サウジアラビアの大学で英語を教える教師101人に「トランスランゲージング(translanguaging)についてどう思いますか?」と聞いたところ、7割近くが「有効だ」「重要だ」と答えました。ところが、「実際に授業でやっていますか?」という問いに対しては、数値が急落するのです。この落差こそが、本論文の中心にある問いであり、また読者の心にじわじわと迫ってくるリアルな問題です。
本稿で取り上げるのは、Mayez Almayez(サウジアラビア・ハイール大学英語学科准教授)が2022年にAsian-Pacific Journal of Second and Foreign Language Educationに発表した論文、”Translanguaging at a Saudi University: discrepancy between English language teachers’ attitudes and self-reported pedagogical practices”です。著者のAlmayezは、言語教師のアイデンティティや専門的能力開発、Non-native English-speaking teachers(NNESTs)に関わる問題を主要な研究領域としており、本論文はそうした問題意識の延長線上に位置する実証的研究です。サウジアラビアという、英語教育においてきわめて厳格な「英語のみ」方針が制度的に維持されている文脈で、現場の教師たちが何を考え、どう行動しているかを丁寧に問い直した一作です。
トランスランゲージングとは何か
まず、この論文のキーワードである「トランスランゲージング」について整理しておきましょう。日本語でも「トランスランゲージング」とそのままカタカナで使われることが多い概念ですが、平たく言えば「自分が持っているすべての言語資源を柔軟に使いこなしながらコミュニケーションする実践」のことです。英語を学ぶ学習者が、わからない語彙を理解するために母語で考えたり、クラスメートと母語で話し合ってから英語で発表したりする行為がその典型です。
この概念は1980年代にウェールズの研究者Cen Williamsが提唱し(ウェールズ語では”Trawsieithu”と表記されます)、その後García & Wei(2014)らの研究によって世界的に広がりました。重要なのは、トランスランゲージングは語彙力が不足したときの「逃げ」ではなく、多言語話者が意図的かつ戦略的に言語資源を選択する積極的な行為だという点です。Otheguy, García, & Reid(2015)の定義を借りれば、「話者の完全な言語レパートリーを、社会的・政治的に定義された言語の境界に縛られることなく展開すること」です。
近年では、ジェスチャーや表情、視覚的手がかり、さらにはデジタル上の絵文字まで含めたマルチモーダルな資源を活用する実践も、広義のトランスランゲージングに含まれると考えられるようになっています。言語は人間のコミュニケーションのひとつの様式に過ぎず、それをあえて単一の言語に閉じ込めようとする発想自体、現実の言語使用からかけ離れているというわけです。
20世紀の「英語だけ」神話とその限界
20世紀のTESOL(他言語話者への英語教授)の世界では、「英語は英語で教える」という考え方が主流でした。直接法(Direct Method)、オーディオリンガリズム、コミュニカティブ・ランゲージ・ティーチング(CLT)といった主要な教授法は、いずれも学習者の母語(L1)使用を問題視し、「目標言語に最大限さらされることが言語習得を促進する」というPhillipson(1992)の「単一言語的前提(monolingual assumption)」を支持してきました。
この考え方は現場にも深く根付いており、Creese & Blackledge(2010)が指摘するように、授業中のL1使用は「間違い」「悪い実践」「恥ずかしいこと」とさえ見なされてきました。ところがグローバル化、移民の増加、テクノロジーの進歩によって、英語学習者はますます多様な言語背景を持つ人々と交わるようになっています。現実の言語使用が「単一言語」では到底説明できなくなった今、この前提は根本から問い直されているのです。
サウジアラビアという特殊な文脈
本論文が特に注目されるのは、KSA(サウジアラビア王国)という文脈の特殊性にあります。多くのサウジアラビアの大学では、TESOL政策として学習者の母語使用を明確に禁じており、英語以外の言語は「言語習得の妨げ」として制度的に排除されています。本研究の舞台となったのは、年間約7,400人の学生が在籍する大規模大学の予備年度プログラム(Preparatory Year Programme、以下PYP)です。このPYPでは、学生は週20時間の集中英語プログラムを受講します。英語が他のすべての科目の教授言語でもあるため、英語習得は実質的に大学生活全般の鍵を握っています。
