英語の授業中に生徒が日本語で話しかけてきたとき、あなたはどう対応するでしょうか。「英語で言ってみて」と促す先生は少なくないはずです。あるいは、ALTとのTT(チームティーチング)の場面で、日本語を使うことへの罪悪感のようなものを感じた経験がある先生もいるかもしれません。こうした「授業中は英語だけ」という感覚は、実は非常に根深い思い込みに基づいています。その思い込みを「モノグロシア(monoglossic)バイアス」と呼び、真正面から問い直そうとしているのが、Sabrina F. SembianteとZhongfeng Tianによる論文 “Translanguaging: a pedagogy of heteroglossic hope”(2023)です。

本論文は、学術誌 International Journal of Bilingual Education and Bilingualism(第26巻第8号、919-923頁)に掲載された特集号の巻頭エディトリアルです。短い論文ではありますが、その内容は非常に射程が広く、バイリンガル教育・多言語教育に携わるすべての教育者にとって示唆に富んでいます。特に日本の英語教育の文脈において、このような視点はまだ十分に浸透しているとは言えず、だからこそ今読む価値があると筆者は感じています。

著者たちはどんな研究者か

Sembianteはフロリダアトランティック大学でTESOL・バイリンガル教育の准教授を務めており、特に新興バイリンガル児童の発達を支える教育的支援の研究で知られています。マイアミ大学で博士号を取得し、多言語環境における言語・リテラシー学習を専門としています。一方のTianはラトガーズ大学ニューアーク校の都市教育学部でバイリンガル教育の助教授を務めています。ボストンカレッジで博士号を取得し、ESLやデュアルランゲージ・バイリンガル教育(DLBE)の文脈において、社会正義の観点から多言語学習者のための教室づくりを研究しています。

二人ともに、単なる理論家というよりも教室の実践と深く結びついた研究者です。この論文がエディトリアルという形式をとりながらも、理論的な背景と具体的な実践事例を丁寧に結びつけているのは、そうした二人の姿勢を反映しているといえるでしょう。

「トランスランゲージング」とは何か

トランスランゲージング(translanguaging)という言葉自体は、1994年にウェールズの研究者Cen Williamsが初めて用いたとされています。もともとはウェールズ語と英語という二言語を授業の中で分離するのではなく統合的に使う実践を指すものでした。その後、Ofelia Garcíaらによって理論的に発展し、多言語使用者が持つ言語レパートリー全体を動員しながら意味を構築するプロセスとして広く定義されるようになりました。

わかりやすく言い換えると、「英語ネイティブスピーカーのように英語だけで考え、話し、書くことが理想」という発想を根本から疑う考え方です。例えば、英語を学ぶ日本の中学生が、「friendshipってどういう意味だっけ」と隣の席の子に日本語でこっそり聞く場面を思い浮かべてください。従来の考え方では、これは「英語を使えていない」失敗の証拠として映るかもしれません。しかしトランスランゲージングの視点からは、この行動は学習者が自分の持つ言語リソース全体を活用して意味を理解しようとしている、きわめて自然で積極的な学習行動なのです。

本論文では、このトランスランゲージングを「希望の教育学(a pedagogy of hope)」と位置づけています。希望という言葉には少し大げさな響きがあるかもしれませんが、後述するように、この概念が教室の中で果たす役割を考えると、その表現は決して誇張ではないことがわかります。

モノグロシアというバイアスの根深さ

「英語の授業では英語だけ」という考え方は、実は言語教育の世界では長らく主流でした。これは母語を介在させることが「混乱を招く」とか「英語習得を妨げる」という前提に基づいています。しかし、この前提自体が再検討を迫られています。

Sembianteらはこれを「モノグロシアバイアス」と呼んでいます。モノグロシアとは「一言語主義」とでも訳せる概念で、言語は互いに分離されるべきであり、理想的な話者はある言語を「純粋に」使うべきだという思想的傾向です。これはかつての植民地主義的な言語政策とも深く結びついており、特定の言語を「正しい」「高い」ものとして他の言語実践を周縁化してきた歴史を持っています。

