はじめに―多言語の国で行われた小さな、しかし重要な研究
英語の授業で「英語だけを使わなければならない」というプレッシャーを感じた経験は、日本の教師なら誰しも持っているのではないでしょうか。あるいは逆に、「母語である日本語を使ってしまったら英語学習にならない」という不安を抱いたことがあるかもしれません。今回取り上げる論文は、そうした「一言語主義」の呪縛に対して、3歳の子どもたちの姿を通じて一石を投じる研究です。
Claudine KirschとSimone Mortiniによる”Engaging in and creatively reproducing translanguaging practices with peers: a longitudinal study with three-year-olds in Luxembourg”(2023年、International Journal of Bilingual Education and Bilingualism掲載)は、ルクセンブルクという小国の幼児教育の場で、複数の言語を行き来しながら学ぶ3歳児たちの姿を1年にわたって記録した縦断的研究です。
Kirschはルクセンブルク大学人文学部の准教授で、多言語主義、言語学習と教授法、家庭の言語方針、幼児教育などを専門としています。彼女はMuLiPEC(幼児教育における多言語教育法の開発)というプロジェクトを率い、実践的な多言語教育の研究を積み重ねてきました。Mortiniはルクセンブルク国立青少年サービスに勤務し、幼児教育における多言語教育の実施と多様性推進を担っています。彼女の博士研究がこの論文の核をなしており、新興の多言語話者である幼児が保育者や仲間との相互作用の中でどのような言語行為主体性(language-based agency)を発揮するかを丹念に追った点に独自性があります。
ルクセンブルクという特殊な研究舞台
日本で「多言語国家」というと、スイスやベルギーが思い浮かぶかもしれませんが、ルクセンブルクはそれに輪をかけて複雑な言語状況を抱えています。公用語はルクセンブルク語、ドイツ語、フランス語の3つですが、人口の多様性を反映して実際にはさらに多くの言語が日常的に使われています。2016〜17年度の時点では、4〜6歳児の64%の第一言語がルクセンブルク語以外だったというデータもあります。
この研究が行われたのは、そうした超多言語環境の中にある2つの幼児教育施設です。一つは南部の町外れにある幼稚園(éducation précoce、3歳児が通う任意制の就学前教育)で、11人の子どもたちは主にポルトガル語やカーボベルデ・クレオール語を家庭で使っていました。もう一つはルクセンブルク中央部の町にあるデイケアセンターで、21人の子どもが11の異なる言語を持って通っていました。
この「舞台の特殊性」を意識しておくことは重要です。日本の読者からすれば「遠い国の話」と感じるかもしれませんが、むしろその極端な多言語状況ゆえに、言語と学習の関係が非常にクリアに見えてくるという点で、優れた研究フィールドと言えます。顕微鏡で細胞を観察するとき、特定の条件下で染色することで構造がより鮮明になるのと似た感覚です。
トランスランゲージングとは何か―「コード・スイッチング」とはどう違うのか
論文のキーワードであるトランスランゲージング(translanguaging)について、まず整理しておく必要があります。Garcia and Otheguy(2019)の定義に従えば、これは「話者がもつ全ての記号論的レパートリーを戦略的かつ協調的に展開すること」を指します。
少しかみ砕いて言えば、多言語話者が言語Aから言語Bへ「切り替える」(コード・スイッチング)のではなく、複数の言語を含む自分の言語資源全体を一つの統合されたシステムとして使うという考え方です。英語と日本語を「別の引き出し」に入れて必要に応じて交互に開くのではなく、両方が入った一つの「大きな引き出し」を持ち、状況に応じて取り出すものを変える、というイメージに近いかもしれません。
