「英語だけ」の授業から脱却する―ペダゴジカル・トランスランゲージングという新しい選択肢
「英語の時間は英語だけ」という呪縛
日本の英語の授業で長年当たり前とされてきたことがあります。それは「英語の時間は英語だけを使う」というルールです。文部科学省が推進してきた「英語で教える英語の授業」という方針は、現場の教師たちに大きなプレッシャーを与えてきました。母語である日本語を使うことは、まるで「禁じ手」であるかのように扱われてきたのです。しかし、本当にそれは正しいのでしょうか。
Jasone CenozとDurk Gorterによる論文 “Teaching English through Pedagogical Translanguaging”(2020年、World Englishes誌掲載)は、まさにその問いに真正面から挑んでいます。二人の著者はスペイン・バスク地方のバスク大学に所属する研究者であり、バスク語・スペイン語・英語という三言語が複雑に絡み合う社会的文脈の中で長年にわたり多言語教育を研究してきました。その経験に裏打ちされた議論は、単なる理論的提言にとどまらず、非常に説得力を持っています。
この論文のキーワードは「ペダゴジカル・トランスランゲージング(pedagogical translanguaging)」です。これは、教師が意図的に複数言語を教室内に持ち込み、学習者の言語レパートリー全体を活用した教授戦略を指します。言い換えれば、英語を学ぶ際に、学習者がすでに持っている他の言語の知識や経験を積極的に活かそうという考え方です。
トランスランゲージングとは何か―コードスイッチングとの違い
「トランスランゲージング」という言葉を初めて聞く方も多いかもしれません。よく混同されるのが「コードスイッチング」という概念で、こちらは日常的に「二言語間を行き来する」現象を指します。しかしトランスランゲージングは、単なる言語の切り替えではありません。Garcia & Li Wei(2014)の定義によれば、それは「話者が構築し使用する、独自かつ複雑に相互連関した言語実践」です。つまり、複数の言語を別々の引き出しに分けて管理するのではなく、それらが一体となった豊かなレパートリーとして機能しているという考え方です。
この概念の起源は、1980年代のウェールズのバイリンガル教育にさかのぼります。ウェールズ語と英語を交互に使って、どちらの言語も強化するという教授法が実践されていたのです。たとえばウェールズ語でテキストを読み、それを英語で要約させるというような授業です。強い言語で弱い言語を支えるという発想は、今も本質的な部分で生きています。
論文はその後のトランスランゲージング概念の展開も丁寧に整理しています。Garcia(2009)による「バイリンガルが自分たちのバイリンガルな世界を理解するために行う多様な言語実践」という広義の定義から、Otheguy、Garcia & Reid(2015)による「社会的・政治的に定義された言語の境界に縛られずに、話者の全言語レパートリーを展開すること」という、より急進的な定義まで、理論的系譜が明快に示されています。
「完璧な英語ネイティブ」を目標にすることの問題
この論文が特に日本の英語教育関係者の心に響くはずの議論があります。それは「理想のネイティブスピーカー神話」への批判です。
日本の英語教育においても、「英語らしい英語」「ネイティブのような発音」を目標とする傾向は根強く残っています。英語が達者でも「どこかアジア訛り」があると自信を持てない教師や学習者は少なくないでしょう。この論文はそのような状況を「不当である」と明確に述べています。Cook(1992)が提唱した「多重能力(multicompetence)」の概念を引きながら、著者たちは「多言語話者の能力は、理想的なモノリンガルネイティブスピーカーという基準で測ることができない質的に異なるもの」であると主張します。
Jenkins、Cogo & Dewey(2011)がリンガ・フランカとしての英語(ELF)研究の文脈で述べているように、多言語話者は「失敗したネイティブスピーカー」ではなく、「多言語資源を駆使する高度にスキルのあるコミュニケーター」です。この視点は、非英語母語話者の英語教師が自己肯定感を持ちにくい日本の状況に対して、強力な反論を提供してくれます。英語を外国語として学ぶ日本の学習者や、日本語話者である英語教師こそ、実は「多言語話者」という豊かなアイデンティティを持つ存在なのです。
Ortega(2014)のことばも印象的です。「モノリンガリズムが暗黙の規範とされ、バイ/マルチリンガリズムの現実は不可視化され、出生と単一言語環境による言語の所有権が譲れない権利と優位性として高められている」という指摘は、日本の英語教育の構造的問題を射抜いています。
「英語だけ」教室が奪っているもの
著者たちは、英語のみの指導方針が学習者から何を奪っているかを具体的に示します。多言語話者は自分の言語レパートリー全体を使うことで、より効果的な学習者になれます。しかし、英語だけの方針はその資源を意図的に封鎖してしまっています。
たとえば英語の単語を覚える際、日本語の漢語とラテン語系の英語単語の意味的類似性に気づくことができれば、語彙習得は格段に楽になります。「経済」と”economy”、「民主主義」と”democracy”のような例です。あるいは日本語の文章構造と英語の文章構造を対比的に分析することで、英語の語順やパラグラフライティングの論理を深く理解できます。これはまさにペダゴジカル・トランスランゲージングの実践です。
論文では、CenozとGorter自身が関わるバスク語・スペイン語・英語の三言語環境での研究も紹介されています。Leonet、Cenoz & Gorter(2017)による、バスク語・スペイン語・英語の複合語構造を比較する授業実践の報告は、言語類型論的に離れた言語同士でも横断的な学習が可能であることを示す興味深い事例です。日本語と英語の距離を考えると、完全な転移は難しい場面もあるでしょう。しかし著者たちは、語彙レベルだけでなく、語用論的・談話的な要素においても言語横断的なアプローチが有効だと主張しています。たとえば、日本語と英語で「抗議の手紙」を書く場合の構成の違いを考えさせるような活動は、メタ言語的気づきを促す有力な手段になり得ます。