日本の文脈で考えると、たとえば「英語の授業は英語で」という文部科学省の方針もその一形態と見ることができます。もちろんその政策の意図は理解できますが、それが「日本語を使うことは英語学習の失敗を意味する」という誤ったメッセージを無意識のうちに発してしまっているとしたら、それは問題です。Sembianteらの論文はそうした問い直しを静かに、しかし確実に促しています。

特集号の5本の論文が示すもの

本エディトリアルは5本の実証研究論文からなる特集号の巻頭言として書かれており、それらの論文の内容を有機的に結びつける役割を担っています。SembianteらはこれらをA pedagogy of hopeとして三つの柱のもとに整理しています。それは、(a)認知と言語学習の促進、(b)学習コミュニティへのアクセスの平等化、そして(c)公正・公平・人間的な教授実践の実現、という三点です。

Kirsch and Mortiniの縦断研究では、ルクセンブルクの保育園(3歳児)を対象に、一年間の追跡調査が行われました。子どもたちは教師の定型表現を自分の母語の特徴と融合させながら創造的に再構成し、それによって多数派言語の教室での活動に参加できるようになっていきました。これは非常に示唆的な発見です。言語を「分ける」のではなく、子どもたちが自然に行っているトランスランゲージングを尊重したとき、言語学習はより豊かに進むという実証的な証拠がここにあります。

SembianteらのDLBE(デュアルランゲージ・バイリンガル教育)プリスクールを対象とした研究では、教師がshow-and-tellの場面でどのように言語を柔軟に切り替えながら子どもたちの意味構成を支えているかが分析されています。教師がモノグロシア的な制約から自由になったとき、子どもたちは自分が持ち込んだ物品についてより豊かに語ることができたのです。

Ponzio and Derooの研究は少し異なる切り口を持っています。自分を「モノリンガル(単言語話者)」と認識しているESLの教員養成課程の学生たちに、Lin(2016)の提唱する「マルチモダリティーズ・エンテクスチュアリゼーション・サイクル(Multimodalities-Entextualization Cycle)」という枠組みを用いた学習活動を通じて、トランスランゲージングの理解を深めさせようとした実践です。マルチモーダルな表現活動が「入り口」となり、自分が英語しか話せなくても、多言語学習者のレパートリーを尊重することの意味を体感できたというのは、教師教育の観点から非常に重要な発見です。

Pradaの研究は、スペイン語の教員養成プログラムに在籍する一人の教師候補生に焦点を当てた現象学的研究です。この教師はもともと「Spanglish(スパングリッシュ)」に対して否定的な見方を持っていましたが、トランスランゲージング理論との出会いを通じて、そうした柔軟な言語実践に潜む価値と正当性を認めるようになりました。これは「言語の純粋性神話」が教師自身の中にいかに深く根ざしているかを示すとともに、適切な学習経験によってそれが変容しうることを示す事例として読むことができます。

最後のTian and Lauの研究は、北京語と英語のデュアルランゲージ教室における教師とリサーチャーの協働を一年間にわたって追ったものです。マイノリティー言語(ここでは北京語)の教室という特殊な文脈の中で、教師とリサーチャーが自分たち自身の言語アイデンティティや思想と向き合いながら、より公平な教授実践を探っていく過程が描かれています。これはトランスランゲージング実践に伴う「不確かさや緊張感」を正直に描いている点で、単なる「成功事例の紹介」に終わらない誠実さがあります。

日本の英語教育現場への示唆

ここで少し立ち止まって、日本の英語教育の現場と本論文の知見を結びつけて考えてみましょう。

日本の公立学校の英語教育においては、依然として「英語は英語で教えるべき」という信念が根強く存在しています。高校での英語による授業推進(いわゆる「英語で授業」方針)はその典型です。もちろん、英語を多く使うこと自体に問題はありません。しかし問題は、それが「日本語を使うことは悪いことだ」という思い込みと結びついたとき、生徒が自分の持つ言語資源を制限され、結果として学習への参加機会を失うことです。