英語教育センター(English Language Centre、ELC)には26の国籍から集まった200人のフルタイム教師が在籍しており、今回の研究はそのうちの101名が自発的に参加しました。男性59名、女性42名で、出身国はアメリカ(17名)、インド(16名)、南アフリカ(15名)、ヨルダン(14名)、スーダン(12名)など多岐にわたります。母語も英語(39名)、アラビア語(34名)、ウルドゥー語(12名)などバラエティ豊かで、これは多言語・多文化的な教師集団が同一の「英語のみ」ポリシーのもとで働いているという、研究としてきわめて興味深い状況です。
調査の設計と手法
データ収集にはオンライン質問紙が用いられました。Moody, Chowdhury, & Eslami(2019)およびNambisan(2014)の先行研究から採用・改変した44問から成り、5件法リッカート尺度による閉鎖型設問34問と、自由記述式の開放型設問5問で構成されています。閉鎖型設問は「トランスランゲージングの効果・弊害・機能・理由・根拠」に関する態度を測定し、開放型設問は閉鎖型回答の背景にある教師の考えを引き出すために設計されています。量的データには記述統計が、質的データにはテーマ分析(thematic analysis)が用いられています。
匿名性が確保されたオンライン形式の質問紙を選択したことにも意味があります。論文中でも言及されているように、Carroll & van den Hoven(2017)のUAEにおける研究では、参加者が自分のトランスランゲージング実践を観察・記録されることを「リスクが高すぎる」と感じて拒否したという経験が報告されています。匿名の自己申告形式であればこそ、教師たちは率直に自分の考えと行動を語ることができたと言えます。
「やったほうがいい」と「やっている」の大きな溝
さて、いよいよ本論文の核心的な発見に入りましょう。
態度の面では、調査に参加した教師の約7割(69.3%)が「授業で学生の母語を使うことは適切だ」と回答し、71.3%が「トランスランゲージングは新しい言語を習得するために不可欠だ」と答えています。「英語習得の妨げになるから母語を使うべきではない」という設問に対しては、60.4%が否定的な回答をしています。概して、教師たちはトランスランゲージングをポジティブに評価しており、特に「英語力の低い学生を支援する」場面では平均スコアが最も高く(M=4.03)、概念説明や教室管理、フィードバック、動機づけなどの場面でも「重要だ」と評価されています。
ところが、実践の頻度を尋ねた設問では、全項目の平均が2.57(5段階中)にとどまります。つまり「ほとんどやっていない」に近い数値です。「語彙の説明」における使用頻度が最も低く(M=2.38)、「方向説明」「教室管理」「ほめる」「関係構築」「フィードバック」「概念説明」もいずれも2.4〜2.56の範囲に収まっています。唯一、「英語力の低い学生を支援する」場面でのみ、実践スコアが3.39とやや高くなっていました。
学生によるトランスランゲージングを「奨励しているか」という設問でも同様の傾向が見られ、「ピア活動での支援」のみがM=3.08とやや中立的な値を示した以外は、すべて2点台でした。
態度と実践の間のこの明確な乖離こそが、本論文の最も重要な知見です。
なぜ実践が伴わないのか―教師たちの声
自由記述欄では、多くの教師がこの矛盾の背景にある事情を率直に語っています。最も多く挙がったのは、制度的な強制力です。「大学のルールで英語しか使えない」「アラビア語の価値は認めているが、仕事を失いたくない」「契約雇用なのでリスクを冒したくない」「英語のみ使用を明示的に指示されている」といったコメントが相次ぎました。これは、Deroo & Ponzio(2019)が指摘した「制度的な単一言語イデオロギーへの圧力」そのものです。
次に多かったのは、「学生の母語(アラビア語)を自分が話せない」という理由です。しかしAlmayezは、これは教師たちがトランスランゲージングの本質を誤解していることの表れだと指摘します。というのも、トランスランゲージング実践において教師がL1に精通している必要はなく、「学生の声と入力が正当かつ価値あるものとして扱われる教室環境を作ること」(Wang, 2019)が本質だからです。さらに少数ながら、「言語は目標言語だけで教えるのが最善だ」という積極的な単一言語主義信仰に基づいて実践を控えている教師もいました。
日本の英語教育への示唆
この研究は、サウジアラビアという文脈で行われたものですが、そこで浮かび上がる問題は日本の英語教育関係者にとっても決して他人事ではありません。
日本でも「英語の授業は英語で行うことを基本とする」という方針が、高校学習指導要領(2009年改訂)以降に明記され、現場の教師たちを長らく悩ませてきました。理念と現実の乖離という点では、本論文の知見と著しく重なります。「英語だけで教えなければならない」というプレッシャーのもとで、日本語を使いたいと思っていても使えない、あるいは使うことへの罪悪感を感じている教師は、日本にも相当数いるはずです。