「多言語化」の波と日本の文脈
論文は21世紀における英語と多言語主義の関係についても詳しく論じています。英語が世界の共通語として普及する一方で、英語話者の多くはすでに多言語話者であるという事実が強調されています。Seidlhofer(2011)やJenkins(2015)も指摘するように、英語は多くの話者にとって第一言語ではなく、複数の言語を持つ人々のレパートリーの一つにすぎません。
日本においても、外国籍の児童生徒数は急増しており、ポルトガル語・中国語・フィリピノ語・スペイン語などを家庭言語とする子どもたちが多くの学校に在籍しています。こうした子どもたちにとって、「英語の授業では英語だけ」という方針はさらに過酷なものとなります。母語も学校言語(日本語)もまだ十分に定着していない状況で、さらに英語だけで学べという要求は、学習者のアイデンティティと言語資源を完全に無視したものと言わざるを得ません。ペダゴジカル・トランスランゲージングは、こうした多言語背景を持つ児童生徒への教育においても、即座に応用可能な視点を提供しています。
少数言語保護との緊張関係―理論の誠実さ
この論文が特に優れていると感じるのは、トランスランゲージングの課題にも正直に向き合っている点です。バスク語のような少数言語が存在する文脈では、トランスランゲージングが少数言語を侵食するリスクがあると著者たちは認めています。スペインのバスク自治州では、住民全員がスペイン語に堪能である一方、バスク語の話者は人口の三分の一程度にとどまります。このような非対称な力関係の中で、言語の境界を無制限に緩めることは、強い言語(スペイン語)が弱い言語(バスク語)を侵食することを助長しかねません。
著者たちはこの緊張関係を「機能的な息吹きの空間(functional breathing spaces)」という概念で解決しようとしています。少数言語が生き続けるためには、その言語を使うための保護された空間が必要だという考え方です。これは日本においても重要な示唆を持ちます。アイヌ語や琉球諸語のような危機言語を持つ日本において、トランスランゲージングを無批判に適用することは問題を含む可能性があります。多言語主義への移行は、言語間の力関係への敏感な配慮を伴わなければならないのです。
関連研究との対比―CLILとの関係はどこに
日本でも近年注目されているCLIL(Content and Language Integrated Learning、内容言語統合型学習)との関係について、論文は直接言及していませんが、連関を考えることは有益です。CLILが「言語と内容を統合して教える」ことに焦点を当てているとすれば、ペダゴジカル・トランスランゲージングはそこに「複数言語の活用」という次元を加えるものと言えます。CLILの授業において、学習者の母語や他の既知言語を積極的に資源として組み込むことで、内容理解と言語発達の双方を促進できるという方向性は、両アプローチの生産的な融合点を示しています。
また、Cummins(2017)の「転移のための教授(teaching for transfer)」という概念との親和性も高く、言語間の共通基底能力(Common Underlying Proficiency)を活用するアプローチとして理論的に整合しています。日本の英語教育研究者にとって、これらの理論的枠組みをペダゴジカル・トランスランゲージングと接続しながら再考することは、今後の研究アジェンダとして非常に有望です。
評価と課題―実践への橋渡し
この論文の最大の貢献は、理論的に錯綜しがちな「トランスランゲージング」という概念を、「ペダゴジカル・トランスランゲージング」として教育実践の文脈に着地させた点にあります。単なる自然発生的な多言語使用ではなく、教師が意図的に設計した教授戦略としての位置づけは、現場の教師にとっても取り組みやすい概念的枠組みを提供しています。
一方で、課題も残ります。論文自体は理論的考察が中心であり、具体的な授業実践のプロトコルや、効果を測定するアセスメント方法については深く立ち入っていません。著者たちも認めているように、多言語的なアセスメント手続きの開発は今後の重大な課題です。日本の英語教育における評価は、現状では依然として単一言語的な枠組みに縛られており、学習者の多言語能力を総合的に評価する仕組みは乏しいままです。
また、教師研修の問題も無視できません。ペダゴジカル・トランスランゲージングを実践するためには、教師自身が多言語主義への意識を持ち、学習者の母語や既習言語に一定の理解を持っている必要があります。日本の大学院レベルの英語教師教育プログラムにおいて、こうした視点がどれほど取り上げられているかは、改めて問い直されるべき点です。
日本の英語教育へのメッセージ
最後に、この論文が日本の英語教育関係者に伝えるメッセージを整理しておきたいと思います。英語の授業で日本語を使うことは、「怠慢」でも「逃げ」でもありません。学習者がすでに持っている言語資源を戦略的に活用することは、理論的に正当化される教授行為です。英語しか使わない授業が必ずしも優れた英語教育になるわけではなく、学習者を「不完全な英語ネイティブの卵」として扱うことは、彼らの多言語話者としての豊かなアイデンティティを損なうことにもなりかねません。
CenozとGorterの論文は、英語教育の常識を問い直す上で非常に重要な一石を投じています。「英語だけ」という信念が、実は特定のイデオロギーに基づく選択であったことに気づかせてくれます。短い。でも、その気づきこそが、教育実践を変える最初の一歩になるはずです。
Cenoz, J., & Gorter, D. (2020). Teaching English through pedagogical translanguaging. World Englishes, 39(2), 300–311. https://doi.org/10.1111/weng.12462