Sembianteらの言葉を借りれば、「多数派言語による教育の場において、指導言語と多言語使用者の母語が一致しない場合、教師がトランスランゲージングのスペースをつくる柔軟性を持てるかどうかが、生徒の包摂と参加を左右する」のです。これは日本の教室にもそのまま当てはまります。英語しか使えない場面を強制することで、むしろ英語から疎外されてしまっている生徒が少なくないのではないかという問いは、真剣に受け止めるべきでしょう。

また、本論文が取り上げているPradaの研究は、教師自身の言語観の変容を扱っています。日本の英語教員も、知らず知らずのうちに「ネイティブ英語こそが正しい英語」「標準的な英語を使うべき」という規範的言語観を内面化しているかもしれません。トランスランゲージングの視点は、そうした教師自身の言語イデオロギーを反省的に問い直す機会を与えてくれます。

関連研究との対比―何が新しいのか

トランスランゲージング研究は、この論文が発表された2023年時点ですでに豊富な蓄積を持っています。Ofelia Garcíaの2009年の著作 Bilingual Education in the 21st Century は言わずと知れた基盤的文献ですし、Li Wei(2016, 2018)が提唱する「ポスト多言語主義(post-multilingualism)」は、言語間のイデオロギー的境界がすでに曖昧になった時代の言語観として本論文でも引用されています。

そうした先行研究と比べたとき、本エディトリアルの独自性はどこにあるでしょうか。第一に、マルチモーダル(多様な様式)なコミュニケーションをトランスランゲージングの一部として明示的に組み込んでいる点が挙げられます。Lin(2019)やLemke and Lin(2022)らの知見を踏まえ、言語は口頭や文字による表現に限られず、身体・映像・音楽など多様な記号的リソースを含むものとして再定義されています。これは、音楽・美術・体育などの授業においても多言語学習者の参加を促す可能性を示唆しており、英語科だけに限定されない射程の広さを持っています。

第二の独自性は、マイノリティー言語の文脈(minoritized languaging spaces)に焦点を当てた実践研究を丁寧に取り上げていることです。多言語教育の研究では、支配的言語(英語など)を学ぶ文脈に焦点が当たりがちです。しかし本特集では、北京語のような「少数派に置かれた言語」を用いる教室での実践も検討されており、言語間の権力関係に対する鋭敏な問題意識が感じられます。

第三に、縦断的研究(longitudinal studies)への注目です。言語習得や教師の意識変容は一朝一夕には起こりません。Kirsch and MortiniやTian and Lauの研究が一年間という時間軸で行われていることは、トランスランゲージングの効果を短期的なスナップショットではなく継続的なプロセスとして捉えようとする姿勢の表れです。これは、長期的な実践観察が日本の教育研究ではまだ十分でないことを考えると、今後の研究設計への示唆にもなります。

批判的に読む―論文の限界と課題

本論文を手放しに称賛するだけでは批評の役割を果たせません。いくつかの点については批判的に読む必要があります。

まず、エディトリアルという形式上の制約から、各研究の方法論的詳細には十分に踏み込んでいません。紹介されている5本の研究も、文脈や対象がそれぞれ異なるため、「トランスランゲージングが効果的だった」という結論の一般化には慎重さが求められます。特に、英語が支配的な言語環境で行われた研究の知見が、英語が外国語として学ばれる日本のような「EFL(English as a Foreign Language)」環境にそのまま適用できるかどうかは検討が必要です。

また、「希望の教育学」という表現は非常に魅力的ですが、それが理念的なレトリックにとどまるリスクもあります。現実の教室では、カリキュラムの制約、評価制度、保護者や管理職の期待、そして教師自身の負担といった多くの障壁が存在します。Prada(2021)の研究にあるように、一人の教師が変わることの困難さと可能性を正直に描く視点は評価できますが、制度的変革なしに個々の教師の実践変容だけを求めることへの問いかけも必要かもしれません。

