の発展―複言語主義とトランスランゲージングへ向けて」を起源としており、世界各地の著名な研究者たちの議論を総合する形で書かれています。Vallejoは複言語主義と社会的不平等を結びつけた教育研究を専門とし、Doolyはテクノロジーを活用したプロジェクト型言語学習と異文化間コミュニケーション研究で知られる研究者です。二人が所属するGREIPは、複言語教育と相互作用の研究において国際的な実績を持つグループであり、本論文はその研究蓄積の集大成的な入門論文として位置づけられます。
「一言語だけ」という呪縛―OLONの問題
この論文で最も目を引く概念の一つが、「one-language-only」、略してOLONです。日本語に訳せば「一言語のみ」という意味ですが、これは単なる教授方法の話ではありません。それはイデオロギーなのです。著者たちは、OLONがいかに学習者の持つ豊かなコミュニケーション資源を「欠陥」として扱うかを丁寧に論証しています。
たとえば、学校での評価を考えてみてください。テストは多くの場合、「国語」や「英語」という特定の言語の枠内でのみ行われます。複数の言語を使いこなす子どもが、その全能力を発揮できる機会はほとんどありません。移民の背景を持つ子どもが、学校言語ではない言語で思考し、別の言語で解答しようとしたとき、それは「不正」や「能力の欠如」として扱われがちです。日本の英語教育でも似たような構造があります。英語の試験において日本語で推論し、その思考を英語に「翻訳」することは自然なプロセスですが、それすら否定されることがあるのです。
著者たちはMcnamara(2011)を引用しながら、多言語主義の可能性あるいはその否定が「社会的、政治的、文化的に対立した文脈の中に位置している」と述べます。言語教育の問題は、つまるところ権力の問題でもあるのです。
複言語主義とは何か―欧州の伝統とその限界
本論文は複言語主義を二つの側面から説明しています。一つは欧州評議会(Council of Europe)による政策的な枠組み、もう一つは研究者コミュニティが長年築き上げてきた理論的・実証的な伝統です。
欧州評議会は1990年代から複言語主義を言語教育政策の中心概念として推進してきました。その核心は、個人が複数の言語と文化的経験を積み重ねる中で、それらを厳密に分離するのではなく、統合されたコミュニケーション能力として発展させるという考え方です。Common European Framework of Reference for Languages(CEFR)は、「個人はこれらの言語と文化を厳密に分離した精神的区画に保管するのではなく、すべての言語の知識と経験が貢献するコミュニケーション能力を築き上げる」と述べています。これは、英語・日本語・その他の言語を「別々の引き出し」に入れておくのではなく、互いに絡み合う統合的な資源として捉えるという発想の転換です。
しかし著者たちは、欧州評議会のアプローチにも問題があると指摘します。CEFRの言語レベル記述子(A1からC2まで)は、皮肉なことに、複言語主義が克服しようとしている「母語話者を理想とした言語純粋主義」を強化してしまっているのです。また、植民地時代の欧州言語、とりわけ英語を外国語として推進することが、新自由主義的なアジェンダ―効率性、生産性、労働力の柔軟化―と結びつくリスクも批判されています。日本でのCEFR活用の文脈でも、この点は慎重に受け止める必要があります。英語力を「グローバル人材の育成」と直結させる議論は、こうした批判の射程内にあるからです。
トランスランゲージングとは何か―「一つのレパートリー」という発想
トランスランゲージングという概念は、もともとウェールズ語で「trawsieithu」として生まれ、Cen Williamsが1996年に使い始めました。その後、Ofelia Garcíaらによって理論的・教育的な概念として拡張されました。簡単に言えば、話者が「英語」「日本語」といった名前のついた言語の境界を意識せず、自分の持つすべての言語資源を自由に使って意味を作り出すことがトランスランゲージングです。
Otheguy、García、Reidによる2015年の定義を著者たちは引用しています。トランスランゲージングとは「社会的・政治的に定義された名前のついた言語の境界に縛られることなく、話者の完全な言語レパートリーを展開すること」であるとされています。これは、二言語話者が二つの独立した言語システムの間を行き来するのではなく、一つの統合されたセミオティック(記号的)システムを持つという考え方です。