この概念は、「英語の時間は英語だけ」「日本語を使うと英語の習得が妨げられる」といった信念に対して、理論的な異議を唱えるものです。Garcia、Johnson、Seltzer(2017)が提唱したトランスランゲージング教育法は、子どもたちの言語的・文化的背景を資源として積極的に活かすことを目指す批判的教育学の一形態です。
研究の問いと方法―128本の映像が語るもの
この研究が設定した問いは二つです。まず、ルクセンブルクの2つの幼児教育施設において、保育者と2人の新興多言語話者の子どもがどのように典型的な言語活動に参加しているか。次に、その子どもたちが保育者の典型的な言語活動や言語支援ストラテジーを仲間との相互作用の中でどのように変形・実装するか、です。
研究者のMortiniは11ヶ月にわたって合計34日間、2つの施設で観察を行い、5分から20分の映像を128本記録しました。総計18時間に及ぶこれらの映像は、読み聞かせ、言語活動、朝のサークルタイム、美術活動、歌、自由遊びなど多岐にわたる場面をカバーしています。
焦点を当てた子どもは2人です。幼稚園のLanaは研究開始時3歳4ヶ月で、家庭ではカーボベルデ・クレオール語を使い、父親からフランス語で話しかけられることもあったようです。デイケアセンターのGaspardは開始時2歳5ヶ月で、家庭ではフランス語を話し、施設でルクセンブルク語に触れていました。
分析はSeedhouseの社会文化的会話分析の視点に基づき、大人と子どものやりとりを一往復ずつ丁寧に検討する「マイクロ分析」によって進められました。そして子どもたちが仲間との相互作用の中で大人の言語活動やストラテジーをどう再現するかを、模倣(imitation)、複製(replication)、解釈的再生(interpretive reproduction)の三段階で分類しています。
2つの教室のコントラスト―教師の質が子どもの言語を変える
研究の前半では、幼稚園とデイケアセンターでの大人と子どもの相互作用が対照的に描かれています。この対比が、研究全体の中でも特に説得力があります。
幼稚園のMs ClaraとMs Janeは、子ども中心の開かれた対話を実践していました。論文に引用されたExcerpt 1では、絵本の共有場面でMs Janeがルクセンブルク語で進行しながらも、子どもたちがポルトガル語、フランス語、カーボベルデ・クレオール語で答えることを自然に受け入れ、肯定し、さらに言語を豊かにするフィードバックを行っています。たとえばSilvianoが「O ovo de Pàscoa(イースターエッグ)」と言うとMs Janeはルクセンブルク語でそれを確認し、Lanaが「Ovo(卵)」と繰り返すと、今度は「Ouschteree(イースターエッグ)」とより豊かな表現を提示します。子どもたちは次々と自分の言語で応答し、時に個人的な話(子どものころ馬に乗ったこと)へと展開するほど活発な対話が生まれています。
一方、デイケアセンターのMr Tedの場面(Excerpt 2)は大きく異なります。彼は牛についての絵本を使いながら、ひたすら閉じた質問(「これは何ですか?」「大きい牛ですか小さい牛ですか?」)を繰り返し、子どもたちはほぼ一語か二語で答えるだけです。Gaspardが牛の乳房を指して「Rout(赤い)」と答えたとき、Mr Tedはその間違いに正しい言葉を教えることさえしませんでした。牛が速く走れるかという質問に子どもが「はい」と答えても、それを訂正せず別の子どもに移ってしまいます。これは教育上の明らかな機会損失です。
この対比から浮かび上がるのは、トランスランゲージングは単に「複数の言語を許容する」というだけでは不十分で、教師が子ども中心の開かれた教育観と言語支援ストラテジーを持っていなければ機能しないということです。Ms Janeが展開と発展的フィードバックを多用する一方でMr Tedが閉じた質問に終始したという差は、資格の違い(Ms Claraは教員資格を持つが、Mr Tedは保育士)と関連している可能性も論文は指摘しています。
子どもは教師の「かがみ」―解釈的再生の驚くべき精巧さ
論文の最もユニークな貢献は後半にあります。子どもたちが仲間との自由遊びの中で、大人から学んだ活動や表現を創造的に再現する様子が詳細に描かれています。