さらに、「ヘテログロシア(heteroglossia)」という概念は、Bakhtinの思想から来るもので、多様な声や言語が共存する状態を指しています。これはトランスランゲージングの理念的背景として重要ですが、日本の教師にとってはなじみの薄い概念でもあります。論文のタイトルにこの語が掲げられている意義を十分に理解するためには、一定の理論的準備が求められます。

それでも「希望」と呼ぶ理由

批判点を挙げながらも、この論文が「希望」という言葉を使う必然性は十分に伝わってきます。

教室の中で、自分の言葉が否定されない経験をする子どもと、自分の言葉が「間違い」や「劣ったもの」として扱われる子どもとでは、言語学習への関与の質がまったく異なってきます。これは、英語を母語とする子どもたちだけの話ではありません。外国につながる子どもたちが増えている日本の学校においても、あるいは日本語話者として英語を学ぶ子どもたちにとっても、自分の言語資源が尊重されるかどうかは、学習者としての自己肯定感に直結します。

その意味で、トランスランゲージングは単なる教授法の一技術ではなく、言語を通じた存在の承認の問題です。Sembianteらが「人間化(humanizing)」という言葉を繰り返し使っているのは偶然ではありません。言語実践を承認することは、その言語を使う人間を承認することに他ならないのです。

おわりに―今すぐできることを考える

本論文は、壮大な理論的変革を一夜にして実現せよと迫るものではありません。むしろ、「今日の授業で、生徒が日本語を使ったとき、それをどう受け止めるか」という小さな問いから始まります。生徒の母語や母文化を排除しないこと。それだけでも、教室のあり方は少し変わります。

Ponzio and Derooの研究が示したように、マルチモーダルなアプローチ、つまり絵や映像や動き、音楽などを通じた意味づくりの活動は、言語的に多様な学習者にとって「入り口」になります。英語の授業にそうした活動を取り入れることは、特別な準備がなくても始められることです。

Pradaが描いた教師の変容は、完全ではなかったかもしれません。しかしその教師は、Spanglishを使う生徒の言語実践を「欠如」としてではなく「創造性」として見直すことができるようになりました。それは小さな一歩ですが、確かな一歩でした。

“Translanguaging: a pedagogy of heteroglossic hope” は、短い論文でありながら、言語教育の哲学的問いと教室の具体的実践を橋渡しする力を持っています。日本語話者として英語を学ぶ生徒たちのために、私たちがどんな教室をつくっていくか。その問いを静かに、しかし力強く呼び起こす一篇です。


Sembiante, S. F., & Tian, Z. (2023). Translanguaging: a pedagogy of heteroglossic hope. International Journal of Bilingual Education and Bilingualism, 26(8), 919–923. https://doi.org/10.1080/13670050.2023.2212835

最新の研究の解説記事を見逃したくない方へ
膨大な論文の中から、読むべき重要研究を厳選し、わかりやすくまとめた記事を毎週土曜日に届けします。 忙しい先生のための情報収集ツールとしてお使いください。
icon

By 吉成 雄一郎

株式会社リンガポルタ代表取締役社長。東京電機大学教授、東海大学教授を経て現職。コロンビア大学大学院ティーチャーズカレッジ(英語教授法)、信州大学大学院工学研究科(情報工学)修了。専門は英語教授法、英語教育システム開発。 さまざまな英語学習書、英検、TOEIC 対策書、マルチメディア教材等を手がけてきた。英語eラーニングや英語関係の教材・コンテンツの研究開発も行う。全国の大学、短期大学、高専等で使われているeラーニングシステム「リンガポルタ」も開発した。最近ではAIによる新しい教育システムの開発にも着手している。

📖新刊情報|英語教育学海外論文解説: 海外の研究をサクッと解説』の最新号(第8号)が刊行されました!▶特集テーマ:学び方を学ぶ英語教育―学習者自律・メタ認知・テクノロジー時代の自己調整学習

X
Amazon プライム対象