この概念には明確な政治的・社会的含意があります。「trans-」という接頭辞は「越境」と「変革」を意味し、言語のヒエラルキーを解体し、学校や社会で従来は価値を認められてこなかった流動的な言語実践を可視化・承認しようとする意図があります。日本の教室に当てはめれば、英語の授業中に英日を自在に行き来しながら思考する生徒の実践は、「能力の欠如」ではなく、高度なコミュニケーション能力の発現として積極的に評価されるべきだということになります。
二つの概念の共通点と緊張関係
著者たちが本論文の中核に据えているのは、複言語主義とトランスランゲージングの「対話」です。この二つは、どちらも世界中に複言語的な話者と実践が広く存在することを出発点とし、「言語は固定した境界を持つ個別システムではない」という認識を共有しています。また、Bakhtinのヘテログロッシア(heteroglossia)の概念―あらゆる言語的発話は多くの声が折り重なる多声的な産物であるという考え―を共通の理論的基盤として参照しています。
しかし両者の間には緊張関係もあります。とりわけ「コード・スイッチング」という現象の扱いに顕著です。複言語主義の研究者たちにとって、コード・スイッチング(話の途中で使う言語を切り替えること)は、話者がどの言語をいつ使うかという選択を分析するための有効な分析カテゴリーです。一方、トランスランゲージングの観点からは、言語間に境界があるという前提自体が問題視されるため、コード・スイッチングという概念は「言語分離イデオロギーへの迎合」と見なされかねません。「なぜ今、その言語で、そのことを?」という問いを立てる複言語主義の分析的姿勢と、「そもそも言語に境界はない」と主張するトランスランゲージングの存在論的姿勢の間には、根本的な認識論的相違があるのです。
また、話者の能力の捉え方にも違いがあります。トランスランゲージングは二言語話者の能力を「どの段階においても常に完全」と見なす一方、複言語主義の伝統では、能力は「創発的で、状況依存的で、常に変化と発展の過程にある」と捉えます。この違いは、教育目標や評価基準の設定に直結します。
教育実践への含意―なぜ現場に根付かないのか
本論文が特に重要な貢献をしているのは、理論と教育実践の間の深い溝を正直に指摘している点です。著者たちは、複言語主義的ないしトランスランゲージング的な教育アプローチが学術世界では高く評価されているにもかかわらず、実際の教育現場では思うように浸透していないことを率直に認めています。
その理由の一つとして挙げられるのが、評価の問題です。Garcíaらは、「トランスランゲージングの形式を用いた評価は、生徒が全言語レパートリーを使って知っていることを示せるようにする」と主張しながらも、「そのような評価はまだ開発されておらず、多くの教師や政策立案者から強い抵抗を受けるだろう」と認めています。これはまさに日本でも直面している問題です。英語4技能評価が導入されても、依然として「正確さ」を中心とした単一言語的な評価観が根強く残っているからです。
また教師の意識の問題も見逃せません。多くの教師は、生徒が母語を「足場かけ(scaffolding)」として使うことには寛容でも、それを積極的な「教授リソース」として活用することには消極的です。これは日本の英語教師の多くが共感できる状況ではないでしょうか。「英語で英語を教えるべきか、日本語を使ってもよいか」という議論は今も続いていますが、本論文が示す視点は、その二項対立自体を問い直すものです。
日本の英語教育への示唆
日本の英語教育は長年、「理想的な英語母語話者」を目標として設定してきました。発音、語彙、文法のすべてにおいて、英語母語話者の規範が絶対的な評価基準とされてきたのです。しかし本論文が提示する複言語主義・トランスランゲージングの視点は、その前提を根底から問い直します。Lüdi and Py(2009)を引用しながら著者たちが描く複言語的話者像は、「自由で能動的な主体として、資源のレパートリーを蓄積し、必要・知識・気まぐれに応じてそれを活性化し、必要に応じて修正・組み合わせる者」です。これは、英語母語話者という到達不可能な「完璧な他者」を目指すのではなく、自らの複言語的資源を創造的に使いこなすことを目標とするという、根本的なパラダイムの転換を意味します。