米国の社会学者William Corsaroが提唱した「解釈的再生(interpretive reproduction)」という概念がここで活きてきます。子どもたちは大人の世界から情報を「盗用」し、自分たちの仲間文化の中で創造的に変形して使うというものです。Lanaのケースが特に印象的です。Ms Janeが絵本の読み聞かせで「Brr et ass kal(ブルブル、寒い)」と言いながら両腕を体に巻きつけるジェスチャーをしていたとき、Lanaはそれを模倣していました。後日、Lanaが仲間と氷のかけらで絵を描いていたとき、彼女は突然「está frio(寒い)」とカーボベルデ・クレオール語で言いながら同じジェスチャーをしました。教師の表現を自分の母語に「翻訳」し、新しい文脈で使ったのです。これは単なる模倣ではなく、意味を理解した上での創造的な変形です。
さらに印象深いのは、毎朝の挨拶の歌「Moien [名前]. Bass du do? Ech sinn do.(おはよう[名前]。いる? いるよ。)」をLanaと仲間が変形したエピソードです。絵本で牛の絵を見ながら、仲間のAngelaが突然「Moie vaca moie vaca bass du do?」と歌い始めました。ルクセンブルク語の定型表現の中にポルトガル語の「vaca(牛)」を埋め込んだのです。数ヶ月後にはLanaも別の場面でカーボベルデ・クレオール語の「baby」やフランス語の「crocodile」を歌の中に織り込んでいました。3歳の子どもが、異なる言語の要素を組み合わせて遊びながら、自分たちだけの「多言語の歌」を作り出していたのです。
Gaspardの場合はまた別の意味で興味深いです。Excerpt 3では、Mr Tedが先ほど読んだ絵本について、GaspardとJeannette(仏語話者)がMr Tedの見ているそばで「再演」を行う様子が描かれています。JeannetteはMr Tedと同様に絵本を高く掲げ、指差しながら閉じた質問を繰り返し、Gaspardが答えるたびに「C’est bien, super(よかった、すごい)」と褒めます。しかしGaspardは「狼(Wëllef)」に相当する言葉として「Mëllef」という造語を繰り返し使い、Mr Tedが小声で正しい言葉を教えてもJeannetteが「正解」として頷いてしまいます。研究者たちはこれを大人の授業の「風刺画」と評しています。閉じた質問、短い答え、中身のない褒め言葉、フィードバックの欠如―Mr Tedの授業の最も顕著な特徴を、子どもたちは見事に再現していたのです。
批評的考察―研究の強みと限界
この研究はいくつかの点で評価されるべきです。まず、3歳という非常に幼い子どもたちを対象に、1年間の縦断的観察を行った点は方法論的に堅実です。128本の映像を丹念に分析した質的研究として、データの厚みは十分です。また、幼稚園とデイケアセンターという異なる制度的文脈を並置することで、教育の質の差異が子どもの言語行動に与える影響を浮かび上がらせた点も巧みです。
他の研究との比較においても意義があります。Erdemir and Brutt-Griffler(2020)が米国のトルコ語話者の幼児を対象に教師の言語支援ストラテジーの「ミラーリング」を示したのと軌を一にしますが、本研究ではそれをより低年齢の多言語話者に広げています。またAxelrod(2017)がニューヨークのHead Startプログラムで子どもたちの創造的な言語遊びを観察したのと共鳴しながら、本研究はより複雑な多言語環境を舞台にしている点で独自性があります。
一方、限界も率直に認めなければなりません。ケーススタディという性質上、わずか2人の子どもの観察に基づいており、一般化には慎重であるべきです。また、家庭での言語環境の詳細な分析がなく、ECECの影響と家庭の影響を分離することが難しい点も課題です。さらに、子どもたちの「解釈的再生」がどの程度意識的なものであり、どの程度無意識の反応なのかを判別することは、方法論的に困難です。Corsaroの解釈的再生の概念を援用していますが、それを3歳児に適用することの妥当性についての議論はやや薄いと感じます。