さらに本論文が示唆するのは、「英語のみ方針」が教師の自律的な実践判断を奪い、学習者への最適な支援を妨げる可能性があるということです。英語力の低い学習者への支援の場面でのみ、実践スコアが比較的高かったという結果は、追い詰められた状況では制度的規範よりも学習者への教育的責任感が勝ることを示唆しています。これは日本の現場でも観察されるパターンに近いのではないでしょうか。
また、本研究が浮き彫りにした「教師の知識の欠如」という問題も重要です。「学生の母語を話せないからトランスランゲージングができない」という誤解は、日本でもそのまま当てはまります。英語授業でトランスランゲージングを「許可する」ことと、「教師がその言語を話せること」は別問題です。この誤解を解くためには、教員養成・研修課程でトランスランゲージングの概念と実践モデルを明示的に扱う必要があるとAlmayezは主張しており、日本の英語教員養成にも示唆的な指摘です。
関連研究との対比から見えること
本論文はNambisan(2014)やYuvayapan(2019)、Fang & Liu(2020)といった先行研究を丁寧に参照しながら、知見の独自性を位置づけています。特に興味深いのは、「トランスランゲージングに否定的な教師でも、実際にはL1を使っていた」というDoiz & Lasagabaster(2017)の逆説的な発見との対比です。本研究では、「肯定的な態度を持ちながら実践しない」という反対の乖離が観察されており、制度的文脈が態度と実践の関係を双方向に歪める可能性を示しています。
また、高等教育という文脈への特化も本研究の意義のひとつです。Burton & Rajendram(2019)が「高等教育におけるインストラクターのトランスランゲージングへの態度に関する研究はきわめて少ない」と述べているように、大学の英語教師を対象とした研究は初等・中等教育に比べて蓄積が薄く、本論文はその空白を埋める貢献をしています。
研究の限界と今後の課題
著者自身が誠実に認めているように、本研究にはいくつかの限界があります。まず、サンプルが単一大学の教師101名に限られており、KSA全体への一般化には慎重さが必要です。次に、学生・保護者・政策立案者といった他のステークホルダーの視点が欠如しています。そして最も根本的な限界は、データが「自己申告」に基づいている点です。教師が「やっていない」と言っても、実際はやっているかもしれませんし、その逆もあります。教室観察や録画・録音データによる三角測量が、今後の研究には不可欠でしょう。
この点は、量的データ中心の研究が持つ構造的な限界でもあります。「信念と実践の乖離」を本当に理解するためには、教師の語りをより深く聞き出すインタビューや、実際の授業を記録したエスノグラフィックな手法が補完的に必要です。
政策と実践の両輪で変えていく
Almayezは論文の締めくくりとして、態度の変革だけでは不十分だと強調します。個々の教師の意識を高めることも大切ですが、それ以上に、制度的な政策変更が必要だというのです。Cummins(2007)の言葉を引きながら、「単一言語的な教授アプローチへの排他的依存から自由になったとき、はじめて言語教育に多様な可能性が開ける」と述べています。政策立案者は、現在の時代遅れな単一言語政策を見直し、多言語主義を規範として推進する公的な枠組みを整えることが求められているのです。
これは日本にとっても耳の痛い指摘です。「英語の授業は英語で」という方針が改訂された後も、英語以外の言語資源を積極的に活用することへの制度的サポートは十分とは言えません。現場教師への信頼と裁量を与え、トランスランゲージングを「許されない逸脱」ではなく「有効な教育選択肢」として位置づける政策的な後押しが必要ではないでしょうか。
本論文は、教師が「正しいと思っていること」と「実際にやっていること」の間に深い溝があることを、101人の声を通じて鮮明に描き出しました。その溝を生み出しているのは、個々の教師の怠慢や無知ではなく、制度が生み出す恐れと制約です。サウジアラビアという遠い国の話のように見えて、実は日本の教室でも同じ緊張が静かに続いているのかもしれません。教師たちの「やりたいけどできない」という声に、私たちはどう応えるべきか。本論文はそう問い続けています。
Almayez, M. (2022). Translanguaging at a Saudi University: Discrepancy between English language teachers’ attitudes and self-reported pedagogical practices. Asian-Pacific Journal of Second and Foreign Language Education, 7(1), Article 20. https://doi.org/10.1186/s40862-022-00148-3