さらに著者たちは、学習者の視点が研究において十分に取り上げられていないことを問題提起しています。教師の困難や戦略ばかりが注目され、生徒自身が「自分の言語実践が教室に持ち込まれること」をどう感じているかは、あまり問われてきませんでした。生徒にとって、日本語や英語が混在する言語実践は、時に学校の規範への抵抗の声でもあります。それを教室の中に回収することが必ずしも「解放」にはならない場合もある。この指摘は、実践の設計に際して常に念頭に置くべき警告です。
関連研究との対比と本論文の位置づけ
本論文は、Cummins(2008)の「二つの孤立(two solitudes)」批判やGogolin(1994, 2002)の「単言語的ハビトゥス(monolingual habitus)」論、そしてCenoz and Gorter(2017)の「持続可能なトランスランゲージング」論と深く連動しており、複言語教育研究の地図の中で重要な結節点を形成しています。特に注目すべきは、欧州の複言語主義研究の伝統(主にGumperz、Lüdi、Nussbaum、Mondadaらの相互作用社会言語学)と、英語圏を中心に発展したトランスランゲージング研究(García、Li Wei、Canagarajahら)の「橋渡し」を試みているという点です。これまでこの二つの流れはしばしば並行したまま交差せずにいましたが、本論文はその対話を明示的に促しています。
学術的な観点からは、「言語を名前のついた離散システムとして扱うことへの抵抗」という共通の認識論的姿勢が、両概念を結びつける核心にあることを本論文は明確にしています。これはApplied Linguisticsにおける「言語イデオロギー批判」の潮流とも呼応しており、Pennycook(2017)のセミオティックなアセンブラージュ論や、Blackledge and Creese(2017)の身体とトランスランゲージングの議論とも接続可能です。
批評的考察―何が語られ、何が語られなかったか
本論文の最大の強みは、互いに異なる研究伝統を持つ二つの概念の「共通の懸念」を誠実に取り出し、それを教育実践への行動要請と結びつけている点にあります。しかし批評的な観点からいくつかの点も指摘できます。
まず、日本を含むアジアの文脈への言及がほぼ皆無である点は否めません。本論文は主に欧州と北米の文脈で議論が展開されており、「歴史的に周縁化された言語的マイノリティ」として想定されているのは移民背景を持つ人々です。日本のように、植民地的文脈ではなく、高度に単一言語的・単一文化的な社会の中で外国語としての英語を学ぶ文脈では、これらの概念の適用には相当の文脈化が必要です。
また、本論文が「変革の可能性」に楽観的な論調を取りつつも、現場での抵抗や困難については比較的短い言及にとどまっている点も気になります。教師教育と協働的行動研究の重要性が結論部で示唆されますが、具体的にどのような研究・実践が有効かという点はやや抽象的なままです。
それでも、この論文が提起する根本的な問い―「一言語だけという規範は誰のためのものか」―は、日本の英語教育にとってもきわめて切実です。グローバル化が進む中で、英語を「完璧に使いこなすための道具」として捉える観点から、英語を「自分の複合的な言語資源の一部として使いこなすための実践」として捉える観点へのシフトは、カリキュラム設計から評価方法、教師研修に至るまで、幅広い実践的変革を要請します。その変革は、一夜にして起きるものではありません。しかし、本論文を読むことは、その変革に向けた思考の出発点として、確かな価値を持っています。
Vallejo, C., & Dooly, M. (2020). Plurilingualism and translanguaging: Emergent approaches and shared concerns. Introduction to the special issue. International Journal of Bilingual Education and Bilingualism, 23(1), 1–16. https://doi.org/10.1080/13670050.2019.1600469