加えて、フォーマル教育(幼稚園)とノンフォーマル教育(デイケア)の差を議論する際に、資格の差異という変数が十分に統制されていないという問題もあります。より教育的に優れた実践を示したMs Claraは教員資格保持者で、Mr Tedは保育士資格のみです。MuLiPECの専門的研修を同じく受けているにもかかわらずこれほどの差が生じた理由として、資格・訓練の差以外にも、施設の理念や教育文化、クラスの規模など複合的な要因が考えられますが、その分析はやや表面的にとどまっています。
日本の英語教育への示唆―「英語だけ」の呪縛を解く手がかり
さて、この研究が日本の英語教育関係者に何を語りかけるかを考えてみます。
まず最も直接的な示唆は、教師の言語実践が子どもに深く内面化されるという事実です。Mr Tedの閉じた質問と中身のない褒め言葉が子どもたちに再現されたように、日本の英語授業でひたすら「Do you understand?」「Good!」を繰り返す教師の姿は、子どもたちに「英語の授業とはこういうものだ」という型を植えつけていないでしょうか。子どもたちは教師が思う以上に鋭く、教室の相互作用パターンを学習しています。
次に、母語の使用を「許容する」という姿勢を超えた積極的な位置づけが重要だという点です。Ms Janeは子どもたちがポルトガル語やフランス語で答えることを単に「許した」のではなく、それを価値あるものとして確認し、Luxembourgishとの橋渡しを行うことで言語学習を豊かにしました。日本の英語教育では、中学・高校レベルでも「できるだけ英語で」という方針が強まっていますが、日本語を戦略的に活用することが英語の理解や産出を深めることは、トランスランゲージングの研究が一貫して示しています。
また、仲間との相互作用が言語学習において果たす役割の重要性も示唆されています。Lanaが仲間との遊びの中で新しい言語を試み、創造的な変形を行えたのは、教師が「仲間同士で話してよい」という環境を整えていたからです。日本の英語教育では、ペアワークやグループワークが形式的に導入されることはありますが、子どもたちが実際に意味のある目的を持って言語を使う場面を設計することはまだ課題として残っています。
さらに、教師研修の在り方への示唆があります。同じMuLiPECの研修に参加した保育者たちでも、実践の質には顕著な差がありました。知識の習得と実践への転換の間にある隔たりを埋めるには、継続的なコーチングと省察の機会が必要だということです。日本でも英語教育改革の研修は頻繁に行われますが、研修後のフォローアップや実践の観察・省察のサイクルが十分かどうかは問い直す必要があります。
おわりに―3歳の子どもが示す言語学習の本質
3歳の子どもが、教師の言葉を自分の母語に翻訳し、仲間との遊びの中で使う。朝の挨拶の歌にポルトガル語の単語を埋め込んで遊ぶ。そして、教師の授業スタイルを仲間との絵本活動で忠実に再現する。こうした子どもたちの姿は、言語学習が「教えられる」ものであると同時に、「生きる」ものであることを思い起こさせます。
この論文は、多言語教育の専門的な議論に新たな視点を提供しながら、同時に教師とは何者であるかという根本的な問いを突きつけています。教師の言葉は、授業が終わった後も子どもたちの中で生き続けます。教師のストラテジーは、遊び場でも再演されます。それが豊かで開かれたものであるか、閉じた問いの繰り返しであるかが、子どもたちの言語の世界を大きく変えるのです。
日本の英語教育が「グローバル化」を掲げて久しいですが、その実践が子どもたちの持つ言語資源を本当に活かすものになっているかどうか、この小さなルクセンブルクの研究室から届く問いに、私たちはもう一度向き合う必要がありそうです。
Kirsch, C., & Mortini, S. (2023). Engaging in and creatively reproducing translanguaging practices with peers: A longitudinal study with three-year-olds in Luxembourg. International Journal of Bilingual Education and Bilingualism, 26(8), 943–959. https://doi.org/10.1080/13670050.2021.1999387
